D.gray-man U
2
教団へ戻り、ミランダが自室のベッドに倒れるように転がったのは、もう午後のお茶の時間に近い頃。
あの後ハンスに一つ二つ質問されたが、ミランダはオルゴールの修理上がりの日にちを聞くと、逃げるように店から出た。
それから、どこをどう歩いたのか定かではないが、2時間くらい歩き本部に辿り着けたのは奇跡に近いと思う。
(ハンス・・・ハンス=マイヤー)
ミランダは枕に顔を埋め、端をぎゅうと握りしめる。
10年以上前の彼は、もっと赤毛の目立つ綺麗な澄んだ青い瞳の快活な少年だった。
(そういえば・・時計店の子供だったわ)
ああ、だからきっとあの店に修業か何かでいるのね。
ミランダは枕から少しだけ顔を上げて、机の上の空けられたスペースをぼんやりと見ながら、そっとため息をついた。
(もう・・忘れていたのに)
国境の街からやってきた、時計職人の息子だった。
新たにミランダがいた街に店を構えて。近所という事もあり、ミランダはこの一つ上の少年とすぐに知り合う事になった。
ハンスは人懐っこい笑顔で、ミランダの愚図な所や物覚えの悪さも軽く笑い飛ばしてくれる明るい少年だった。
大人だけでなく、同じ年頃の少年達からも馬鹿にされていたミランダにとって、彼のように明るく接された事は、初めてだったかもしれない。
親しみをひそかに感じていたが、それが淡い恋心のような気持ちになったのは、知り合ってからそれほど経っていない頃。
こっそり目で追うだけで、満足してしまうような本当に幼い恋だった。
そんなある日。
街の有力者の子供の誕生会があり、ミランダは呼ばれもしなかったのだが、ハンスから突然呼び出され、一緒に行こうと誘われたのだ。
呼ばれてもいないのに、とんでもないと断ったのだが、どうしてか彼はその日に限ってとても熱心で。
ときめく気持ちも手伝って、ミランダはつい承諾してしまった。
当日、止せばいいのに似合いもしないピンクのリボンをつけて。プレゼントを持ってハンスの家へ行くと、彼はもう出た後らしく既に訪問先へいるらしかった。
ミランダは、自分が時間を間違えたのかと思い、急いで追いかけて誕生会のある家へ向かう。
けれど、待ち構えていたのだろう。
ミランダはいつもの虐めっ子達によって、馬小屋に閉じ込められてしまったのだ。
泣きながら開けて、と訴えるミランダに外から聞こえた声は。
『・・いつもジロジロ見て、気持ち悪いんだよ』
それはハンスの声だった。
後で、罰ゲームでミランダを誕生会に誘う事が決まっていたのを知った。
それを知ってミランダは泣いたが、悲しかったからでも裏切られたからでもない。
間違えたから。
自分が周囲からどう思われているか、分かっていたはずなのに。
愚図で頭の弱いミランダ、誰からも馬鹿にされる自分。彼は皆のいない所では優しかったけれど、普段はミランダを見もしなかった。
のぼせ上がって、何を勘違いして。こんなピンクのリボンまでつけたりして、恥ずかしい。
気をつけていたはずだった。
彼だけが特別ではないのだ、分かっていたのに。あるはずのない期待をしてしまって、距離を間違えた。
あの少年を恨んではいない。だって彼は悪くないもの・・。
身の程知らずな事を考えた、そんな自分がミランダは恥ずかしくて、悔しかった。
コンコン、とノックの音でミランダは意識を戻す。
「ミランダ、いるの?」
軽やかな声はリナリーで、ミランダはハッとして顔を上げた。
いつの間にか眠っていたらしく、窓から射す陽は随分と赤い。時計を見るともう夕食に近い時間帯で、そういえば今日は朝から何も食べていなかった事に今更気付く。
(もしかして、夕食に誘いに来てくれたの?)
「あ、ちょっと・・待ってくれる?」
扉の向こうに声をかけてミランダはベッドから起き上がり、軽く髪を整えながら扉を開けた。
「ごめんなさいね、待たせちゃって・・」
「ううん、いいのよ」
ニコッと笑いながら首を横に振るリナリーは団服を着ていた。
「あら、リナリーちゃんこれから任務なの?」
「そうなの。行く前にミランダに『行ってきます』を言いたくて」
そんな事を言ってくれるなんて、とミランダは嬉しさに微笑む。
「気をつけてね、リナリーちゃん。怪我しないでね」
「うん、気をつけるわ。ミランダもちゃんと眠るのよ」
うふ、とイタズラっぽく笑いながらミランダの肩をトン、と叩くと。
「じゃあ、行ってきます」
バイバイと軽く手を振りながら、階段へ向けて歩き出す。
「気をつけてね、本当に」
リナリーの背中へそう告げると、リナリーは何かを思い出したようにピタ、と足を止めて。
「そういえば、マリが帰ってきたわよ」
「え?」
「さっき科学班で会ったの。兄さんに報告に行くって言ってたわ」
リナリーはそう言うと、ミランダからの言葉を待たずに。
「あ、いけない!時間がっ」
時計を見ながら、足を早めて駆けて行った。
リナリーの背中を見送り、階段を駆け降りる音を聞きながら。ミランダの顔は耳まで赤くなっていく。
(リ、リナリーちゃんたら)
内緒にしていた訳じゃないけれど。いつの間に知られていたのだろう。
互いに想いは告げたものの、二人はまだおやすみのキスすらない清い関係で。たまに時間が合う時にお茶を飲んだりするくらいだから、仲間達は気付いてはいないと思っていたのだが。
(本当はみんな、気付いているのかしら?)
ミランダは扉を閉めて、そのままもたれるように背中をつける。
赤い顔を両手で挟んで一つ深呼吸すると、恥ずかしい気持ちから嬉しい気持ちが沸き上がった。
(・・マリさん)
帰ってきた事が、何より嬉しい。
怪我はしていないのだろうか、リナリーの口ぶりだと無事な雰囲気に感じられたけれど。
(お帰りなさい、って言いたい・・)
その目で無事を確認して、ただいまの声を聞きたい。
「・・・・・」
今にも飛んで行きそうな気持ちを、ミランダは必死で堪えた。
帰ってきたばかりの彼に、オルゴールの事を打ち明けるのはやはり忍びないし、かと言って黙ったままいつもと同じように接するほど、ミランダは器用ではないから。
(でも・・告白するなら早い方がいいかしら)
机の上の空いたスペースに目を向けて、ミランダは罪悪感に胸が痛む。
ちらりとだけ、このまま何も告げない事も考えたが、すぐにそんな考えをした自分を恥じて、首を振った。
(でも・・)
ミランダはため息をもらす。
(帰ってきたなら・・会いたい)
こっそり見るだけでもできないだろうか。
会ってしまえば、きっと言わずにいられないから。遠くからこっそり無事を確認するだけ。
よく考えれば、マリの耳ならば近くにミランダが来ただけで間違いなく気付くのだが。
(そうよ、見るだけなら・・だめかしら)
ドキドキと心臓が速くなって、まるで悪いことを考えているような気分。扉にもたれていた背を起こし、ミランダはドアノブに手をやり自分を納得させるように大きく頷いた。
(きっと、今頃は食堂にいるはずっ)
ゆっくりノブを回し、カチャという音が発するその直前。
『コン、コン』
「!!」
頭上から軽いノックの音が聞こえて、ミランダの体は驚きから10センチは飛び上がる。
激しく鳴りだす心臓を手で押さえ、ミランダは動揺に震えた声で。
「は、はい・・」
ゆっくり扉を開けた。
目の前に現れたのは、黒灰色の団服と、広く逞しい胸板。そして穏やかな表情で、自分を見下ろすその人の姿を見た時。
ミランダの瞳は突然涙で曇って、何も見えなくなってしまった。
「・・マリ、さん」
恋人の無事な姿を見ただけで、ミランダは涙が溢れてしまう。
「ただいま、ミランダ」
低くて穏やかな声が、ミランダの耳を優しく撫でるように響いて。
「お、お帰りなさい・・マリさん」
大きな掌がミランダの頭をそっと撫でるのを感じると、ミランダは自分が子供になったような、甘えた気持ちになった。
「ミランダ・・」
そんな気持ちを知ってか、マリはその大きな手でミランダの頭を自身の胸へ宛てる。
そっと頬に触れたマリの胸板から彼の心音が聞こえると、ミランダと同じリズムで速まる音が聞こえた。
団服からは微かに西洋杉のような精悍な香りがして、本当にマリが無事に帰ってきた事を実感する。
「お帰りなさい、マリさん」
そう呟いて、ミランダは涙を拭った。
コーヒーを飲みながら、マリはリナリーの言葉を思い出す。
『ミランダが元気ないのよ』
一緒に食事をした後、二人は談話室に移動した。
熱いコーヒーを飲みながら今回の任務の話などしていたのだが、マリはミランダの様子にいつもと違う、何か不自然なものを感じていた。
(確かに・・元気はないな)
本人はそれを隠すように努めて明るい声を出しているが、時折漏れるため息が心配事を物語っている。
マリは目は見えないが、ミランダの呼吸や視線で、彼女が何か自分に後ろめたい気持ちを抱えているのを感じた。
先程から何度もマリをちらちらと窺うように見ては、俯いてカップに隠れるようにコーヒーを一口飲む。
(いったい、どうしたんだ?)
任務を終えて帰って来るなり、自分を見つけてリナリーが開口一番に告げた言葉が気になって、マリは報告を終えて、すぐにミランダに会いに来たのだ。
自分を見るなり安心したように泣き出したミランダが愛おしくて。
抱きしめるまでいかないが彼女の顔を胸に寄せた時、胸が熱くなり帰還の喜びに心が震えた。
リナリーの言葉は、ミランダが自分を心配していた事だったのかと納得したのだが、マリは時間が経つにつれ、どうもそれは違うような気がしていた。
コーヒーを一口飲んで。
「ミランダ、少し聞いてもいいだろうか」
「は、はいっ・・」
ぴく、とミランダの肩が震える。
「その、何か心配事でもあるのか?」
何気ない風に聞いたつもりだったが、思った以上にミランダを動揺させてしまったようで、彼女の心音はかつてない程の跳び上がりをみせた。
「ミ、ミランダ?」
「え・・あ、あの・・ええと・・」
カチャカチャと、手に持ったカップをソーサーに置く音がして。
ミランダは深刻そうに唇を震わせながら、眉を八の字にしてマリを見ると。
「わ、私・・マリさんに謝らなければならないんですっ・・」
「謝る?いったいどうかしたのか?」
マリもカップをソーサーへ置いて、ミランダの方をしっかり向き聞く体勢をとった。ミランダは涙を堪えるように下唇を噛み締め、二、三度鼻を啜ると。
「オ、オル・・オルゴール、オルゴールを・・こ、こわ・・」
我慢の限界を迎えたようで、ミランダの両目からぶわりと滝のように涙が流れる。
「こ、壊して・・うっ、私が・・マリさんの大切な・・ぐすっ、うっ・・ごっごべんなざ・・いぃっ」
勢いよく頭を下げて、ガツンと盛大に額をテーブルにぶつけた。
「ミ、ミランダ大丈夫か?」
あまりの大きな音に、額が割れたのではないかと心配になりマリはミランダの肩を掴む。
ミランダは額をテーブルにつけたまま、マリの手を拒むように首を振って、
「あ、あんなにマリさんが・・大切にしていたのに・・わ、わた、私のせいで・・壊れて・・うっううっ」
ごめんなさいごめんなさいと泣く彼女に、正直何を言っているのかよく飲み込めなかったが、どうやらマリがプレゼントしたオルゴールの事を言っているらしい。
(オルゴール・・?)
まてよ、とマリは口元に拳を宛てて考えるように俯く。
「もしかして・・音が鳴らなくなった、とか?」
「・・は、はぃぃ」
ミランダは机から頭をゆっくり離し、涙でぐちゃぐちゃになった顔でマリを見た。
ポケットからハンカチを出して、涙を拭きながらマリはミランダの額に触れる。
腫れて瘤のようになっているが切れていない事に安堵しつつ、マリは申し訳なさそうに額を撫でた。
「違うんだ、ミランダ・・あのオルゴールは近いうちに、ローラーの交換をしてやらなければと・・思ってたんだ」
そう。
本当はローラーを交換してから、ミランダに贈るつもりだったのだ。
それが短期間に任務が続いて、なかなか交換する暇もなく。逸る気持ちに負けてつい先に贈ってしまい、今回の任務が終えたら交換しようと思っていたのだ。
- 63 -
[*前] | [次#]
戻る