『無事帰れたか?帰れたかだけでも連絡くれ』
帰宅後、私はベッドに飛び込んで後悔しまくっているうちに寝てしまっていた。
メールが来ている事に気付いたのはその後だ。
受信時刻は私がお店を出て10分程経った頃。
あれから2時間が経過していた。
大我さんは馬鹿みたいに優しい人だ。
あんな事になったのに心配してメールなんかしてくれる。
『帰宅しました』
たった一言を送信して私はまた目を閉じた。
今はもう何も考えたくない。
「あ、あの…」
「なんだ」
「何かと聞きたいのは私の方なんですが」
「キミが知りたいのは雇用条件の詳細か?それなら契約書に事細かに記してあるはずだが?」
「いやそういう事じゃ無くてですね」
「ならなんだ」
「私が聞きたいのは…何故赤司さんが私の家に来ているかという事なんですけど」
「愚問だな」
「愚問!?」
大我さんと会ったあの日から1週間が過ぎていた。
気分は最悪だったけれどいつまでも落ち込んでいられない。
私は相変わらずバイトを掛け持ちしてせっせと働いて過ごしていた。
そんなある日、自宅のあるアパートの前に何時ぞやの黒塗り高級車が停車していた。
見覚えがあり過ぎる。
嫌な予感しかしなくて無視を決め込んでいれば何事も無く通過。
考え過ぎだったかな。
なんて安心したのも束の間、部屋の前に威圧感たっぷりに立っていたのは赤い髪の男の人だった。
言わずもがな、赤司さんだ。
「俺の人選に過ちなどない。キミには予定通り働いて貰うよ」
「わ、私!返事してないんですけど」
「火神からはあと3週間後には来る事になっていると聞いたが?」
「え?」
「ほら、早く契約書」
「ちょっと、待ってくださ」
「俺は暇じゃないんだ」
「!」
鋭い眼光に思わず身を強張らせる。
そういえば赤司さんの名刺を受け取らずに、今考えれば結構失礼な事をしてしまったと焦る。
『考えさせて下さい』等と言う余地ももう無さそうだ。
「あの…私、バイト掛け持ちしてるんです」
「それが?」
「急には辞められないというか、」
「キミ程度の人材なら突然辞めたとしてもすぐに見つかるだろう」
「あー…はは」
「だが、」
「?」
「あの店に必要なのはキミだと、俺は見込んだんだが」
「…え」
「俺に恥をかかせる気か?」
「!」
感じたのは底知れぬ恐怖とそれとは真逆のはずの妙な安心感。
きっとこういう人だから大企業のボスが務まるのだろうと思わされた。
『あの店に必要』なのが私?
到底そうとは思えないけれど、そんな事を言われたら偏屈な私だって嬉しいものだ。
大我さんの事で悲観的になっていた気持ちが幾分か和らいだ。
「今の仕事をあと2週間で辞めて、残り1週間で研修だ」
「ええ!?」
「なんだ?自分で辞められないというなら俺が代わりに」
「いいいいいです!自分でなんとかします!」
「始めからそうしろ」
「す、すいません…ところで研修って?」
「研修は研修だ」
「何処かに行くんですか?」
「近隣の店舗での研修だ」
「…え、近隣?」
一難去ってまた一難。
私の研修先は青峰さんと彼女さんのいる店舗…つまり私が初めて大我さんに会ったお店だった。
「苗字名前です!っよろしくお願いします!」
「よろしくね!名前ちゃん、でいいかな?」
「!…は、はい」
「こっちがオーナーの青峰くんで私は、」
「知ってます。彼女さん、ですよね?」
「え…あ、そう。赤司さんから聞いてたのかな?」
「…そんな所です」
少し刺々しかっただろうか。
でも私はこれ以上自分の顔と態度を『いい人』にでっちあげる事なんて出来ない。
そんなに出来た人間じゃないから。
青峰さんに視線をやると気まずそうに逸らされた。
私と知り合いだと言う事は彼女に話していないらしい。
いっその事これをネタにして引っ掻き回してやろうか、なんて最低の考えが浮かぶ。
ああ駄目だ、こんなだから私は幸せになれないのだろう。
彼女さんは良くも悪くも『普通の人』だった。
本当に普通の。
でも彼女を見る青峰さんの目は優しくて、彼女の周りには柔らかい空気が流れている。
他のスタッフに対する態度も当然お客さんに対する態度も物腰柔らか。
けれど仕事には真摯だ。
とてもとても真面目な人なのだろう。
それを見ているうちに大我さんは彼女のこういう所に引かれたのかもしれないという思いに至る。
自分で自分を落ち込ませた後に、赤司さんに言われた言葉が更に追い打ちを掛けた。
『あの店に必要なのはキミだと、俺は見込んだんだが』
こんな人の代わりに私なんかが必要なわけない。
お店にとっても、ましてや大我さんにとっても…
そんなマイナス思考にのまれながらも、仕事だけはしっかり覚えなければと必死になった。
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