大我さんの下で働き始めて1週間程経った。
黄瀬さんがお友達を連れてお店にやって来た。
何故か黄瀬さんが苦笑いを浮かべてこっちを見て来る理由は、聞こえて来た話の内容で分かってしまった。
「見ろ笠松!カウンターの所…超可愛い子がこっち見てるぜ!あの子の為にカクテルを注文しよう」
「バカか、あれはどう見たってスタッフだろ!店内見回してるだけだろ、お前相変わらずだな」
「いいや、これは運命だ」
「はぁ…森山先輩、笠松先輩の言う通り名前ちゃんはここのお店の子ッスよ。服装見て分かって下さいよもう」
「いいや、それでもこれは運命だ」
ちょっと残念な人が居るらしい。
それでも注文だと手を挙げられれば向かわなければならないわけで。
私は黄瀬さんたちが座る席に向かった。
「黄瀬さん、こんばんは」
「名前ちゃん、元気そうッスね。仕事は順調?」
「はい。黄瀬さんが色々教えてくれたおかげですよ」
「お世辞が上手いッスね〜」
「君、可愛いね。火神、この子にピッタリのカクテルを」
「え」
「あ?」
「もう帰れよ森山」
森山さんと呼ばれたその人は注文を取りに来た私にではなくカウンターで作業をする大我さんに注文を飛ばした。
深い溜息を吐いた黄瀬さんと口許を引き攣らせた男性が私に目を向ける。
凄くかっこつけてキメ台詞を吐いている様だけれどあまりに古風で残念だ。
どうしたものかと苦笑いを浮かべているとカウンターから声が上がった。
「そいつはここのスタッフすよ」
「分かってるさ。でもオレはこちらの可愛らしいお嬢さんにカクテルをご馳走したい」
「は、はぁ!?おい黄瀬、そのイカれた先輩何とかしろよ」
「無理ッスよ、これが通常稼働ッス」
「はぁ!?なんで連れて来た!」
「笠松先輩と一緒に居たんスよ。来るって聞かなかったんだからしょうがないじゃないッスか」
黄瀬さんと火神さんが話している間森山さんは私を見て来た。
かっこいいけどこれはツライ!
隣でガックリと項垂れている黒髪の人…笠松さんという人は私を助けてくれる気力もないらしい。
そっと一歩下がって戻ろうとすると手を掴まれた。
「運命の相手にお酒をご馳走するのはいけない事かい?」
「う、えッ」
「今が無理というなら君が上がるまで待とう、いつまでも」
「ええ!?」
「森山先輩〜ッ」
「おい森山!そろそろ本気でこっ恥ずかしいから止め、ろ、…」
「手、離せよ…です」
「え」
笠松さんの声が途切れた瞬間すぐ近くで聞き慣れた声が響いた。
と同時に手首に大きくて熱い手の感触。
大我さんの手が私の手首を掴んでいた。
「悪い火神。コイツ今連れて帰るからよ」
「え、笠松先輩帰っちゃうんスか!」
「また出直す。今度はコイツ抜きでな」
「…まあ、仕方ないッスね。じゃ、森山先輩、また新しい運命の相手見つけて下さいッス」
「何!?この素晴らしい出会いを無かった事にしろと!?」
「うるせえ黙れ!帰るぞ森山ぁッ」
「ははーん。さては笠松僻んでるな?」
「僻むかバカ!あ、悪かったな、お前」
「い、いえ」
笠松さんが森山さんを引っ張って出て行ってしまった。
残された黄瀬さんは私を見て肩を竦めて見せた。
私もそうしたい所だけどちょっと今は出来そうにない。
「大我さん」
「ったく。なんなんだよあの人」
「た、大我さん」
「黄瀬、もう二度と連れてくんなよ」
「俺に言わないで欲しいッス」
「ッ大我さん」
「ん?」
限界だった。
好きな人に痛い程しっかりと手を掴まれているのは。
大我さんより先に気付いた黄瀬さんが笑みを浮かべる。
勿論あまりいい笑みではない。
「火神っち〜」
「なんだよ。ああ、注文か?」
「それ。そーれ」
「ん?」
黄瀬さんが『それ』と言って指差したのは私の手。
そこへやっと目を向けた大我さんは目を見開き、大袈裟に驚いて私の手を離した。
あ、これちょっと傷付く。
「わ、悪い!」
「…いえ」
「名前ちゃん、あっちでお客さん呼んでるッスよ」
「は、はい!」
黄瀬さんに促されて私は慌ててその場を後にした。
呼ばれた席に向かいつつ、気付かれない様そっと大我さんを振り返る。
結局1人飲みになった黄瀬さんは大我さんを連れてカウンターに行き腰を落ち着けた。
私はドキドキと煩い心臓の音を鎮める事が出来ないでいた。
森山さんに握られた手はもう何ともないのに、大我さんの熱い手の感触はいつまでも消えなかった。
「名前、お疲れ」
「お疲れ様です、大我さん」
他のスタッフが全て退勤して事務所には私と大我さんの2人になった。
着替えも済ませて荷物も取り出した私は後は帰るだけだ。
大我さんも着替えは済ませたものの、疲れが溜まっているのかパイプ椅子にだらんと体を預けて動かない。
研修はしたとはいえ新しく私が入った事で負担も多いからだろう。
オーナーは大変だ。
尤も、スタッフと一緒になってこんなに頑張って働くオーナーなんてなかなか居ないと思うけど。
私は大我さんのそういう所が…考えて止めた。
こればっかり。
どれだけ彼の事が好きなのだろうと自分ですら呆れる。
「よっしゃ!名前、帰ろうぜ」
「あ、はい!」
気合いを入れて立ち上がった大我さん。
鍵を準備して急いで出口に向かえば、不意に私の頭に大我さんの手が乗った。
「!…大我さん?」
「ん?」
「?」
「お前、よく頑張ってるよな」
「え」
「良かった」
「?」
「お前来てくれて良かったよ。ありがとな」
「!!」
ポンポンと頭を叩いて大我さんがドアを開ける。
私は何も言う事も出来ず反応する事も出来ず、その後をフラフラと着いて行くだけで精一杯だった。
だってこんなの、嬉し過ぎる。
鍵をして振り向けばニカっと笑顔を向けてくれた。
仕事の疲れも一気に吹き飛んだ。
嬉しくて笑顔を返した単純な私に大我さんは更に幸せをくれた。
「家まで送る」
「えっ」
「ラストまでの時は危ねえだろ。今日の黄瀬の連れみたいな変なヤツも居るしよ」
「…あ、森山さん」
「何かあったら言えよ?」
「はい、ありがとうございます」
「ん。じゃ行こうぜ」
「は、はい!」
歩き出す大我さんの後に続いた。
今日は妙な人には出会ったけれどこんな幸せな事が待ってたならもういいや。
久しぶりに純粋に嬉しいと感じたこの気持ちを忘れたくない。
少し先で揺れる彼の赤い髪をしっかり目に焼き付けたい。
大我さんと一緒に帰れる幸せを噛み締めた。
「大我さん、ありがとうございました」
「おう、気にすんな」
結局部屋の扉の前まで送ってくれた大我さんに深々と頭を下げる。
毎回ここまでして貰うのは申し訳ないなと思いつつ、実際飛び上がりたいくらい嬉しい事に変わりはなかった。
「じゃ、明日もよろしくな!今週はなんだかんだ忙しくなりそうだ」
「はい!頑張りましょう!」
「お前のそういう元気な所、いいと思うぜ?」
「!」
「おやすみ」
「!おっ、おやすみなさい!」
大我さんはまたしても爆弾を投下して帰って行った。
彼の言葉はいつもストレートだと分かっていても、こんな風に連打されたら慣れない私はすぐにダウンしてしまいそうだ。
でもそうやってストレートに物を言えるという事はやっぱり自分は意識されてないんだななんて思って少し悲しくなった。
うん、でも負けない。
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