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「声が聞こえるんです」

淹れてもらったストレートティーを啜りながらつぶやいた。
閉店後の暗がりなモストロ・ラウンジはでいつも賑わっている同じ場所とは思えないほど静かだった。
カフェの名物である巨大な水槽も色鮮やかな魚たちが回遊して幻想的な海の世界を描いているのに、今は一匹も見当たらない。
暗い深海を彷彿とさせる空間に少し落ち着かなかった。

「透き通るような、歌声が」

それでもこの人に相談しようと思ったのは、ここ数日悩まされている幻聴に聞き覚えがあったから。
昔の絵本でよく見た人魚姫の物語。人間に恋をした人魚が美しい声と引き換えに脚をもらうおとぎ話。
幼かったあの頃の私は、人魚姫の物語をたいそう気に入り、繰り返し見続けた。
彼女のように美しい声ではなかったけれど、懸命に歌を覚えて人前で披露したこともあれば、魚の尾びれをイメージしたドレスをねだったこともあった。
思い返せばすべてが懐かしい。しかしそれは年月を重ねるにつれて興味が薄れ、記憶から消えていった。
私の周りには両手じゃ足りないほどのきらきらとしたたくさんの流行りのものが溢れていた。
まぶしくて、その全てが欲しくてたまらなかった。
気が付いた時にはもう遅く、手にした煌めきに埋もれたおとぎ話は私の記憶の中から完全に姿を消していた。

「それで僕に相談にきた、と?」

向かいの席に腰かけたアズール先輩がようやく口を開く。
眼鏡の奥で紫の瞳が妖しげに揺れている。まるで捕食者のような眼だ。
若干の恐怖を感じながら私は頷く。
アズール先輩は人魚姫に登場する魔女にインスパイアされてこの学園に入学した人物だ。
人魚姫のことについては知り尽くしているはず。

「それで?その声はどこから?」
「頭の中から聞こえてくるんです」

人魚の歌が。
はじめは気のせいだと思った。ただの思い過ごしだと。
しかし声は日が経つにつれてどんどん大きくなりはっきりと聞こえてくる。
日中も、夜中も、今この時さえも。

「わたし、どうしちゃったんでしょうか」

人魚の呪い?まさか。ほとんどの人間は成長するにつれて何かを手放し、忘却していくじゃないか。
どうして私だけ報いを受けなければならない。
ぎちり、と奥歯を噛みしめたそのとき。何かが動く影を目の隅でとらえた。
咄嗟に顔を上げて正体を確かめるが、何もいない。気のせい?ちがう、確かに何かいた。
自然と上がる呼吸。湧き上がる不安をかき消そうとティーカップに口をつける。

「...どうして」

味がしない。先ほどまでは砂糖の甘さを感じたのに。
紅茶を一気に流し込むが結果は同じ。味覚がなくなっている。身体がおかしい。まるで自分のものじゃないみたい。助けを求めようとアズール先輩を見た。彼は薄気味悪い笑みを浮かべたまま静かに立ち上がり、薄い唇を開いた。

「やっとこの時が来ましたね」

ぱちん、とアズール先輩が指を鳴らす。それと同時、頭の中で女性の甲高い声が響いた。
思わず耳を塞ぎその場に座り込む。体を突き抜けるような痛みに気が狂いそうだ。
霞む視界の中で目にしたのはいびつに変形する先輩の姿。めきめきと何かが軋むような、人ならざる音が店内に響く。うごめく無数のそれを目の当たりにした私は恐怖のあまり尻込みした。

「なにをそんなに怖がっているんです?」

さあ、お手を。どす黒いそれが近づき私を誘う。
何が起きているのか理解できなかった。
今までの美しい歌声と反転した耳をつんざくような金切り声。
今この瞬間が現実なのかさえわからない。それ以前に目の間にいる生物は果たして私の知っている先輩なのか。
錯乱状態の私を見てアズール先輩は首を横に傾けた。そしておもむろに水槽に向かい、

「ジェイド、フロイド、手伝ってください」

そう言い放った。
するとどうだろう。分厚い水槽から二本の腕が伸びて体を掴んだ。
これも魔法か。考える間もなくそのまま引きずり込まれ、あっという間に体が水中に移動する。一瞬にして呼吸を奪われた。

「遅かったねぇ、小エビちゃん」
「待ちくたびれましたよ」

目の前には人魚の姿をしたジェイド先輩とフロイド先輩。
口元に弧を描き、水かきのついた手で私の頬を撫でた。振り払おうと必死になってもがくが体はどんどん重くなり沈んでいくのがわかった。
さっきの影はこの二人だったんだ。

「そろそろ、ですかね」

ジェイド先輩の台詞を同時に覚えた違和感。脚の感覚がない。
自分の脚に目を向けた瞬間、驚愕した。そこに脚と呼べるものはなく、魚の尾びれに変形していた。
悲鳴を上げる。しかし声は出ない。無数の泡が虚しく浮かんでいくだけ。

「やっと一緒になれるねぇ」
「どうしてほしいですか?」
「無駄ですよ」

もう話せませんから。
遠ざかる意識の中で見たのは一枚の契約書。全く身に覚えがない。
それなのに私の直筆のサインがしっかりと刻まれていて。
徐々に呼吸が楽になっていく。もうどう足掻いても無駄なのだと悟った。

「素敵なハッピーエンドでしょう?」

もう誰の声も、聞こえない。
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