D.gray-man U
1
熱々のスープをひとさじ掬い、ミランダはフウフウとそれを冷ます。
そして零さないように真剣な眼差しで、目の前のマリへと差し出した。
「どうぞ、マリさん」
マリは口元へ差し出された、スープを口に含むか一瞬ためらってしまう。
この食堂という場所柄、公衆の面前で。そろそろ三十路になろうかという男が、恋人から『あーん』をされているのだ。
もっともミランダには、そういった色めいた様子は一切ない。彼女は一途にマリの役に立ちたいと、それだけを考えての真面目な行動なのだから。
マリは今回の任務で指を失ってしまった。
右手の人差し指と中指の二本。切り落としたのは自分なのだし、そうしなければ自分は生きていなかったのだ。
だからマリは、周囲の反応ほど落ち込んではいなかったし、逆に咄嗟の自分の判断を褒めてやりたいというか、上出来だと思ってもいた。
マリが任務から終えて戻ってきた時、ちょうどミランダはすれ違いに任務に出た後で。
彼女が本部に帰ってきた時、マリは医療班から退院していたし、器具で腕をサポートしながらだが修練も始めていたから、それほどミランダがショックを受ける事もないと思ったが。
どうやら彼女はかなりショックだったらしい。
あったはずの指が失くなった喪失感はマリ以上のようで、その場でわんわんと泣き出し、うずくまる彼女をマリは困りつつも少し嬉しかった。
自分の為に泣いてくれる事に、ミランダがそれほど想ってくれていたのかと。
けれどそんな風に泣かせてしまうなら、やはりあの指は惜しかったな、といまさら思ってもいた。
それが、昨日の事。
今日、朝一番にミランダが自分の部屋を訪れて来た時、マリは目を丸くした。
ミランダはおそらく殆ど寝ていないのだろう、赤い目をしながら。
頭には三角巾、エプロンを身につけて、まるで医療班のスタッフのような出で立ちである。
もっともマリにはそういった出で立ちは見えないのだが、彼女の何か思い詰めたような真剣さは伝わった。
「マリさんの、お・・お手伝いをさせて下さいっ・・」
胸の前でグッと両手でこぶしを作り、そう言った。
お手伝い?
それが何なのか、マリはよく理解できなかったのだが、ミランダが自分の為に何か一生懸命になろうとしてくれている。
それだけでも嬉しいが、昨日この指のせいで随分と落ち込ませてしまったから、ミランダが何にせよ、元気になってくれるのがマリは嬉しかった。
「あの、マリさん、熱くないですか?」
スープをもう一度フウフウしながら、心配そうにマリを見る。
「・・だ、大丈夫だ」
差し出されたスプーンを口に含みながら、マリはやや赤い顔で頷く。
ミランダはホッとしたように、同じく冷ましたスープを差し出した。
「はい、どうぞ」
「・・・・・」
食堂は朝食時ともあってかなり混み合っていたが、いつもガヤガヤと騒がしい喧騒は今日はない。
代わりに、ヒソヒソとざわめくような囁き声があちらこちらから聞こえていた。
それらの殆どはマリとミランダを注目する団員達のもので、彼らからの痛いくらいの視線を感じながら、マリはその『あーん』を受け入れた。
(・・・・・)
ミランダの吐息によって冷まされたスープを飲み、マリは複雑な気持ちになる。
ミランダのこういった行為はけして嫌ではない。どちらかと言えば嬉しいのだが、実のところやはり照れ臭い。
それに先程から、ミランダが自分の『世話』のせいで何度も失敗する姿は、ハラハラと正直心臓に悪かった。
マリさんはお怪我をしているんですから、と食事のトレーを持たせてもらえず。代わりに持ったミランダが躓いた拍子に、熱々のスープを顔にかけたり。その時落としたスプーンの代わりを貰いに行くときに、盛大にすっ転んだり。
マリは片手は丸まる空いているし、怪我といっても指なのだからと言うが、ミランダは、いえいえ無理はダメですと、頑ななまでに自分でやろうとする。
それにマリの食事を食べさせるからと、自分のは後回しで。彼女のトレーの料理が冷えていくのが、マリは申し訳なく思っていた。
「ミランダ、わたしの事はいいから・・食べてくれ、冷めるぞ」
「いえいえ。それよりマリさん、スープの次はパンを食べますか?」
ミランダはやる気満々と言った様子で、バターロールに手を伸ばす。
「あ、いやそうじゃなく・・」
「ご、ごめんなさい、オムレツの方がよかったですか?」
フォークを持って、オムレツの皿を持とうとする。マリはこれほどやる気をみせるミランダに、水を挿すのも悪い気がしてきて。
「・・・では、パンをもらおうか」
パンなら片手で食べれるから、なるべくゆっくり食べて、その間にミランダにも食事をして貰おう。
「は、はいっ」
ミランダは大きく頷くと、いそいそとバターロールを一口大にちぎり始めたので、マリは慌てる。
「ち、ちょっと待て・・ミランダ、いくらなんでもパンくらいは片手で食べれるぞ」
「え?・・」
キョトンとした顔でマリを見て。
「あ、そ・・そうですよね」
みるみる顔が赤く染まっていき、ぽろぽろと小さくなったバターロールを見下ろした。
ミランダはその残骸のようなパンをかき集め、自分のトレーにのっているバターロールと取り替える。そのまま皿にのせたまま、マリの左手近くにそっと置いた。
(・・ううむ)
どうやらミランダは自分の行動に自己嫌悪し始めたのか、落ち込んだように頭を垂れている。マリも少しデリカシーに欠ける言い方だったかと、申し訳なく思い。
「いや、やはり食べづらいから・・小さくした方を貰えるだろうか」
そう言うと、ミランダの心音が喜ぶように跳ねたのが聞こえた。
「は、はい」
ホッとしたような柔らかな声で、ミランダはパンを一口取ってマリの口元へと運ぶ。
(!?)
バターの優しい香りが鼻先にして、マリは動揺して顔が赤くなった。ミランダがパンも、同様に食べさせてくれるとは思っていなかったから。
「・・・・・」
「マリさん?」
「・・あ、いや」
気恥ずかしさもあったものの、マリはそっと口を開く。パンの柔らかな感触につづいて、唇に触れられたミランダの指先に、鼓動が速まった。
「・・・・・」
「・・・・」
ミランダも自分の指がマリの唇に触れた事に気付いたのか、同じく早まる心音をマリは聞く。
「お、おいしいですか?」
何かをごまかすように、ミランダの口調はいつもより速い。
「あ、ああ・・」
マリも気付かぬフリをしてしまう。
ミランダは頬を染めながら、そっとマリを見て。しっかりしなければ、とでも言うように自分の頬をペチと叩いた。
「マ、マ、マリさん・・あの、次はその・・何を?」
食べますか、と小声で聞きながらミランダはパンの皿を指先で落ち着きなく触る。
「ん?・・あ、そ、そうだな」
マリはさっき感じた指の柔らかさを思い出し。ついまたパンを選択してしまいそうで、ゴホンと咳ばらいをした。
(にしても・・)
ふと、なぜミランダは恋人とはいえここまで献身的に世話してくれるのか、と思う。
確かに彼女の性格からすれば、なるべく自分の助けになりたいと願うのは頷けるのだが・・。
(そういえば、昨日の様子も少しおかしかったな)
マリの指が失くなったと知った瞬間。泣き崩れて暫く床にうずくまるミランダに、正直驚いた。
まるで自分の指が失くなったかと思うほどの嘆きようで、よく考えれば、あまりミランダらしくない行動のような気がする。
(・・・・)
ミランダは甲斐がいしく、今度はオムレツを一口サイズに切り始めている。
彼女らしく、オムレツの切り口はかなり残念な形にはなっているのだが、ある意味ご愛嬌と言うところだろう。
フォークでかなり小さくなったオムレツを突き刺し、ミランダはそれをゆっくりとマリに向けた。
「ど、どうぞマリさん」
さっき触れてしまったマリの唇を思い出してしまうのか、ミランダの声は上擦っている。
そんな様子を可愛らしいと感じつつ、マリは腑に落ちない気持ちを片隅に除けて、照れ臭さを隠し、ミランダの手からオムレツを食べた。
食事を終えた二人は、マリの傷口の消毒の為医療班へと向かう。
まだ日に一度は必ず行かなければならない。
とりあえず傷を完治させないと義指も付けれないので、マリは億劫に思う事もなく毎日通っていた。
「ミランダ、なにも・・ついて来なくてもいいんだぞ?」
医療班までついて来ようとするミランダに、申し訳なさそうに言う。ミランダは首をぶんぶんと振りながら、眉を八文字にさせて。
「い、いいえ・・あの、マリさんがお邪魔じゃなければ・・だ、だめでしょうか」
心配そうに聞かれた。
「いや、駄目ではないが・・ミランダの時間を拘束するようで、申し訳ない」
「私なら、全然、全く、平気ですから・・マリさんのお手伝いをさせて下さい」
お願いします、と。そう真剣に頼まれてしまうと、マリもやはり悪い気はしない。というか、嬉しい。
申し訳なさはあるものの、恋人がマリを心配して傍を離れがたいなど、男冥利に尽きると言うものだ。それに暫くお互い任務のすれ違いが続いていたから、何にせよ一緒にいられるのは嬉しかった。
ひらひらと白いエプロンをひらめかせながら、マリの横を歩くミランダは、どうやらかなり目立つようで。すれ違う人々が驚いたように二人を見る、そんな視線をマリは感じていたが、あまり気にならなかった。
というか、それどころではなかった。
「あっ!きゃああっ!」
「危ない、ミランダ!」
今日何度目かの転倒に、マリは咄嗟に左手でミランダの体を押さえる。
「すすすすみませんっ・・・」
ミランダが真っ赤な顔で体勢を立て直し、慌ててマリから離れた。
「いや、大丈夫か?」
「ごめんなさい、あの、マリさんこそ大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
軽く頷いて、申し訳なく体を縮こませているミランダに向けて微笑む。
普段から躓いたり引っ掛けたり転んだりと忙しいミランダだが、今日はそれに輪をかけて危なっかしい。
意識がマリに集中しているせいで、ミランダは自分の足元や視界に気を配る余裕がないのだ。さっきから、転倒しそうになるミランダをマリが支えているのだが、その度に彼女はずんずんと落ち込んでしまい、マリこそ申し訳ないような気持ちになる。
医療班までは階段を上って行くから、気をつけなければとマリが心の中で考えながら歩いていると。
さっき食堂で顔のほてりを抑えようと、水を三杯飲んだのが影響してか、生理現象・・つまりトイレに行きたくなってしまった。
(し・・しまった)
我慢できる程度だが、できれば医療班へ行く前に済ませておきたい。
「・・・・・・」
ちょうど右側の階段近くに男子トイレを確認して、マリは少し躊躇いつつも足を止めた。
「その、ミランダ・・」
大の男がトイレぐらいを恥ずかしがるものではない、マリはそう思いつつも何となく決まり悪い。
ミランダはマリが何を言うのかと、食い入るように見つめていて。それもまた言いづらくなる。
マリは、ゴホンと咳ばらいをして。
「・・ミランダ、ちょっとここで待っていてもらえるか?」
「えっ?マ、マリさんどこかに行くんですか・・?」
不安そうに、マリを見る。
「いや、そういう訳では」
「あのっ、私あんまりお役には立てませんけど、でも出来る事ならなんでもっ・・」
置いていかれるとでも思ったのか、ミランダは泣きそうな声でマリの左腕を掴んだ。
「いやいや、そうじゃなくて・・だな」
しまった、かえって言いづらくなってしまった。
「あの・・?」
怖ず怖ずと、マリを窺う。
「さっき、水を飲み過ぎたから・・その、手洗いに行こうかと」
さらりと言ってしまえばよかったのに、遠回しに言ったせいでさらに恥ずかしくなってしまった。いい年して、何をやっているのかと自分が情けなくなる。
ミランダは最初キョトンとした様子だったが、マリの言っている意味を理解したのか、ジワジワと顔が赤くなって。
「あっ、ごっごめんなさいっ・・わわ私ったら、その」
掴んでいた左腕をパッと放し、恥ずかしさからかフラフラと後退りしていく。
互いにそんな事を恥ずかしがる年齢でもないのだが、どうにも経験不足から二人とも意識し過ぎてしまう。色んな意味で。
「私・・こ、この辺で待ってますね」
ミランダはそのまま後退りながら、トイレ近くの階段付近で足を止めた。
・・・・・つもりだった。
「ミランダ、危ない!」
「!?」
ぐらり、とミランダの視界が反転していく。
どうやら後退り過ぎたらしい。踵を踏み外すように、ミランダは下りの階段を背中から落ちていっく。
マリは咄嗟に右手でミランダの手首を掴もうと手を伸ばす。
(!?・・しまった!)
ないのだ。
掴もうと伸ばしたその手に、肝心の人差し指と中指が。その手首に掠りもせず、ミランダが階段を落ちていくのを、マリは聞いた。
「きゃあああっ!」
「ミランダ!」
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