B akuman


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玄関の鍵を開けて室内に入る。ややくたびれた男物のスニーカーがあるのに気づいて、蒼樹は眉をひそめた。

心当たりは一人しかいない。
廊下の明かりを点けて、重い足取りとともに寝室のドアを開ける。

「七峰くん」

ベッドで寛いでいた男は、ちらと視線を蒼樹に向けて読んでいた漫画をとじる。そうしてあくびを一つしたあと、身体を起こしてベッドに座った。

「おかえり」
「・・・・また、来ていたの」

予想していた相手に蒼樹は諦めたようにバッグを置いて、コートをハンガーに掛ける。時刻は夜の9時をとうに過ぎていた。

「遅かったね、デート?」
「あなたには関係ないでしょう?・・それより、いいかげん鍵を返しなさい」
「別にいいじゃない、僕とセンセイの仲でしょ」

センセイ、と含みを持たせた言い方が不快で七峰を睨む。それは漫画家としての「先生」ではなく、別の意味で「センセイ」であった。

「もう・・いいかげんにして」

既に7年も前のこと。こんなふうに時が経ってまでも縛られるとは思わなかった。



◆◇◆



あの時、蒼樹はまた大学に入ったばかりで。
慣れない環境に戸惑い、また漫画家になりたいという夢も、これといった結果を出せずにいた。
そんな時、知人から家庭教師のアルバイトをしてみないかと話があり、蒼樹は軽い気持ちでそれを受けた。

中学受験を控えているらしいその少年の名は、七峰透。

明朗で人懐っこく、賢い生徒で。
「先生みたいな姉が欲しかった」と慕ってくれるのが嬉しく、蒼樹もそういう気持ちで彼に接していた。たまに冗談が過ぎるときは厳しくしたが、今思えばどこか甘さがあったのかもしれない。結局、彼の隠れた部分に気づいていなかったのだから。

小学生の彼は子供で。守るべき相手だった。優しい気持ちで接してあげたい、存在だった。
だからあの時、まっすぐな瞳で告げられた時、蒼樹は答えに窮した。

『先生が、すきです』

親愛の告白ではないことは、すぐに解った。純粋に嬉しかったが、かといって受け入れることもできない。断ろうにも上手い言葉が浮かばなかった。
忙しい両親に彼が拒絶されているのを家庭教師の短い期間で十分気づいていたから、できるだけ優しく断ってあげたかった。けれどどうあっても彼を傷つけることに、気づいてはいなかった。

『・・そういう言葉は、大人になってから使いましょうね』

苦し紛れな言葉は、空虚に響く。拒絶したつもりはなかったが、彼はそう感じたのだろう。
七峰の瞳が暗く翳った瞬間、それは唐突に起きた。成長期とはいえまだ視線すら合わなかった彼が、すぐ目の前にいて。全くの不意打ち。重ねられた唇の感触がキスだと悟ったのは、しばらくしてからだった。

『大人って?』

そう言った七峰の瞳が今まで見たことのない嘲弄を含んでいて、混乱する。
牡の匂いを感じさせない唇は少女のように柔らかく、吸いつくように蒼樹の唇を弄ぶ。突き放そうと胸を押す手を掴まれて、そのまま体重をかけてきた。
強い衝撃を背中に感じ、学習机の上に仰向けにされる。圧し掛かるように真上にいる七峰を見て、蒼樹は戦慄した。そこにいるのは、今まで知っていた少年ではなかった。支配的で狡猾な男の姿であった。

照らす机のライトが眩しくて、目を開けていられない。子供だと思っていた力は思いのほか強く、押さえつけられた手首は赤く腫れた。抗いの声は空しく、さらなる痛みに変わる。
涙が溢れたのは悲しかったからではない、恐ろしかったのだ。
信じられない行為に及びながらも、しだいに反応していく己の身体が。手が、指が、舌が、誘うように動く。背徳は麻薬のように沁みわたり、少年によってもたらされる快楽は、蒼樹の精神をゆるやかに麻痺させていった。

『いやらしいな、先生は』

揺さぶられる視界の中、声変わりする前の甘く尖った囁きが、ずっと耳元から離れなかった。


その後のことは、あまり憶えていない。
どうやって終わったのかも、どうやって帰ったのかも。

家庭教師のアルバイトは、その日以来行くことはなかった。七峰家からも催促はなかったので、おそらく彼から両親になにか言ったのだろう。
しばらく精神的に苦しい日々が続いたが、それを忘れる為に描いた漫画がいくつか雑誌に載ったり賞を取ったりして、必死に記憶に蓋をしていった。いつか忘れることを信じて。

環境が変わり忙しい日々を送っているうちに、蓋した記憶の存在も曖昧になってくる。複雑な感情に折り合いをつけていく。気づけば7年が過ぎていた。
漫画家という夢も叶え、新たな出会いもあり、それなりに順調であった頃。蒼樹の前に再び「彼」が現れた。

『七峰透』

その名前をジャンプ誌面で見たとき、不思議なことにあまり衝撃はなかった。どこか遠い世界の出来事のように現実感がなく、感情は漠然としていた。
けれど7年かけて堅牢にした記憶の蓋は、たった一度の再会で簡単に開いてしまう。

『はじめまして、七峰透です』

新年会でそう挨拶された時、蒼樹は激しく動揺した。喧嘩でもしたのか七峰の顔は傷だらけだったが、にこやかに愛想よくこちらを見る。その瞳の奥に、あの日見た嘲弄が映っている気がして恐ろしかった。
蒼樹です、となんとか戸惑いを抑えて挨拶をする。けれどその後一言か二言、どうでもいい会話をした後に七峰は『では失礼します』とあっさりいなくなった。
もう忘れているのだろうか、怒りと同時に微かな失望を覚えていたが、自分もこれ以上彼に深入りする気はなかったので、それならそれでいいと割り切り新年会を後にした。

しかしマンションの前で七峰の存在を確認すると、忘れてなどいなかったのだと蒼樹は悟った。


『お久しぶりです、先生』


オートロックの玄関口を背にして笑顔を向けた彼は、7年前の少年の面影が確かにあった。









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BAKUMAN


(bakuman....)





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