「お邪魔しまーす」
玄関の扉をそっと開けて誰も居ない部屋に足を踏み入れる。
不法侵入じゃないという事は大声で宣言しておきたい。
私は食事のお手伝いを再開してすぐ、再び跡部さんからカードキーを渡された。
丁重に断ったのだけど跡部さんが折れる事はなく、仕方なく私はそれを受け取ったのだ。
本当は受け取りたくなかった。
もしまた前みたいに返さなければならない時が来るなら、元から手元に無い方がいいと思ったから。
数日ぶりに訪れた跡部さんの部屋はまた少しだけ散らかっていた。
食事に加えてリビングの簡単な片付けもする事になった。
なんだか家政婦になった気分だ。
それをついこの間忍足さんに言ったらデコピンされた。
スマートな跡部さんが見せる所謂『駄目』な部分が、申し訳ないけど可愛くてつい笑ってしまう。
ソファに掛けられた服を手に取りハンガーに掛けながら、跡部さんとのやり取りを思い出した。
『かっこ悪くて笑えるだろ』
『何がですか?』
『…何がってお前…』
『だって、いいじゃないですか』
『あーん?』
『ちょっとくらい弛んだ部分があってもいいと思います』
『…』
『跡部さん、何でもスマートに熟し過ぎなんですから…こういう一面、なんだか可愛いなって』
『!か、可愛い、だと?』
『え、あ!ご、ごめんなさい!あのッ』
『…』
『あ、跡部さん…』
『っくく…この俺が、可愛いなんざ言われるとはな』
『すみません!』
『別に怒っちゃいねえよ。こんな俺を知ってるのは…苗字、後にも先にもお前だけだな』
『!』
『悪くねえ』
片付けを終えて夕飯の準備も終わった。
後は跡部さんの帰りを待つだけだ。
『少し遅くなるが予定が無ければゆっくりしててくれ』と言われた。
今日は金曜だけどいつもの様に飲み会や他に予定も無い残念な私は、跡部さんに言われた通り部屋で待たせて貰っている。
ソファをお借りして背凭れにダランと体を預けた。
時計を見ると20時を過ぎた所。
全身の力を抜いた事で少しずつ眠気が襲って来た。
料理の味見、し過ぎたかな。
完全に脳が寝る体勢になってしまった私は、跡部さんが帰って来るまでの少しの間だけと目を閉じた。
カタンという小さな物音が遠くで聞こえた気がする。
だけど力の抜けきった体は動いてくれる様子はないし、酷い眠気のせいか瞼も持ち上がってくれそうにない。
もう少しだけ、寝たい…
睡魔に勝てず徐々に意識が遠退いて来た時、ギシッという音と共に自分の体がほんの少し沈んだ感覚。
と同時、柔らかく温かい何かがそっと私の頬を掠めた。
そして、それは一瞬で離れたと思えば…
今度は唇に、触れた。
「ん」
極近くで自分では無い低く色気のある声が漏れ聞こえ、ゆっくりと意識が浮上する。
薄く目を開けた先にゆらゆらと見えたのは、長い睫毛と金に近い茶色の綺麗な髪だった。
未だぼんやりとした意識の中、私はこれは夢なんだという結論に辿り着いた。
辿り着いた、はずなのに…
息、苦しい…
「う、んっ」
「っん」
「!」
自分の声と自分以外のそれが鼓膜に響いた瞬間、弾ける様に目が覚める。
そして突然私の視界に入ったのは夢なんかじゃなく本物の…
「…あ、とべさッ…んっ」
「ん、目、閉じてろ」
「ッ」
吐息混じりの優しく切なげな声に、胸が苦しくなって頭がグラグラと揺れる。
抵抗する気なんて起きなかった。
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