100万打記念シリーズ | ナノ

23歳の約束

「名前」
「…」
「コッチ向け、名前」
「嫌」
「はぁ!?嫌ってな…お前ガキかよ」
「だって!大輝が悪いッ」
「だから言ってんだろ、悪かったって」
「そんなんで許せるわけ、ないじゃん馬鹿」
頭上で大きな溜息が漏らされた。
我儘言ってるって、大輝を困らせてるって自分が一番分かってる。
だけどあまりに急であまりに辛い現実を私はどうしても受け入れられずにいたのだ。
大輝がアメリカへ発つ当日だって。


大輝の誕生日の1週間程前。
久しぶりに一緒に休日を過ごしていた。
大輝は部屋でゴロゴロしている私に突然『旅行行くぞ』なんて言って旅行雑誌を数冊放って来た。
日程は大輝の誕生日に合わせて。
旅行は二十歳の時に行ったきり。
私は嬉しくなって大輝に飛び付いた。
嬉しさで舞い上がっていた私は全く気付けなかった。
頭上で大輝がどんな顔をしてたかなんて、全然。


「名前」
「ん?」
「名前」
「何?聞こえてるよ?」
「名前」
「え、ちょっと大輝どうしたの?」
観光を終えてお風呂も食事も済ませて、ホテルの部屋で寝る準備をしていた時だった。
ドレッサーで髪を梳かしていた私の背中に大輝がぴったりと貼り付いて私の動きを封じた。
俯いて私の肩に頭を乗せていて鏡でもその表情は窺えない。
返事をしても名前を呼び続ける大輝を不思議に思い振り向こうとしたけれど、それを遮る様にぎゅっと抱き締められて叶わなかった。
「大輝?ッ」
「ん」
突然顔を掴まれて振り向かされ唇が重ねられる。
思いの外強く当たったそれは少しの痛みを伴った。
そのまま飲み込まれる様に私は大輝に溺れた。
縺れる様にベッドに沈み、圧し掛かる巨体を受け止める。
いつもよりずっと激しくてしつこいくらいに私を求める大輝は、なんだか私じゃなくて何処か遠くを見ているみたいで酷く不安になった。

「…何かあった?」
「…」
「ねえ」
ベッドで私を抱き締めたままの大輝に問い掛ける。
眠気は飛んでしまった。
だっていつもすぐに寝息を立てる大輝が全然寝ないし…何より私を抱き締める力がどんどん強くなっている気がして、私の心の中にはさっきの不安がもっと広がっていたから。
そしてその不安は私の思い違いではなく、想像以上の破壊力を持って私を襲った。
「明日」
「ん?」
「明日から…アメリカ行く」
「…ん?」
「2年」
「ちょっ、と、待って…何言ってるの?」
私を抱き締める腕をぐっと掴んで少しの距離を開ける。
合わさった瞳は少し悲しげな色をしつつも、試合に臨む時の挑戦的な色をも宿していた。
冗談、じゃないんだ。
思わず息を飲んだ。
「…名前、」
「明日って、おかしいでしょ」
「…悪い」
「悪いって何?明日って、明日って!」
「名前」
「自分だけ心の準備してて、私の気持ちは置き去り!?」
大輝の腕を振り払い勢いよく体を起こした。
追い掛けて来た腕を押し退けて顔を伏せる。
いつの間にかじんわりと瞳を覆っていた水分がポタリと落ちてシーツに染みを作った。
「名前」
「酷い。大輝、酷い」
「名前」
「私の事なんかどうでもいいって事!?」
「名前!んなわけあるかよ!心の準備なんていくら経ったって出来なかったんだから仕方ねえだろ!」
「!?」
「お前にどうやって言やいいのかって今の今まで悩んで…今だってお前から離れる覚悟もなんも出来てねえんだよ!」
「ッ」
「家族の事も仕事の事もある。着いて来いなんて気安く言えるかってんだよ」
「ッ大輝」
腕を掴まれ引き寄せられた私は座り込んだ大輝の股座に納まる。
太く逞しい腕に後ろから包み込まれて動けなくなった。
その腕が震えている気がしてぎゅっと胸が苦しくなった。


大輝は海外のチームに期間限定で移籍する事になった。
国内のニュースになっていないのはチームの意向で、大々的に取り上げられるのはレギュラーシーズン開始と同時に大輝がベンチに入れた場合という酷くシビアなものだ。
本来ならばその10月末のレギュラーシーズンに出場すべく9月下旬からのトレーニングキャンプに参加する為、向こうの要望で8月上旬には日本を発たなければならかった。
けれど大輝が渋って渋って、自分の誕生日まではと無理矢理こちらに居座ったのだ。
「名前」
「何、馬鹿」
「まっすぐ帰ってまっすぐお前の部屋に行け」
「ちょっと!今お別れの大事な時なのに何の話!?」
「いいから帰ったら部屋行けって言ってんだよ!分かったか!」
「分かってるよ!バイバイしたら自分ちに帰るのなんて当たり前でしょ!?」
「何キレてんだよ!」
「大輝が悪い!全部!全部全部!」
「わーってるよ!ったく可愛くねえな!」
「どうせ…私なんかッ…う、馬鹿、大輝ッ」
絶対に流さないと決めていた涙は呆気なく流れ落ちた。
子供みたいにボロボロと流れる涙を、上を向きぎゅっと目を閉じ歯を食いしばって止めようと試みる。
けれど全く意味を成さず鼻水まで垂れて来る始末だ。
ふと顔が陰った気がしてゆっくり目を開けると、大輝の顔がすぐ目の前に迫っていた。
そして、チュッと一瞬唇が触れて…もう一度今度は深く重なった。
合間に何度も何度も『名前』と囁く大輝の声を感覚を全部を、私は耳に身体に焼き付けた。


大輝を乗せた飛行機が飛び立つのを見送ってから、抜け殻の様になって家に戻った。
まっすぐ帰れなんて言われたけどそんなの言われなくてもそうする。
どこかに寄り道して帰る気力なんてないのだから。
部屋に入った私はベッドにゴロンと横になった。
ふと視界に入ったのはドレッサーに置かれた見慣れない小箱。
私は飛び起きてそれを手にし、震える手でその箱を開けた。
「ッ、ホント…馬鹿ッ」

『20××.8.31』
箱の中にはリングが2つあって、それぞれに日付が彫られている。
1つは小振りなダイヤが埋め込まれたもので昨日の日付、そしてもう1つはシンプルなシルバーのリングで2年後の日付が彫られていて…
2つのリングの意味を理解した私は下手くそに笑った。

『何があっても2年後の予定空けとけ』
別れ際に大輝が囁いた言葉を思い出してまた笑った。
柄にもなくロマンチックな事して。
いつ会えるのかさえ分からないけど今度会ったら絶対に笑って冷やかしてやろうと決めて、ダイヤのリングを薬指に通した。

大輝の馬鹿。
大好きだ、馬鹿。

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