キミのトナリ | ナノ

もう一度

どのくらいこうしていたのか。
『名前』と私の名を一度発して以来一言も喋らない跡部さん。
と、ただ顔を赤くして腕の中に納まっているだけの私。
跡部さんの手が私の後頭部と背中を支えていて、そこがだんだんと熱を持ち始めていた。
そしてここが部屋の前、つまり外だという事を思い出して私は慌てた。
「あ、跡部さんッ」
「……」
「あの…」
「……!」
「え!」
突然、ガサガサーッと音でも付きそうなくらいの勢いで跡部さんが離れた。
途端に温もりを失って寂しいと思ってしまった事は心の内に。
お互い目を見開いて見つめ合う。
いきなり抱き締められた事も、跡部さんが私を名前で呼んだ事も…
起きた事全部わけが分からなかった。
「ッ苗字、わ、悪い…」
「い、いえ…大丈夫、です」
そしてまた沈黙。
暫くの沈黙の後、手前の家の住人が帰宅しながらこちらをジロジロと見て来た。
これは早く立ち去った方がいい。
そう思って紙袋を持って跡部さんに向き合おうとすると、今度は強く手を引かれた。
「!」
「上がってくれ」
言葉とは裏腹な有無を言わさぬその行動に抗う事なく、私は久しぶりに跡部さんの部屋に招かれた。

跡部さんの部屋はあの時見てしまった状態と変わらずに殺伐としていた。
言いにくいけれど、以前のスマートな部屋とは思えない程。
要するに跡部さんらしくない。
とはいえ私が跡部さんの何を知っているというわけではないのだけれど。
中に通されぎこちなくダイニングの椅子に腰を下ろす。
手持無沙汰でソワソワしていれば、キッチンから紅茶のいい香りが漂って来た。
カップを2つ手にした跡部さんが近付き、それをテーブルに置いて私の目の前に腰掛ける。
真っ直ぐ私を見て来るその瞳にドキドキと心臓が騒いだ。
「悪いな、散らかってて」
「いえ」
「…実家に、帰ってたのか」
「はい」
「…」
「…」
「苗字」
「は、はい」
「…さっきはすまなかった」
「!…いえ」
突然跡部さんに謝られた私は戸惑う一方だ。
『さっきは』とはきっと…抱き締められた事。
思い返した事であの感覚がぶり返してまた頬が熱くなった。
一つ息を吐いた跡部さんがまた訪れていた沈黙を破った。
「……心配した」
「え…」
「…急に見なくなったから」
「あ、跡部さん…」
ふと顔を上げたらバチリと目が合ってしまった。
跡部さんがあまりにもじっと見て来るものだから、なんとなく自分から目を逸らせず…暫く見つめ合う事になる。
『心配した』って…本当に、私の事を?
会社に電話があったという事をふと思い出して、その真意を窺う様に跡部さんを見た。
「…情けねえ話なんだが」
「跡部さん?」
「…意地張っても結局碌な事にならねえな」
「?」
「苗字」
「は、はい」
「もう一度…お前に依頼してもいいか?」
「え?」
「本当に情けねえな……食事、また作ってくれないか」
「!」
驚いて目を見開けば、跡部さんは眉を下げて酷く困った様な顔になっていた。
そんな表情の跡部さんには凄く失礼だと思いながらも、私は嬉しさを抑え切れずに自然と頬が上がってしまった。
「勿論ですよ、跡部さん」
私の返事に跡部さんは久しぶりの笑顔を見せてくれた。
ふっと笑って紅茶を飲み干す。
「早速だが、今から頼む。キッチン自由に使ってくれ」
「はい!」
単純な私はまた跡部さんと今までの様に会えるのだという事がただ純粋に嬉しくて仕方なかった。
突然不要とされて、また突然必要とされて…跡部さんの意図は分からないけれど、私には会えるという事だけで十分だったのだ。
どれだけ自分が跡部さんを想っているのかがまた露呈した様で自分で恥ずかしくなったのは勿論秘密だ。
この状況を忍足さんに見られなかった事にホッと胸を撫で下ろした。
この後、冷蔵庫が見事に空っぽだった現状を目の当たりにして自宅に戻って作ろうとしたのだけど、跡部さんが『一緒に作って食べるぞ』と言い出したので二つ返事でOKし、材料を取りに戻ったのだった。
『一緒に』という言葉が嬉しかった。

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