U.私は知らない

帰宅する人々で溢れかえっている米花駅改札前で彼とすれ違ったその一瞬で手渡されたのはこの後2人が落ち合う場所と時間が書かれた紙切れ。
ちらりとこちらに向けられた視線は、先日買ったばかりの赤い口紅を塗った私の口元に目を止めた。

「……新しい色だな。」

たった一言だけそう呟いて去っていく彼の後ろ姿を見つめる。
気付いてくれた。
ただそれだけで舞い上がる愚かな私。
洞察力の鋭い彼のことだ、特に意味はないのかもしれないと分かっていても嬉しく感じてしまうのが女だ。
染まる頬に気付かれないよう顔を伏せ、彼が示してくれた待ち合わせ場所へと向かう。

「遅い、早くしろ。」

ぶっきらぼうな言葉に黙って頷き、後部座席へと乗り込む。
ふわりと香ったのは、仕事柄匂いが残る事を嫌う彼にしては珍しい柑橘系の香り。

「…近々、そちらに入会する女性がいる。彼女と親密な関係を築いてくれ。」
『…監視?』

匂いに気を取られていて反応が遅れたが、彼は気にした様子もなく話を続けた。

「監視とは少しワケが違う。彼女には既に警護をつけている。が、君の所にはさすがに警護も入れないからな。」
『まぁ、そうでしょうね。』

私の職場は要人御用達の高級エステ。
その秘匿性故に良くも悪くも情報が溢れかえっている。
彼の協力者…つまり公安の【作業玉】である私には内々に情報を手に入れるよう指示が出る事が多かった。
彼と出会ったのもこの職場が原因である。

『監視じゃないとしたら、一体どういう存在なの?』

普段なら彼らの捜査の内容にも触れる事を聞くなんて絶対にしない。
そんな事を聞いて彼に幻滅されたくなかったから。
それなのになぜこの時だけは聞いてしまったのかといえば…それはもはや女の勘としか言いようがないだろう。

「相手自身は一般人だ。…警察官僚を叔父に持つ以外、特別な事は何もない。」
『本当にそれだけ?』

そもそもにしておかしかったのだ。
彼が追撃を許すなど。
いつもの彼ではありえない。
私のような作業玉の追撃を許したのは。

「……まぁ、君にならいいだろう。」

彼にとって。

「彼女は俺の、婚約者だ。」

大切な人だったから。

『こんやく、しゃ…。』
「そうだ。」

フッと、彼が口元を緩めるのがバックミラー越しに見えた。
私の知る笑みではないそれはきっと、その婚約者を思い出して浮かべたもの。
柔らかく、そして甘ったるいと感じる程。
それだけでその婚約は彼の立場上仕方なく受けたものなどではない事を示していた。


知りたくなかった。


彼のそんな表情を見たくなかった。


運命は、残酷だ。

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