D.gray-man U
1
人ってホントにびっくりした時は、意外と冷静になる。
埃っぽい資料室。いつもと変わらない、なんの変哲もない日常会話。
少しくたびれた白衣、ポケットにあるメモ紙と伸び気味の顎ひげ。
それはあまりに唐突な出来事。
「リナリー」
名前を呼ばれて、見上げるように首を上げると、まるで掠め取るようにキスをされた。
「・・・・・・」
チュ、という微かな粘着音と共に唇が離され、瞬きも忘れて彼を見る。困ったような笑顔をして、それから少しだけ気まずそうに斜め上を見た。
「まあ・・その、なんだ」
頭を掻きながら、何か言葉を探している様子。
私と言えば、まさに鳩が豆鉄砲状態で目を真ん丸に見開きながら、今起こった事を脳をフル回転させながら考えていた。
(今のって・・)
偶然、同じように資料を探しに来ていた彼を見て、「リーバー班長、捜し物?」言ってくれれば持っていくわよ、と笑顔をむけた。
彼は資料を見せ、大丈夫、と笑い。「食堂の帰りに急に思い出してな、危ないとこだった」なんて。
他愛もない会話をして。
いつもと変わらない、あの雰囲気の中で。唐突に、その薄い唇が降ってきたのだ。
(え・・ええっ?)
《ドゴオォッ!》
今朝の修練場は何やら騒がしい。
「トオリャアアア!」
「わわっ!ちょっ!待つさっ!」
リナリーの飛び蹴りをスレスレで避け、壁に開いた大きな穴を見てラビが叫んだ。
「ラビ!逃げないでかかってきなさいよ」
「いや、だって逃げなきゃ死ん・・」
「問答無用!」
キエエェッ!とかオリャアア!など、乙女として如何なものかと思われる掛け声を叫びながら、本日の鍛練相手であるラビを自慢の脚力で追い詰めていく。
「おい、なんだありゃ」
その光景に驚いたのか、神田がめずらしくアレンに声をかけた。
「えーと・・僕にもちょっと分かんないです」
リナリーが『ちょっとつきあって』とラビを鍛練に誘ったのが30分前の事。
否応なしに連れていかれ、朝っぱらからあのLevel4をぶっ飛ばした蹴りを何度も喰らいそうになって、かつてない程の命の危険をラビはひしひしと感じていた。
「タ、タンマ!リナリーせめて発動だけでも解い・・!」
「トウリャアアアッ!!」
《ゴキィッ!》
「わーーーっ!!!」
ラビの代わりに柱が一本犠牲になったが、リナリーは眉一つ動かさずラビを見る。
「ちょっと!これじゃあ鍛練にならないじゃないっ」
その目はなぜか据わっていた。
「とととにかくさっ、リナリー!お、落ち着いてっ!オレなんかしたかな?」
「何言ってるのよ。いつものとおり、鍛練じゃない」
そうは言うものの、修練場は見事なまでに半壊状態で、折れた柱や崩れ落ちた壁などで、まるで戦場の廃墟である。
「・・・・・・」
「・・・・」
リナリーの鬼気迫る様子に顔が強張っていく。
アレンと神田は障らぬ神に祟りナシで、生餌(ラビ)の冥福を祈りつつ火の粉がかからないうちに、とじりじり後退りしていくのだった。
(スッキリしない!スッキリしないぃぃっ!)
胸の中に渦を巻いたような心地の良くない何かを感じて、リナリーはそれを吹き飛ばすように更に大きな声を上げる。
「セイヤアァッ!!!」
(あああっ!もうもうっ!もーーーっ!!)
《ドガァッ!》
足に感じる確かな手応え。どうやら仕留めたらしい。
「ラ、ラビーッ!!」
アレンが慌てて駆け寄り、壁に埋もれてハリツケみたいになっているラビを助け出す。リナリーはそんなラビに気付いているのか分からないが、何やら頭を掻きむしりながら。
「スッキリしなーーーいっ!!」
教団中に聞こえるような大きな声で叫んだのだった。
(・・リーバー班長にキスされた)
キスだ。キス。接吻、口づけ、マウス・トゥ・マウス。
しかもファースト・キスをである。生まれて初めての男女間での交わり、乙女の最大イベントと言っても過言ではなかろう。
(信っじらんないっ!!)
思い出すだけでショックと怒りで体が震えてくる。
男だらけの教団で育ったリナリーだが、それなりにファーストキスに夢を持っていた。
例えば、満天の星空の下で流れ星なんかあったらステキだわ、とか。夕日が綺麗な海岸で語らいながらムードにまかせて、とか。
できれば「愛してる」とか「ずっと側に・・」なんていう台詞付きで、最高のシチュエーションを考えていたというのに!
(なんの断りもなく、まるで盗むみたいにするなんてっ!)
しかもあんな埃っぽい資料室で、不意打ちみたいにしてくるなんて騙し討ちみたいだ。キスの前にも後にも愛の言葉はなく、しかもした後に、
「悪い、リナリー」
って、一言・・。
(・・悪い、って何よっ!)
乙女の唇を奪っておいて「悪い」の一言で済ます気なのか、それは出来心だったとでも言う気なのだろうか。
(ひどい!ひど過ぎる!)
考えれば考える程、怒りで体が震えてしまう。
(たしかにリーバー班長はカッコイイわよ、頭も良いし優しいし)
実はちょっといいな、なんて思って・・
(そ、そうじゃなくてっ!)
触れた瞬間の感触すら曖昧な、本当に一瞬の出来事だった。気付いた時には離されて、瞬きする間もないくらいの短いキス。
リナリーが夢見ていたキスとは程遠い、淋しいキスだった。
「チョコデニッシュにフォンダンショコラ、ガトーショコラ、ザッハトルテとチョコムースケーキ」
メニューを聞いて、ジェリーの顔が引き攣った。ちなみに朝食のメニューである。
「リ、リナリー?朝から?」
「あ、それにホットチョコレートも!」
「え?ええ?」
ジェリーの驚きつつも心配そうな顔を知りつつ、リナリーはトレーを差し出し腕を組む。
大好きなチョコレートを死ぬほど食べたい気分なのだ。普段は年頃ゆえに吹き出物が出やすく、それなりに節制しているが、今日だけは別である。
思いっきりチョコレートを食べてこの鬱々とした気分を少しでもスッキリできるなら、ニキビの一つや二つなんて安いものだ。
(食べてやるっ・・!)
チョコが山盛りのトレーを持つリナリーに、周囲に一瞬どよめきが走ったが、尋常とは違う彼女の様子に口をつぐみ、それを遠巻きに眺めるだけだった。
リナリーがテーブルにトレーを置き、席についてホットチョコレートを一口飲む。とろけるように甘くて香ばしい液体がじんわりと胸に染み込んで、その心地よさにリナリーは無意識にため息をもらした。
(・・・・・)
チョコレートは昔から大好きだった。小さい頃、悲しい事や辛い事・・もちろん嬉しい事があった時もチョコレートが必需品で。
(皆もそれを知っているから・・科学班にはいつもチョコレートがあったっけ)
フォンダンショコラを一口でほうり込む。
(そう・・いつも用意していてくれた)
『このホワイトチョコ、こないだ旨いって言ってたろ?』
『洋酒効き過ぎてるのは、ちょっと苦いか』
『だろ?ここのミルクチョコは有名なんだぞ』
(・・・リーバー班長)
妹みたいに可愛がってくれて、結構甘やかされた方だと思う。自分も、もう一人の兄のように慕っていたから、かなり懐いていた。
忙しいのに時間を見つけて勉強を教えてくれたり、ちょっとした事に悩んでいる時に、すぐに気付いてくれたのもリーバー班長だった。
(・・・・・)
頭もよくて優しいし、見た目も良いから女子の団員に人気があるのも知っている。誰かに告白されたり、とかそんな話もちらほら聞いたり、それに面白くない気持ちになったりもした。
(私、キスしたんだ)
リーバー班長と。
あの、リーバー班長と・・。
恥ずかしさと奇妙な高揚感に、手に持っているデニッシュを握りしめ思いきり噛り付いた。
(そうよっ・・キ、キ、キスしちゃったのよ、私っ)
改めて実感して、ホットチョコレートをいっきに流し込むと、焼けるような甘さに喉が痺れる。
一瞬しか触れなかったけど、微かに残ったコーヒーの香りを思い出した。
(あんなに人の顔が近づいたのは、初めて)
そっと唇に指をあてると、キスの瞬間を思い出すようにリナリーは俯いた。
(・・・・なのに)
またも怒りで手が震えてくる。
(あんなに簡単にキスしてくるなんてっ!)
ドン!とテーブルを力いっぱい叩き、チョコケーキの山が勢いよく跳びはねていく。リナリーはその様子にも気付かないようで、
「信っっじらんないぃぃっ!!!」
食堂に響き渡る声で叫んでいた。
「・・・・・・」
「・・・・・」
シーンと食堂が静まり返り、リナリーがはた、と我に返る中。食堂の入口が騒がしくなり、聞き慣れた声の一団を耳が捉えた。
「あれ?なんか随分静かだなぁ」
(!!)
ジョニーの声にリナリーはビクッ!と反応し、慌ててその場にしゃがみ込む。テーブルの下に身を隠しながら、入口をそっと窺うと案の定、科学班のメンツが朝食に来ていた。
(あ)
そして、リナリーが今1番会いたくない「彼」の姿もある。
「・・・・・」
なぜか顔が熱くなって、鼓動が速くなった。
(な・・なに、私ドキドキしてるのよっ)
顔をパンパンと叩いて、首を振る。
リーバーはいつもと全く変わらない様子で、班員達と楽しそうに会話していて、その様子を見るとあのキスが、自分の妄想ではないかと思ってしまいそうだ。
よれた白衣の袖を軽く捲くって、時計を見ている。首元に締められている黒いネクタイは相変わらず緩めで、以前一度リナリーが締めてあげたのを緩めた状態で使っているのを知っていた。
(・・あくびしてる)
どうやら昨日も残業だったみたい。
口を尖らせ、眉間に皺を寄せながらリナリーはリーバーを睨み付ける。
(ちょっと、どういう事?)
びっくりするくらい普段通りな彼に、リナリーはどうにも納得いかない。こっちはあの後科学班へ戻れず夜は目が冴えまくり、寝返りだけを繰り返しながら朝を迎えたのだ。しかも禁断のチョコレートのやけ食いにまで手を出したというのに。
(・・リーバー班長にとっては、キスなんてたいした事じゃないの?)
視線の先で、ジェリーと談笑する彼を信じられない思いで見る。
(ゆ、許せないっ・・!!)
怒りで顔が熱くなった。
(謝るんなら最初っからするなっていうのよっ、ああもう!よくも私の夢を!夢を〜っ!)
美しいファーストキスの夢を散らされた罪は重いのだ。
分かってる。自分だってそう子供じゃないつもりだ。ファーストキスに甘い夢を見ていても、現実はそう上手くいかない事も知っている。
でも・・
(でも、あんまりだわっ!こんなのっ!)
理想的とは言わない、でもあんな盗むようにしなくてもいいではないか。せめて記憶に残るくらいにしてもらわないと、あれでは曖昧過ぎてされた方もよく分からない。
(しかも・・)
した方のリーバーが、あんなケロっとしているのに、どうして自分だけこんなに動揺させられているのだ。
納得いかなくて、机の下から目だけ覗かせ渾身の眼力でリーバーを睨んでいると、
「あれ?リナリー、何やってるの?」
「!?」
頭の上からジョニーの声がして、リナリーは驚いてしゃがんだまま垂直にジャンプした。
「なになに?どうしてこんな所に隠れているの?」
隠れているんだからほっといて欲しいのに、ジョニーは空気読まず聞いてくる。
「か、隠れてなんてないわよ」
「そうなの?あ、リナリー朝もう食べた?」
「え?ええ、今ちょうど食べて・・」
「じゃあ一緒に食べようよ」
えっ!?とリナリーが声を上げる間もなく、ジョニーはクルッと入口に手を振り、
「リーバー班長!こっちこっちーっ!」
「!!!」
リーバーが気付いてこちらを振り返り、パチッとその目がこちらを捉えたのに気付くと、リナリーの全身が火がついたみたいに熱くなった。
(・・あ)
けれど目が合って彼の瞳に動揺の色を見た時、リナリーはどうしようもなく悲しい気持ちになって、すぐに逸らしてしまった。
(・・・・・・)
「リナリー?」
ジョニーが立ったまま動かないリナリーを不思議そうに見る。
「ジ・・」
「・・ジョニーのバカァッ!!」
ドン!と突き飛ばして走り出す。
「わーっ!?ジ、ジョニーッ!!」
色んな気持ちが渦巻いてどうやら無意識にイノセンスが発動していたらしい。
ジョニーが勢いよく天井目掛けて飛んでいったが、リナリーはそれに気付く事なく文字通り音速を越える速さで食堂から出て行った。
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