旅立ち、夜

福路。※チュウ



生まれてはじめてのキスだった。幼い頃、父や母にしてもらったような、おはようのキスでも、おやすみのキスでもない。唇に落とされたキス。振り向きざま、噛み付くようにされたそのキスに、いつか母から聞いていた甘やかさはなく、困惑と、それ以上に、彼の表情が気になった。


「……行くな」


絞り出すように吐いた彼の表情は酷く苦しげで、そんな彼の表情を、私は初めて見た。私の知っている彼は常に冷静で、その表情は獲物を狩るときにしか変わらない。どうしてそんな顔をするの。疑問に思うと同時に、そんな顔を彼にさせてしまった自分が情けなくて仕方がなかった。


「すまない。忘れてくれ」


言葉と共に、私の腕から離れていく彼の手。掴まれていた箇所から、彼の温度だけがみるみるとなくなっていくのが分かった。それでも、掛けられた言葉は、触れ合った唇に残る熱は、胸の奥の方にじんとした熱を残していった。
可笑しな話だ。離れていくのは私の方だというのに、この熱が離れていくのが嫌だと思う自分がいる。

気付けば、彼の手に、手を伸ばしていた。
眉間に僅かにしわを寄せて、物言いたげな彼の目が私を見た。なんのつもりだと、彼はそう言いたいのだろう。なんのつもりだなんてそんなこと、私にだって分からない。考えるよりも早く身体が動いてしまったのだから。
彼の目を見ていられなくて、彼の手に自分のものを置いたまま、私は俯いた。


「私は、卑怯ですか?」


出てきたのは、自分でも驚く程弱々しい声だった。どうしてこんな言葉が出てきたのか分からない。問いかけるような言葉。私は、彼に許してもらいたいのだろうか。
返事はない。彼は今、どんな目で私を見ているのだろうか。困惑か嫌悪か、もしかしたら軽蔑かもしれない。怖くて顔を上げることはできなかった。


「勝手に森を出ていくことを決めて、挙句に自分の気持ちを押しつけて……。森を出て行くと決めたのは自分なのに、引き止められて嬉しいって、貴方にキスされて嬉しいって思ってる」


自分の声が震えていた。
雨は降っていないはずなのに、頬が濡れたように冷たい。多分、私は泣いている。私はなんてずるく、情けない女だろう。私はいつも泣いてばかりだ。今日くらいは泣かないでいたかった。けれど、長い間連れ添った涙は、私の言うことを聞いてくれなかった。


「こんな私を卑怯だと、浅ましいと思いますか……?」


顔を上げる。
赤褐色の瞳と視線がかち合った。けして鮮やかではない暗い色。黄昏時、日が沈むほんの一瞬の強い赤色。私の好きな、彼の色。その瞳は困惑でも嫌悪でも、ましてや軽蔑もしていなくて、ただ静かに私を見詰め返していた。


「ごめんなさい」


するりと、そんな言葉が出てきた。それは素直な気持ちだった。
彼の目を真っ直ぐに見て、ようやく分かった。私は別に許されたかったのではない。私は、彼に分かって欲しかったのだ。自分のこと、自分がなにをしようとしているのか、その理由を。好きだからこそ、自分の全てを知って欲しかった。


「勝手に出ていくことを決めてごめんなさい。だけど私、知りたいの。外の世界をこの目で見てみたい。星よりも明るいあの街で、人間がどう暮らしているのか。街や人間だけじゃない。海や、洞窟。森では分からないことを肌で感じてみたいの」


きっかけは、あの日助けた人間だった。
森で倒れていた旅人。森しか知らない私にとって、時折外から訪れる人間は、森を荒らしていく悪者にしか思えなかった。その旅人を助けたのは気まぐれだった。酷い怪我をしていたから、その状態のまま追い出すのは気が引けたのだ。
旅人は陽気な人間で、色々なことを話してくれた。きのみから作るお菓子というものがあること、街は夜でもフラッシュを使ったように明るいということ。旅人が語る話は、森で暮らす私にとって信じがたいことばかりだったが、どれも本当のことらしかった。

私は、幼い頃から知識欲が旺盛だった。物事を知りたいという気持ちに突き動かされ、ヨルノズクになる頃には、森に住むポケモンたちからは、森の賢者と呼ばれていたほどだ。
私の知らないことがまだまだたくさんある。外の世界のことをもっと知りたいと思った。
人間を快く思っていない森の仲間たちからは、その旅人にそそのかされたのだと言われたが、そうではない。旅人と出会う以前から興味はあった。塵が山となって、雪崩を起こす引き金となったのがあの旅人というだけだったに過ぎないのだ。


「――悪い人間ばかりじゃないって、思ったんです。自分が感じたことが正しいのか、私はそれも確かめたい」


気付けば、私の言葉は、弱々しい言葉ではなくしっかりとしたものになっていた。


「3年。3年でいいんです。待っていてくれませんか?私が見たこと、感じたこと、貴方に聞いて、知って欲しいんです」


きっと、彼は快くは見送ってはくれないだろう。しかし、それで構わないと思った。
私の想いを、彼は聞いてくれたのだから。
彼の手が私の頬へ伸びて、そっとすくうように持ち上げた。暗い赤色の瞳に、私が映っているのが見えた。私はそっと目を閉じる。彼も私もなにも言わない。それでよかった。触れ合った唇から、愛しさと、いつか母から聞いた通りの甘やかさが伝わってきた。




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