翌日。
いつも通り出勤すると、笑えるくらい顔色の悪い若松さんが亡霊の様にデスクに全身を預けていた。
「おはようございます、若松さん」
「おー…はよ…」
「今日は特に会議とかなくて良かったですね。あ、昨日はご馳走様でした」
「おう、…昨日…昨日……ああッ!ッいってぇ!」
「あー、急に叫ぶから。どうかしました?」
「どうもこうも最悪だ、最悪」
「あ、そういえば昨日と同じシャツですね!若松さんってばお泊りですか〜?」
「お前…分かってて言ってんな?コラ」
私が冷やかせば額に青筋を立てて威嚇してくる若松さん。
うん、ちっとも怖くない。
若松さんを処分すると言って連れて行ったアイツは、意外にも自分の家に彼を泊めてやったらしい。
寝ている若松さんをタクシーに乗せて自腹切らせてほくそ笑んでいるに違いないと思い込んでいた私はちょっと驚いた。
いや、だって私の中のアイツの印象なんてそんなものだ。
で、若松さんは何が最悪だったのかというと…ベッドにもソファにも寝させて貰えなかったらしく、目が覚めたら自分の上着に包まって硬く冷たいフローリングに寝転がっていたらしい。
これはなかなかに可哀想だ。
二日酔いの気分の悪さに加えて体のあちこちが痛いと文句を垂れている。
まああの男が優しくソファに横たえてくれるなんて想像もつかないけれども。
金曜の夜は街中が騒がしくどこの飲み屋も人で溢れ返っていた。
本気で1日顔色の悪かった若松さんの代わりに上司の付き合いに振り回された私もそのうちの1人だ。
数人の部署のメンバーと数軒はしごしてやっと解散。
昨日の事もあり、上手く誤魔化しつつあまり飲まずに帰宅だ。
ふとマンションのエントランスにある掲示板に見慣れない張り紙を見付けてなんとなく足が止まる。
「夜道の一人歩き、公園の死角になる場所では変質者や通り魔等に十分ご注意を、か…気持ち悪いな」
○○警察署と書かれたその真新しい張り紙には、先日若松さんも言っていた変質者の事が書かれていた。
私みたいなのを狙う変質者なんか居ないだろうけど、通り魔はちょっと怖いなと思う。
急に怖くなった私は思わず振り返って誰も居ない事を確認して、急いでエントランスを潜った。
「寝過ぎたッ!」
アラームをセットし忘れていた私は遠くで鳴り響くパトカーのサイレンの音で目が覚めた。
なんとも物騒な寝起きだ。
時計の針は午前11時を示している。
今日は大学時代の友人と会う約束をしていて、待ち合わせ時間は11時半…これはマズイ。
ベッドを飛び下りて家中を駆け回った。
「ごめん!遅刻!」
「名前が珍しいね。いいよ、気にしてない。あはは!髪跳ねてる」
「な、直らなかったんだよ。これでもマシになった方」
「なんかお疲れ?あ、まあ座りなよ」
「あー、精神的には疲れてるかなぁ…あ、ありがと」
友人に促され椅子に腰を下ろす。
ちょうどランチの時間で賑わうイタリアンのお店だ。
友人は私の顔をまじまじと見つめて眉間に皺を寄せた。
「目の下青いけど大丈夫?何かあったの?」
「げ、隠したつもりなんだけどダメだったか」
「仕事?」
「仕事は楽しいよ」
「んー…じゃあ、男?」
「男ねぇ…、妙な出会いはあったけど残念ながら浮いた話じゃないわ」
「えー、またまたそんな事言って」
「聞いて残念がるがいいよ」
私は最近あった出来事を友人に話した。
始めはニヤニヤと聞いていた友人も少しずつ口許が引き攣り始める。
「女の敵だなダイスケ、デリカシーなさ過ぎ」
「あー、もういいやダイスケで」
「しっかし…間借りにも女子のベッドに潜り込んどいてアッサリ帰って行くとは」
「ちょっと、間借りにもって。ていうか食い付くとこソコ?」
「だって、ねぇ…ん?…あ!」
「え、何」
友人は私を見て何かを閃いた様な顔をした後、何故か憐みの目を向けて来た。
「…名前に女の魅力が無かったって事か」
「真顔で言うの止めて。ていうか別にそんなの求めてないし!」
そんなのはどうでもいいのだ。
だいたいあんな男がそういう対象になるわけがない!
私が言いたいのはとにかくアイツは失礼で口が悪くて…とにかく嫌なヤツだっていう事だ。
数々の失礼発言を思い出してイライラがぶり返した。
そんな私に彼女は楽しげな笑みを浮かべて話し出す。
彼女の妄想劇の始まりだ。
「ダイスケはきっとアレだ、ストーカー!」
「は?」
「だってあの辺りうろついてるんでしょ?」
「偶々でしょ」
「今までも気付かなかっただけでコソコソ着けてたのかもよ?」
「あんなでかくて目立つ青頭なんかすぐ分かるから」
「名前ったらストーカーを部屋に入れちゃうなんて恐ろしい子ッ」
「だってあんな所に置いとけないでしょ!良心だ良心!ていうかストーカーじゃないし!」
「は!そうか!手を出せなかったのはあまりに急接近に成功しちゃったからダイスケも戸惑ったんだわ!」
「もう駄目だこの子」
アイツの事を女の敵だと言っていた彼女は何処へやら。
勝手な妄想を繰り広げて楽しそうだ。
私はガックリと項垂れて、運ばれて来た出来立てのパスタに行儀悪くフォークを突き刺してクルクルと回した。
1日を友人と有意義に過ごした私は、地元の駅から家への道を歩いていた。
軽く飲んだお酒は程良く気分を高揚させてくれて、久しぶりに気持ち良く家に帰る事が出来そうだ。
更にテンションを上げるべくコンビニに寄ってちょっと値の張るカップアイスを買った。
大通りを逸れて住宅街に入れば人通りは無くなって、シンとした空間に自分のブーツの音とコンビニ袋のカサカサという音が響く。
なんだか急に怖くなって少しだけ歩く速度を速めた。
瞬間、後方からザリッとコンクリートの地面と小石が擦れる音が響く。
ちょっと待って…さっきまで私の後ろに人は居なかったよね?
「…じょ、冗談」
益々怖くなった私はポケットの携帯を握り締め、コンビニ袋を強く掴んで臨戦態勢を備えつつ更に歩きを速めた。
コツコツ、
ザッザッ、
コツコツコツ、
ザリッ、ザリッ、
ちょ、ちょっと!
私、大金も持ってなければこんなんだよ!?
私なんか狙ったって!
駄目だ!もう無理!
マンションの張り紙と若松さんから聞いた話で頭がいっぱいになって最早涙目だ。
こうなったらと勢いよく足を踏み出し駆け出そうとした所で、最大の恐怖が襲った。
「ひッ!!」
手を掴まれた。
ああ、もう終わりだ。
最悪の事態はもうすぐそこだ。
せめての悪足掻きに全力で手を振り払おうとギュっと拳に力を入れた。
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