突然役割を失った私は思ったよりも堪えていた。
あれから暫く経つけど、跡部さんとはあまり顔も合わせなくなっていた。
朝つい多めに作ってしまった料理を見て溜息をついた事が何度あっただろうか。
そんな事をぼんやりと考えながらハッとしてまな板を見れば、少し多く切り過ぎた玉ねぎ。
「あーあ、またやった…」
夕飯の分に使おうとラップをして冷蔵庫にしまう。
と同時、ガシャン!という音が響いた。
籠って聞こえたこの音は多分跡部さんの部屋からだ。
何があったのだろうか、音からしてお皿かグラス類が割れた様な感じ。
…気になる。
困っているなら助けたい。
だけどそれは親切の押し売りで、もしかしたら跡部さんにとっては迷惑かもしれない。
食事だってもう要らないって、家事にも慣れて来たって言われたんだ。
私が出る幕じゃない。
そう思いながらも、私の足は自然と跡部さんの家に向いていた。
「必要ないって、帰れって言われたら帰ればいいんだ…」
自分に言い聞かせて少し歩みを速めた。
ピンポン
…
ピンポン
…
3度目を鳴らそうか、部屋に戻ろうかと悩んだ所でガチャリとドアが開いた。
「苗字…」
「お、おはようございます…」
「ああ、はよ」
久しぶりに見た跡部さんの顔はなんだか疲れている様に見える。
口許を覆いながら欠伸を噛み殺していた。
寝不足なのだろうか。
そしてふとドアと跡部さんの隙間から見えてしまった部屋の状況に、私は唖然としてしまった。
一言で言えば『雑然』…とてもあの跡部さんの部屋とは思えなかった。
仕事が忙しいのだろうか。
私の視線に気付いたのか、跡部さんが体を使って部屋を隠す様に動いた。
「あの…跡部さん」
「…なんだ」
「いや、あの…」
「…」
「…」
「…」
何て切り出したらいいか分からず、まさか『大丈夫ですか?』なんて失礼な事も言えるわけも無く…沈黙に耐えかねた私は視線を落として一歩下がった。
「すみません…朝からお邪魔して。失礼します…!」
「ッま、待て」
跡部さんの手が私の手首を掴んで引き留めた。
弾かれた様に顔を上げれば、いつもは鋭い跡部さんの瞳が戸惑う様に揺れていた。
私と目が合うとその瞳を大きく見開く。
その時、通路に聞き慣れた声が響いた。
「跡部?」
近付いて来たのは、いつもより更に高価そうなスーツを身に纏った忍足さんだった。
「名前ちゃん、おはようさん」
「おはようございます」
「跡部ん事迎え来たんやけど…お取込み中やったな…すまん」
瞬間、私の手を掴んでいた跡部さんの手がバッと離れた。
行き場を失った私の手は重力に従ってパタリと定位置に戻った。
「…跡部、今日は大事な会議や。早めに出社せな」
「分かってる」
「準備は出来とるんか?」
「ああ。ジャケット着るだけだ」
「ほな、早うせんと」
忍足さんに促されて跡部さんは部屋に消えて行った。
私も戻ろうとした所で忍足さんに呼び止められる。
私の顔を窺う様に話し始めた。
「名前ちゃん」
「はい」
「…なんか、あったか?」
「い、いえ!何も…今まで、通りです」
「今まで通り、か。邪魔してもうて堪忍な。今日は重要な会議があるんや」
「邪魔だなんて!私も仕事なので、戻りますね」
「また今度ゆっくり話聞いたる」
「大丈夫ですよ、忍足さん」
「そんな顔しとる子、放っとけへんわ」
そんな顔って、私は今一体どんな顔してるんだろう。
顔を顰めればポンと頭の上に忍足さんの手が乗った。
「応援したなるんや」
「…」
「なんや妹みたいでな……可愛くて放っておけへん」
「!お、忍足さん」
ガチャリと音がしてドアが開く。
忍足さんと同じ様に高級感のあるスーツ姿の跡部さんが部屋から出て来た。
その目は私を視界に入れる事なく忍足さんに向く。
「…行くぞ、忍足」
「名前ちゃん、ほなな」
「はい。いってらっしゃい」
「おい跡部、ちょお待ちぃ」
スタスタと歩く跡部さんに続いて忍足さんも去って行く。
私を気にしてか振り返りながら歩く忍足さんとは対称的に、結局跡部さんは何も言わず目も合わさず、一度も振り返る事無く行ってしまった。
『いってくる』とか何か言葉を待ってたなんて…私は一体何を期待してるんだろうか。
そうだ、私はただの隣人。
跡部さんの家の隣に住む…ただの『お隣さん』だ。
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