「凄いな、20時ジャストだ。時間が守れるじゃないか」
「うっせえ。もう連れてくからな」
「構わないよ。なまえ、お疲れ様」
「お疲れ様です」
大輝は本当に20時ピッタリに会場に迎えに来た。
実際30分くらい前に窓から外を見た時にタクシーで入って来るのが見えてしまったから、本当はもう少し早くからこの会場内に居たみたい。
心配して早めに来てくれたんだろうと考えたら嬉しくてにやけてしまう。
赤司さんにペコリとお辞儀をすると薄く微笑まれ、彼はいいから早く行けと大輝の方を指差した。
ポケットに手を突っ込んで大股で前を歩く大輝を小走りで追い掛けていると、何を思ったか突然立ち止まって顔だけ振り返る。
私と目が合うと…
「ん」
そう言って仏頂面で肘を上げて見せた。
腕に掴まっていいって事だ。
嬉しくなって駆け寄り腕に絡み付けば『重てえ』なんて文句が漏れたけれど、その言葉の裏に隠された優しさを知っているから全然怖くない。
端から見たらそんな言葉を言われて嬉しそうにしている私は変人と思われているに違いない。
でも誰にどう思われようと関係ない。
だって今私は幸せだ。
恋は盲目だなんてよく言ったものだなと苦笑いしながら絡めた腕に力を込めた。
「なまえ!」
「?」
「待って!なまえ!」
「…ッ!?」
仕事の帰り道。
夜の雑踏の中響いた自分の名前に立ち止まり辺りを見渡す。
もう一度呼ばれ、その声が自分の知る人の声だという事に気付いて固まった。
「やっぱり!なまえだ」
何故こんな所で再会してしまったのだろう。
どうして軽々しく声を掛けてくるのだろう。
春の生温い風が吹いて奇しくも甦る、もう過去の事にしていた…三度の春を過ごした相手との記憶。
近付く相手との距離を取る様にゆっくりと後退し、勢いよく背を向けて走り出した。
「なまえ!」
呼ばれたけれど止まるわけない。
今自分の名前を呼ばれて嬉しいのはたった一人、彼だけ。
一度も振り返る事無く人混みを掻き分けて走り続ける。
追って来ていないのは分かっていたのに止まる気になれなくてとにかく走った。
会いたい。
大輝に会いたい。
ガチャンと大きな音を立てて扉を抉じ開ける様にして玄関に飛び込んだ。
もう、大丈夫。
上がる息を整えつつ嗅ぎ慣れた部屋の匂いを吸い込んでなんとか気持ちを落ち着けようとしていると、ちょうどお風呂から上がったらしい大輝がバスタオルを放り投げて焦った様に私の所までやって来た。
「お前!どうしたんだよ!」
「っ、え、どうしたって」
「顔真っ青だし汗すげえぞ」
「あ、はは…ちょっと、走って来ちゃって」
「は?」
「あー、あの!ちょっと不審な人が居たから怖くて!走って帰って来た」
「はぁ?マジかよ」
「っうん」
嘘を吐いた。
でも大丈夫。
言う必要もないしだいたい何の未練もないし、もう会う事もないだろうから。
私には彼が居る。
思わず縋る様に見つめる私をどう思ったのか、大輝は私の腕を掴んで引き寄せた。
お風呂上がりでしっとりと温かいTシャツと逞しい腕が私を包み込んで自然と安堵の息が漏れる。
自分から腕を伸ばし彼の広い背中に手を回した。
「好、き」
「!っな、は!?」
大輝は大袈裟に体を揺らして驚いた。
驚くのも無理はないと思う。
唐突だし、恥ずかしくて私がこんな風に気持ちを伝える事なんて無いから。
怖くなった。
あの人との再会で甦った絶望。
大輝とあんな風に終わってしまう日が来たら私はどうなってしまうか分からない。
怖くて想像すら出来なくて、でも有り得ないとも言い切れなくてとにかく怖かったのだ。
「お前っ、なんなの?今のすげえキタ」
「何って、」
「顔上げろ」
「ん、ッ!」
「ん」
素直に顔を上げた瞬間奪われた唇。
私の意図を知らずに聞き入れた『好き』は彼の興奮剤になってしまったようでキスはどんどん激しさを増す。
鼻息を荒げ弄りどこまでも追い掛けて来て、倒れそうになった私を軽々と抱き上げると寝室に向かった。
「お前が悪いんだからな」
耳元でそう囁いて彼は私をベッドに沈める。
なんだっていい。
ボロボロの私を初めて受け止めてくれたあの時みたいに、全部全部忘れさせて欲しかった。
大輝の事以外何も考えられない様に。
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