くるくる、ふわふわ

ふわふわのスポンジケーキはまるで空に浮かぶ雲のよう。生クリームは星に薔薇、リボン、自由自在にかたちを変えてケーキを甘やかに彩る。最後に瑞々しい果物なんか乗せちゃったりして、美味しいケーキは出来上がる。
キラキラな宝石のようなケーキ。一口食べればみんなが笑顔になる魔法のケーキ。どんなにご機嫌斜めでも、どれだけ泣いていても、ケーキを食べれば嫌なことは吹き飛んだ。そんなものを作れるパティシエはまるで魔法使いだと思う。

そう、だから俺はこの道を選んだんだ。


「あー、お客来ないなぁ」

「店長、また溜息っスか?」


その日何度目かの溜息をつきながらぼやくと、ショーケースを挟んだ向こう側で、椅子の背もたれに頬杖をつきながら、サトウが言った。
サトウはこのパティスリーの従業員であると同時に俺の仲間だ。ちなみにサトウが座っているのはイートインスペースの椅子。つまりお客用である。お客が使えなくなるから退けと言いたいが、今、店内にお客はいない。言ったところで「店長は透明人間が見えるんスね、流石っス」なんて嫌味を言われておしまいだ。
店を構えてからもうすぐ半年が経つ。だというのに、このパティスリーにお客が来たことは片手で数えるほどしかなかった。


「なぁサトウ、お客はどうして来てくれないんだと思う」

「まー、ここ辺鄙な場所に建ってますからねぇ。人里離れた森の中。最寄りの町だって電車も通ってないようなど田舎っスよ?どうしてこんなところに店構えたんスか」


ポケモンくらいっスよ、こんな環境喜ぶの。なんて、サトウが言うものだから、俺はこうしちゃいられないと勢いよく立ち上がった。


「だってその方がいいだろう!」


森の中にひっそりと佇む可愛らしい建物。早起きしたら森は朝露の香りでいっぱいで、夜はランタンの光で優しく照らす。昼間は森のいきものたちがお菓子の香りにつられてやってきちゃったりなんかして、出来たてのお菓子を皆で分け合いっ子するんだ。
そんなメルヘンチックなことが街中で出来るか?いいや、できない!メルヘンは森でこそ生まれるのだ!

熱弁すれば、サトウが眉間に皺を寄せて、わかりやすく嫌な顔をした。舌まで出して失礼な奴だ。


「そこまで言うんなら、パソコンの使い方のひとつやふたつ覚えて宣伝したらどうっスか?いくらメルヘン思考でも文明の利器くらい使わなきゃ。経営者としてお話にならないっスよ」


サトウが片手を持ち上げる。その手に握られているスマホは、なにを隠そう俺のものだ。元、と言った方が正しいのかもしれない。名義こそ変更していないが、俺が早々に付き合うことを諦めたスマホを拾って管理はじめたのがサトウだ。使いはじめたばかりの頃は俺と大して変わらないたどたどしさだったが、今ではなんかこう、それ文字追えてるのかっていうレベルで親指を縦やら横やらに滑らせるまでになっている。ちなみに、聞くところによると俺が見たそれはフリック操作というらしい。別に手書きでいいと、俺は思う。


「必要ない。電話は固定のがあるし、文字のやりとりも手紙を書けばいい話だ。それになにより電子機器はメルヘンじゃない!」

「だからいつまで経っても陸の孤島なんスよ、ここは」


やれやれといった様子でサトウが肩をすくめ、スマホをぽいっと投げて寄越した。
余談であるが、サトウのスマホの背面にはロトムというポケモンの顔面が描かれている。巷で話題であるというスマホロトムではなく、憧れをどうにか昇華したかったらしいサトウに買わされた、ただのスマホカバーだ。つまりあのスマホは自力で浮くはずがないのである。床に落ちれば壊れるということは、いくら機械音痴の俺でも分かることだった。愛着こそないが、費やしたン万円は決して安い額ではない。
床スレスレのところで、俺はどうにかスマホを受け止めることができた。


「お、店長、ナイスでーす」

「あのなぁ、落としたらどうすんだ!壊れて困るのは1番使ってるお前だろ!」

「店長だったらキャッチしてくれるって信じてるんで。だって、自分が関わったもんは大事にするじゃん、あんた」

「サトウ……」

「だからって廃棄予定の菓子全部食べるのは止めた方がいいっスよ。その腹のカビゴン化、そろそろ擁護出来ないサイズまで来てるっスから」

「一言余計なんだよ。俺の感動を返せ」


珍しく褒めたかと思えばこれだ。気の置けない仲ではあるものの、サトウの手のひら返しに上げて落とされることにはどうにも慣れない。


「つか、まだ店締めないんスか?」

「まだ閉店時間じゃないだろ」

「粘ったところでお客なんて来ないと思いますけどねぇ。店長がカウンターに座ってられるくらい、うちの店には時間に余裕があるみたいだし?」

「俺がここにいるのはお客の顔を見て売りたいからであって、暇なわけじゃない!お前は奥で季節の新作案でも考えろ!」

「へーい」


サトウが奥へと姿を消していく。
奥は奥でも、サトウが向かった方向は厨房ではなく休憩室だったが、それはまぁ予想の範囲内だ。とにもかくにも、これで心穏やかに店番に集中することができる。


「……でも、ここまで静かなのはお呼びでないんだよなぁ」


カウンターに頬杖をついてぼやく。
壁掛け時計の秒針が、コチコチという音が耳にしっかりと聞こえてくる。店がお客で賑わっていればまず気にならないような小さな音だ。そんな些細な音が耳に障るくらい、このパティスリーにはお客が来ない。
あと30分もしないうちに閉店の時間になる。そうなれば、ショーケースでキラキラと輝く美味しい宝石たちは全てゴミ箱行きだ。勿体なくても、賞味期限切れの商品を売るわけにはいかない。
店を構えたばかりというわけでもない。自分の店の集客率くらいは分かっているつもりだ。集客率を知っているから、売り物である菓子をどの程度作ればいいかも分かる。しかし、もしかしたらという欲を捨てきれずに作り過ぎてしまった結果がこの売れ残りの商品たちだ。大量ではないが、少ないとも言い切れない。


「食べてやりたいがなぁ、腹がなぁ……」


撫でつけた自分の腹はでっぷりと太っていて、サトウに刺された釘も沈み込んで消えてしまいそうなほどだ。何気なく足元を見て、つま先が腹の影に隠れて見えないことに気付いたときは流石に危機感を覚えた。
弁解させてほしいが、俺は食い意地が張っているわけでも自堕落な生活を送ってきたわけでもない。どちらかといえば、食に気を遣い、身体を動かすのも好きな方だ。ただ、毎日の摂取カロリーに運動量が追いつかない。やめなければと頭では理解しているものの、手塩に掛けて作った作品たちをただ棄てるのは心苦しかった。

カランカランと、小気味良い音が聞こえてきた。
店の扉に取り付けた鐘が揺れた音だ。お客が来た。そう思った俺はパッと顔を上げた。


「いらっしゃいま──」


挨拶を最後まで言い切ることはできなかった。
目と鼻の先で、なにかが俺を見詰めていた。


「うおっ!?」


思わず飛びしさる。
俺の反応に“なにか”も驚いたのだろう。「マホミ〜っ!?」なんていう不思議な声を上げながらびくっと動いた。その拍子に頭(?)のてっぺんから液体のようなものがひと雫跳ねたのが見えた。空中を舞った雫は、そのまま自由落下して“なにか”に戻っていく。……一瞬とはいえそれは身体から離れていいものなのか?


「お前、ポケモンか……?」


片手で顎に触りながら、目の前のいきもの(?)をじっくりと見てみる。
大きさはバレーボールくらいだろうか。頭と思われる箇所からは絶えず水滴が跳ねたり戻ったりしていて、身体全体がクリーム色をしてるのも相まって、さながらミルククラウンのようだった。
液体が浮いているようにしか見えないが、これはポケモンなのだろうか。生憎と、俺はポケモンにそこまで詳しいわけじゃない。有名どころのピカチュウやイーブイなんかは分かるが、あとは手持ちと、片手で数える程度しか知らない。ポケモントレーナーを志望していたわけではないので、ポケモンへの関心はといえばその程度だ。
サトウならこのポケモンの正体を知っているだろうか。知らなくてもサトウのことだ。スマホを使ってちょちょいと手速く調べてしまうのだろう。分からない言葉を広辞苑で調べるがごとく、紙媒体のポケモン図鑑で手持ちの生体を調べたアナログ人間とまるで違う。

──だからいつまで経っても陸の孤島なんスよ、ここは。

サトウから言われた言葉を思い出して、拳を握り絞める。あぁまで言われては、その通りだサトウくんなどと笑顔で返すことはできない。
カウンターに置いていたスマホを手に取り、電源ボタンを押す。サトウが勝手に増やしたであろう四角い絵が画面いっぱいに整列していた。いくら機械音痴でも、調べ方くらいなら分かってる。四角い絵に触って調べたい文字を打ち込めばいいのだ。それくらい簡単だ。


「だめだ、分からん」


そもそもどの絵を触ればいいのか分からなかった。試しにいくつか触ってみたが、どれもloadingだか更新中だか表示されて検索欄らしきものは出てくる様子がない。というかこれ絶対ゲームだろ。
調べることを諦めて、スマホから目を離す。
一緒に画面を覗き込んでいたポケモンは俺の頭の上に移動していた。氷のうを乗せたときのようなずっしりとした、それでいて水が頭に合わせてかたちを変えるあの感覚が伝わってくる。雫が垂れてくる気配はないが、俺の頭、濡れないか?


「そもそも、なんで店の中に入ってきたんだ?」


俺はほとんど独り言に近い感覚で呟いたつもりだったのだが、ポケモンは言葉の意味を理解したのだろう。頭から退き、窓辺へふわふわと飛んでいったかと思うと、顔のすぐ側の突起のようなもの(おそらくは手)を窓に向かって振っている。
なにかあるのかと、近寄って窓の外を見てみると、外はしとしとと雨が降りはじめていた。


「成程、雨宿りっていうわけか」


これからもっと酷くなるのだろう。空を覆う雲は黒く、夕方という時間帯もあってか薄暗い。雨が上がったとしても、道はぐずぐずにぬかるんでいるはずだ。今日はもうお客は来ないだろうなと思い、気分は益々重くなった。
こんな時はやけ食いでもしたい気分だ。──もっしゃもっしゃ。そう、もっしゃもっしゃと甘いケーキを口いっぱいに頬張って……。


「ん!?」


嫌な予感が予感がして慌てて背後を振り向いた。
見ると、ポケモンがショーケースの中に入り込み、商品のケーキをもっしゃもっしゃと頬張っていた。


「こら!それはお客様のだぞ!」

「ミッ……!」


俺に怒られて短く声を上げたかと思うと、ポケモンは俺を凝視しながら固まった。
少しの間沈黙が流れたが、ポケモンが俺のことを凝視したまま、そろそろといった動作で手に持ったケーキを口に運ぶ。食事を続けるとは良い度胸だ。
取り上げようと思って近付いた時だった。午後6時を告げる時計の音が店内に響いた。閉店時間だ。つまり今日はもうお客が来ないことが確定した。ポケモンからケーキを取り返したところで廃棄するしかない。
脱力して、カウンターに戻った俺は椅子にどかっと腰掛ける。
止められないと察したのだろうか。ポケモンは動きを止めて俺をちょっと見たかと思うとケーキを食べることを再開する。その食いっぷりといえば、ガツガツというオノマトペでも聞こえてきそうなほどだった。よっぽど腹が減っていたんだろうか。


「美味いか?」

「マホ、ミー!」

「そうかそうか、美味いか。そのケーキ全部俺が作ったんだぞ?」


そう言うと、ポケモンは驚いたような声を出した。直ぐに笑顔になって飛び跳ねるものだから、なんだか気分が良くなる。出会って早数年が経過しているサトウは、改善点はチクチク言いはするが、こんな新鮮な反応はもうしてくれない。
ケーキを盗み食いされたときはどう料理したものかと思ったものだが、このポケモンがあんまり美味しそうに食べるものだから、なんだかもうどうでもよくなってしまった。


「ほら、生クリームついてるぞ。口……というか顔に全体的に」


先程から勢いよく食べているせいだろう。口どころか顔中に食べかすがついていた。いや、顔しかない一頭身のポケモンだから身体中って言ったほうがいいのか?
ポケモンは慌てて顔中の汚れを落としたが、頬あたりにまだ生クリームがついていた。
指で拭ってやる。不思議な触り心地だった。液体の身体には膜があるようには見えないのに、触っても手が濡れる様子がない。面白くなって何度もつついたり手のひらで触ったりしてみた。勿論、ポケモンを傷付けるつもりなんてないからゆっくりそっとだ。


「マホ!マホマホ〜!」

「うわ、どうしたんだ怒ったのか?」


やりすぎたようで、ポケモンが短い腕で殴ってきた。痛くはない。ポカポカという効果音が聞こえてきそうだった。
そうこうするうち、ポケモンのクリーム色の身体が濃いピンク色に染まった。どうやら照れているらしい。可愛い奴だと俺は思った。

そのまましばらくポケモンとじゃれあっていたが、カウンターに置いたスマホからちろりんという音が聞こえた。
そういえばポケモンの種族を調べようとしていたのだった。そのことを思い出してスマホを手に取る。電源を入れると、どういうわけか勝手に画面が変わってしまった。真っ白な画面の中央で、輪っかがくるくると回っている。変なところでも押してしまったかと思い、冷や汗がとまらない。故障だったらどうしよう。
そうこうしているうちに画面が切り替わった。《あなたのポケ街ネットニュース》とポップな字体で書かれた見出しが目に飛び込んでくる。どうやら情報サイトのようだ。真っ白な画面は読み込み画面だったらしい。ホッと胸を撫でおろす。故障じゃなくて本当によかった。
これもなにかの縁と、なにげなく読み進めていくと、とある記事が目に留まった。

──《幸運を呼ぶマホミル?》人気パティスリーに密着取材!

都内にあるパティスリーの人気ぶりが書かれた記事だった。載せてある写真はお客で溢れている。うちとはえらい違いだ。駅チカで、観光名所も直ぐ傍にあるらしい。


「……やっぱり利便さか」


もやもやとした気持ちが溢れてくる。このままでは落ち着いていた溜息がまた出てきてしまうなぁと思いながら、俺は盛大に息を吐いた。

勉強数年、見習い数年。時間を費やし努力を重ね、念願かなって自分だけのパティスリーを持つことができたのだ。繁盛させたいというのが正直な気持ちだ。繁盛すれば、それだけたくさんのひとに俺の作った菓子を食べてもらえるんだから。


「お前があのマホミルだったらいいのになぁ」


マホミルが姿を見せたパティスリーは大繁盛が約束されるといわれていると、先程のネットニュースに書いてあった。俺も、修行時代に噂くらいなら聞いたことがある。しかし、あまり興味がなかったのでマホミルは勿論、その進化系と言われるマホイップの姿を見たことはただの一度もない。マホミルは既に店を去ったようで、記事にもマホミルらしきポケモンは載っていなかった。


「マホ〜?」


ポケモンの鳴き声でハッと我に返ると、ポケモンが俺の顔を覗き込んでいた。そわそわと落ち着きなく俺の周りを飛び回っている。


「なんだ、心配してくれるのか?」


ポケモンが手に持った食べかけのケーキを差し出してきた。どうやら俺にくれるらしい。気持ちはありがたいが、今は食べる気分にはなれなかった。
一向にケーキを受け取らない俺に、ポケモンはまたそわそわとしはじめた。俺とケーキを交互に見たあと、手に持ったケーキをぱくりと食べる。


「マホマホー!」

「な、なんだ一体どうしたんだ?」


ケーキを食べたかと思えば、ポケモンは唐突に飛び上がった。
よく分からないでいると、ポケモンはまたケーキを食べて鳴き声を上げながら飛び上がる。それを何度も繰り返している。それを見ているうち、ポケモンが伝えたいことがなんとなく分かった気がした。


「俺の作ったケーキを食べると、お前は嬉しくなるんだな……?」

「マホ!マホ、ミー!」

「……そうだ。客の多い少ないは関係ない。俺が目指していたのは食べた人を笑顔にするお菓子を作ることだった!」


お客の来ない期間があまりにも長過ぎて、いつの間にかわすれてしまっていた夢。ポケモンのおかげでようやく思い出すことができた。


「ありがとうな、思い出させてくれて」


なにかお礼がしたくなった。既に食べられたケーキをお礼代わりにするなんてそんなせせこましい真似はしたくない。なにかないかなにかないかとポケットを手探り店内を見回す。引き出しを物色していると、メモ用紙に紛れて飴がひとつ見えた。紫色のリボンの飴細工は、過去に参加した福引きで当てたものだ。食べる機会を逃してどこかに置いたのは覚えているが、こんなところにしまっていたのか。


「ほら、これはお礼だ。飴好きか?」


包装紙を取ってやってから渡す。
よっぽど嬉しいのだろう、ポケモンはその場でくるくると回りはじめた。見ているこっちまで愉快な気分になってきて、俺も隣で踊りはじめる。回っている途中、時折目が合うのがまた楽しい。


「店長ー、閉め作業手伝いに来ました。自主的に。おれって偉……なにやってんスか」

「おぉサトウ!思い出したんだよ。大切なのは客の数じゃない。喜んでもらうことが大切だってことをな!」


これからも頑張っていこう!そう言おうとしたが、サトウは驚いた顔をしてその場で震えている。指差す先には、未だクルクルと回り続けるポケモンの姿があった。
浮気でも疑っているんだろうか。心配しなくても、俺のパートナーポケモンは後にも先にもお前だけだというのに。


「なにぶつぶつ言ってんスか!店長、それマホミルっスよぉ!!」

「え?」


マホミル?このポケモンが?
よく見ようと近付くと、マホミルから強い光が現れて、店内は眩い光に包まれた。



森の中を歩いて、そのなかにぽつんと佇む一軒のパティスリー。レンガでできた赤い屋根にはえんとつがあって、そこからもくもくと白い煙が上がってる。お料理中なのかな。甘くていいにおいがしてきた。森のポケモンたちが庭で遊んだりなんかして、まるで絵本から飛び出してきたみたいなお店だった。
雑誌でも取り上げられて、今では大人気のお店。お店の外まで続く長い列は行列っていうのよってママが教えてくれたっけ。ぼくはこのお店のケーキが大好きだ。ぼくのうちからちょっと遠いからたくさんは来られないけど、それでも頑張って歩いてくる。
今日はママのおつかいで来たけど、ぼくには他に目的があるんだ!


「あのっ!」


ぼくの順番がやってきた。注文を済ませて、店員のおねえさんがショーケースからケーキやタルトを取り出しているとき、ぼくは我慢出来ずに声を掛けてしまった。おねえさんがぴたっと止まって、ちょっと驚いた顔をしている。
ああ、ぼくのバカ!迷惑になるからお金を払ってから言おうと思ってたのになんで声をかけちゃったんだろう!


「坊や、どうしたの?」


のんびりとした優しい声で、おねえさんはぼくに聞き返してくれた。
怒られなかったことにほっとしたけど、そうすると、やっぱり言いたいって気持ちがむくむくと膨らんできた。


「お仕事中にごめんなさい。あの、どうしても伝えたいことがあって……」

「あら、なぁに?」

「ぼく、このパティスリーのケーキ大好きです!可愛くって美味しくて、どんなに嫌な気持ちでも泣いてても、ここのケーキを一口食べるとぼくも妹もにこにこって笑顔になっちゃうんです!あの、だから、そのぅ……」


最後まで言おうとしたけど、なんだか恥ずかしくなってきて、ぼくは最後まで気持ちを伝えることができなくなってしまった。俯いて、手をもしょもしょこすり合わせたら勇気が出るかなと思ったけど、上手くいかないみたい。
お店の中にいるみんながぼくのことを見ている気がする。急に大きな声出したんだから当たり前だよね。……おねえさんのこと、困らせちゃったかな。
ちらっとおねえさんを見てみた。おねえさんは困った顔どころか、キラキラとした笑顔を浮かべていた。


「本当?わたしもよぉ!店長さんの作るお菓子、とっても美味しいわよね」

「うん!あ、ねぇ、このお店に来たマホミルも、店長さんのケーキを食べて笑顔になったって本当?」

「本当よぉ。あの時はとびきりお腹が空いててね、甘いかおりに誘われて、気付いたらお店の中に入っちゃってたの。店長さんのケーキ、他のどのお店とも比べ物にならないくらい美味しかったの」


にっこりと笑うおねえさんを見て、なんだか不思議なひとだなと思った。だって、マホミルの話をまるで自分のことみたいに話すんだもの。


「ねえ、そのマホミルはまだこのお店にいるの?ぼく、会ってみたいなぁ」

「それはちょっと、難しいわねぇ。マホミルはもういないから」

「え、どうして!?」


おねえさんは目を細めて、いたずらっぽく笑った。


「マホミルはマホイップに進化したのよ。運命の出会いをして、いろんなお店を巡って回るより、素敵なお嫁さんになることを選んだの」

「え?それってどういう……」

「おーいシュクレ、今大丈夫か?出来上がった奴持って行ってほしいんだ」


ぼくが聞き返すより早く、レジの向こう側にある扉が開いて、男のひとが顔を出した。
白くて長いコック帽を被ったその姿を見て、男のひとがこのパティスリーの店長さんだってことは直ぐに分かった。お腹まわりがすっきりとした、かっこいいおにいさんだった。ちょっと前までカビゴンみたいに太っていたってテレビで言ってたけど、信じられない。


「じゃあね、坊や」

「あ、うん。忙しいのにありがとう、おねえさん!」

「いいのよ。わたしもおしゃべりできて楽しかったわぁ」


他の店員さんにレジを任せると、おねえさんはくるくると、まるで踊るように回りながら、店長さんのところへ行ってしまった。


「ほい、どーぞ」

「あ、ありがとう!」


おねえさんの代わりにレジに出てきた店員さんからケーキを受け取る。
買ったのは、たっぷりクリームにリボンの飴細工をデコレーションした、このパティスリーの人気商品。他のケーキやタルトは別のパティシエさんも手伝ってるけど、このケーキだけは店長さんが最初から最後まで自分ひとりで作るんだってテレビで言ってた。だから人気だけど売ってる数は少ない。今日は買えてよかった。早く帰らなきゃ。妹とおかあさん、待ってるだろうなあ。

お店を出る前に、ちょっとだけうしろを振り向いてみた。
レジの向こうでおねえさんと店長が楽しそうにお喋りしている。にこにこって幸せそうに笑うおねえさんの、生クリームみたいな色をした髪には、飴細工みたいにつやつやな紫色のリボンの髪飾りがキラキラ輝いていた。


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