D.gray-man U
まどろみ
走っていた。
血の味が口腔にして、なにかが焼ける不快な臭いが鼻につく。
走っているのか逃げているのか、ただ苦しくて堪らなくて。
逃げてはいけない、逃げたい、逃げられない。
追って来るのは何なのか敵なのか味方なのか、それすらも分からない。
やめようか、走るのを。
走る意味も分からないのに。走っていったい何になるのか。
赤黒く歪んだこの世界を、光すら失って、どうして自分はまだ守ろうとしているのだろうか。
感覚の曖昧な足がさらに重くなる、誰かに足を掴まれ硬い地面に倒れ伏した。痛みはなかった。
絶望のあとに訪れた、奇妙な安堵。もういいもうやめよう、これでいいんだ。
ようやく楽になれるのだ・・・・・
「・・・マリさん?」
柔らかな声がして、マリはうっすらと意識を取り戻す。
判然としないまま声の主の手首を掴むと、その細さにすぐ自分の大切な人だと覚った。
「・・・ミランダ」
「起きました?もう朝ですよ、今日はとってもいいお天気ですよ」
「・・・・そうか」
「そうそう朝ごはんなんですけど、さっきお隣りさんから林檎を頂いたんですよ、だからさっそく剥いてみようと思って」
ふふ、と嬉しそうな笑みをこぼしながらミランダはカーテンを開ける。
明るい朝の日差しが寝ているマリの頬に感じると、ようやく現実を認識して固くなっていた筋肉が緩み、安堵のため息がもれた。
「夢か・・」
「え?」
「いや、何でもない。分かった今起きるよ」
隣の部屋から赤ん坊のむずかる声がする。ミランダが「あら大変」と慌てて部屋を出て行こうとしたが、あっと思い出したようにマリの頬にキスを落とした。
「おはようマリさん」
「・・おはよう、ミランダ」
チョンと鼻を突かれる。指先から甘い匂い、きっと離乳食にとすっていた林檎の匂いだろう。
ミランダはパタパタとスリッパの音を立てて部屋を出て行く、それを聞きながらマリはもう一度枕に顔を埋めた。
(そうだ、終わったんだった)
もうあの戦いは終わったのだ。
一年以上も前にこちらの勝利で全てが終わり、マリもミランダも既にエクソシストではないのだ。
そうして今は結婚して、娘も生まれ裕福ではないが貧しくもない、普通の一般的な日常を送っている。
さっきむずかっていた泣き声はもうない、きっと離乳食を食べているのだろう。
ミランダが「おいしいねぇ、おいしいねぇ」と声をかけながら食べさせているのが聞こえ、それに答えるよう「あー」と娘の声がすると、マリは頬が緩んだ。
コーヒーの香りと焼いたパンの匂い、パンはまた少し焦がしたのか少々香ばしい。
妻と子の楽しげな笑い声にマリも布団の中でつられる、温かくて優しくて心地好くて。くすぐったいくらい幸せで。
あんなに苦しかった夢は、いつの間にか記憶から消えていた。思いだそうとしても、おぼろげなほど。
深い安堵感からか、またも睡魔がマリを誘う。柔らかな日の匂いが染みた布団が、それを助けるようにマリは瞼を閉じる。
うとうとしていると、隣の部屋から、
「あら、パパまだ起きてこないのかしら」
と心配そうな声が聞こえて。
もう一度起こしたものか、娘相手に聞いてるその様子がなんとも可笑しくて、マリは布団を頭まで被り笑う。
じきにまたミランダが起こしに来るのを待とうと寝たふりを決めながら、彼女が起こしにきたら少しだけ驚かしてやろうか。
そうして抱きしめて、今度は唇にキスをしよう。
そんなイタズラを考えているうちに、マリはまたもウトウトと眠気がきてしまい、残念ながらミランダが扉を開けたのも気づかなかった。
End
- 39 -
[*前] | [次#]
戻る