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「クダリ、」

 苦しそうな吐息とともに、たったひとりの兄弟がぼくのことを呼んだ。早々に帰宅したぼくとは違い、残業していたノボリがようやく帰ってきたのだ。時計の針は既に11時を指している。ぼくは暇つぶしに読んでいた雑誌を放り出して、部屋の入り口に立っているノボリの元へ駆け寄って、ぎゅっと抱きしめた。おかえりノボリ!といつもの調子で言ったけれど、なぜかノボリからの返事はない。ただ熱い吐息がぼくの首筋を撫ぜるばかりだ。不思議に思って顔を上げてみると、ノボリはどこか青い顔で、ぼくをうつろに見つめている。

「ノボリ…?どうしたの?具合、悪い?」
「……そういうわけでは、ないのです、が」
「でもノボリ、すごく苦しそう。……あ、」

 言いながら、ぼくはひとつ、ノボリのこんな状態の原因かもしれないものを思い出した。ちょっと待ってて、とノボリに声をかけてから、慌てて台所へ向かう。よく研がれた包丁を手に、ぼくは片割れの元へと駆け戻った。具合が悪いわけじゃないなら、思い当たることは、ひとつだけ。ぼくは包丁をノボリに見せた。ノボリはびくりと少し怯えたように肩を震わせて、ばつが悪そうに俯いてしまう。
 …最近はないと思ってたけど、今までにもこんなことはあった。そしてぼくがノボリの力になろうとするたび、ノボリはこうやって申し訳なさそうな、悲しそうな顔をする。ぼくはノボリを悲しませたいわけじゃないのに。何だかぼくまで悲しくなってしまうけれど、ノボリがつらそうにしているのを見ているのはもっと嫌だった。

「ノボリ、ほら」

 ぼくは指先に包丁を押し当てて、そのままためらいなく引いた。ちりっとした熱のようなものが駆け抜けて、その熱源からじわじわと赤い液体が溢れ出す。熱さにも似た感覚はだんだんはっきり痛みに変わっていって、ずきずきしたけれど、そんなことはどうだってよかった。ぼくはノボリに血の流れる手を突きつける。

「ノボリ、ぼくは大丈夫だから」

 できるだけ優しくそういうと、ノボリはおずおずとぼくの手首を掴んだ。そうしてぼくの指先を、ぱくり、と口に含む。ぬるぬるとした舌がぼくの指先を這い回る感覚に、思わず腕を引っ込めそうになったけれど、なんとか堪えた。最初は遠慮していたノボリだけど、暫くするうちに、ささいな抵抗感もなくなったらしい。舐められたり、少し強く吸い付かれたり、積極的にぼくの血を得ようとしているみたいだった。
 ようやくノボリがぼくの手を解放する頃には、すっかり血が止まっていて、ぱくりと浅く割れた傷口が残るだけになっていた。

「……すみません、クダリ。痛かったでしょう…」

 ノボリは申し訳なさそうに呟いて、いたわるようにぼくの指先を見つめた。ぼくはぶんぶんと首を振って、笑って見せる。

「大丈夫!これくらい、全然平気!だから気にしないで、ね?」
「……そんなの、気にしないわけが、……。…とりあえず、指、……手当てしましょう」

 ――ノボリはとても優しい。ぼくが好きでやっていることなのに、実際に傷がついたのはぼくなのに、いつもノボリが痛そうな顔をする。ぼくは大丈夫なのに、全然平気なのに、いつも悲しそうな顔をする。ぼくよりもノボリの方が苦しくてつらいはずなのに。ノボリは優しいから、そんな顔をする。

 ぼくなんてノボリのためなら、いくら傷がついたって、全然いいのに。



++++
ヘマトなノボリさんとノボリのためならいくらでも血をあげられるクダリちゃん。
ノボリさんはクダリちゃんを傷つけたくないけど、クダリちゃんはノボリさんのためなら傷つくことに抵抗がない。
とか言うすれ違い…


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