[."私"という存在

「ふふっ、やだ、彩さんってば。」
『そうはいうけど、知紗ちゃんの所みたいにうちの旦那はなんでもこなせるわけじゃないのよ。』
「あら、あの人もそこまで完璧人間なわけじゃないんですよ。すーぐそこらへんに脱ぎ散らかすし!」

目の前で彼女が笑う。
まるで御伽噺の白雪姫のように、白く透き通った頬を染めて。

「ただいま……あれ、彩さん、いらっしゃってたんですね。」
『降谷さん、お邪魔してます。』
「零!お帰りなさい!」

帰宅した彼に名前を呼ばれドクリと震える心臓を無理やり押さえつけて会釈すれば、グレーのスーツに身を包んだ彼が彼女に向かって柔らかく微笑んだ。

「知紗、もうすぐ苧環さんも来るんだ。」
「え!そうなの?それならこんな時間だしお二人とも一緒にお夕飯はいかがですか?」
『あら、旦那が来るなら私もご馳走になろうかしら。』

立ち上がり夕飯の準備の為にキッチンへと小走りで駆けていく彼女の後を、彼が笑いながらついていく。
そんな2人の後ろ姿を見ながらそっと唇を噛んだ。



"さぁ、選べ。お前はどちらを取る?"



あの日、彼が私に提示した2つの選択肢。


私が選んだのはのは彼の忠実な駒でいる事だった。


バカだと笑われてもいい。
例え私を女として見てくれなくても。
使い捨ての駒であったとしても。
彼の側を離れるなんて、出来なかった。

「……ご苦労。苧環に詳細は伝えてある。」
『承知しました。』

キッチンを追い出されたのか着替える為に寝室へ向かう彼にすれ違いざま指示を受ける。
彼の言う通り作業玉と結婚し、家族ぐるみの付き合いをしながら彼女を見守る。
例え心がズタボロになったとしても、彼の側にいられるのならもう何でもよかった。

「ほぉー?今日は肉じゃがと西京焼きか。」
「零、この間久々に食べたいって言ってたでしょ?…ってこら!つまみ食いしないの!」
「ん、…俺の奥さんは料理上手だな。」

仲睦まじい2人の姿を目にするたび心の中で涙を流す。
けれどそれを決して悟らせないよう、笑顔と言う名の仮面をかぶってやり過ごすのだ。



全ては彼の側にいるために。


それがまるで道化師のように滑稽でも。


私に残された、たったひとつの道だから。




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