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「…、」



仕事が終わって家に帰って来てみれば、部屋中に広がるのは赤い血飛沫。
…また、やってもうたんか。


はあ、とため息をついて目線を前にやると、カッターを手に持ったまま横たわる恋人の姿。
その白い手首には、何個あるかもわからない程に新しい線が作られていた。


俺は乱暴に鞄を放り投げると、近くにあった包帯と消毒を持って、彼女へと近寄る。
虚ろな濁った瞳に、俺の姿が写された。



「…まさ、」

「…またやったんか?」

「…、…ごめんなさ…、ごめんなさい…」



そして、問い掛ければ泣き出す始末。
何度俺は、目の前にいる愛しい恋人を俺の手で追い詰めてやりたいと思ったのだろうか。


けれどそうすることができないのは、やっぱり愛しているから、なんだろう。
死んでしまったら、どうすることもできなくなってしまうのだから。



「…べつに、ええよ。ほら、泣き止みんしゃい」

「まさ、まさ…はる…」

「痛いんじゃろ、手」



ぽんぽんと頭を撫でながら、一回りも小さくて細い名前を抱きしめる。
痛いんじゃろ、そう問えば素直に横に投げだされる腕。


生々しい傷痕が無数に腕に残っていて、その光景に少しだけ吐き気を覚えた。



「…腕、見して」

「…、」

「…なして、またやったん?」



できるだけ優しく腕を掴みながら問い掛けると、細い肩がびく、と震えた。
理由なんてわかりきっているけれど、俺は名前が自傷するたびに必ず理由を問い掛ける。


彼女が何を求めて自分を傷つけるのか、少しでも理解してやろうと思っているから、だ。
けれど未だに、俺は恋人である彼女のことを理解仕切れない。
更にはなぜこんなことをするのか、彼女の想いというものが全くわからなくなってきたのだ。



「…寂しい…寂しいから…、切ることで寂しさを紛らすの…。雅治がいないとね、…すごく心が痛いの…」



ああ、やっぱり。
彼女は、寂しさを感じると自らを傷つけてしまうのだ。
けれど俺だって、四六時中名前の傍にいることはできない。


どうすれば、どうすれば彼女は自分を傷つける行為をしなくなるのだろうか。
どうすれば、俺のこの苦悩は消え去ってくれるのだろうか。



「…わたしの寂しさは…雅治にはわからないよ。この傷よりも、寂しさの方が何倍も痛いし…大きいんだから」



俺が頭を抱えて考え込んでいる隙に、彼女はまたカッターを手に持っていた。
そしてあろうことか、彼女は俺に向かってカッターを振りかざしたのだ。


俺は咄嗟に後ろへ後退し、カッターが刺さることを防ぐ。
人には見せたことのないような、自分でも恐ろしい顔をしているのがわかる程に鋭い瞳で彼女を睨むと、彼女はいとも楽しそうに笑顔を見せた。



「ねえ雅治、わたしとひとつになろう?」



やばい、と直感的にそう感じた。
ゆっくり彼女の行動を見計らいながら立ち上がり、台所に向かって走る。
すぐに包丁を手に取って、愛しいはずの恋人に刃を向けた。



「…なに考えとるんじゃ、お前さんは」

「まさはる、と…ひとつになる、ことよ…?」

「…馬鹿な真似はよしんしゃい。…まさか、ずっとこんなこと考えとったんか?」

「当たり前、じゃない」



ぞく、背筋に悪寒が走る。
今まで俺は、こんなに恐ろしい女と一緒に居ったんか…?


俺は覚悟を決め、彼女に向かって手を突き出した。
包丁が彼女に突き刺さる音が、リアルに耳に残る。


べっとりと俺の手に付いた赤い鮮血を目にした瞬間、俺の目からは涙がとめどなく零れた。


俺は、愛しい恋人をこの手で犯ってしまったのだ。
正当防衛とはいえ、罪悪感に俺の心は崩れ落ちていった。
20111220