D.gray-man T
1
目を閉じても思い浮かぶのは、彼の姿。
いつもでは考えられないくらい、顔を赤く染めながら、照れくさいのか困ったような顔で私を見下ろしていた。
(・・・マリさん)
時刻は午前4時半。
ベッドの中で、もう何度目かわからない寝返りを打ちながら、ミランダはまだ暗い天井をベッドから見上げていた。
いつまで経っても訪れない睡魔の事は、ミランダの頭にはない。眠りたくて横になっているわけではなく、ただ色々な事を思い出すと、頭に血液が集中して立っていられないのだ。
それに今夜は、頭の芯がじんじんと熱を発しているから、眠れる事はないだろう。いや、ミランダ自身が眠るのを恐れているのかもしれない。
(夢じゃ・・ないわよね?)
もう、何度も何度も、一晩中繰り返したそのフレーズ。
ミランダはうつぶせになりながら枕をギュと握り、それに額をこすりつける。
ミランダはこの夜、幸せだった。
厳密に言うなら、8時間前から今だかつて味わった事のない、幸せの絶頂にいる。
(本当に、本当よね)
思い出すだけで、頬がじわじわと緩んできて、胸がキュウンと高鳴る。
今から8時間前。ミランダは、ずっと恋していたマリに愛を告げられたのだ。
(本当に・・夢じゃないのよね?)
ずっとずっと、好きだった彼に想いが通じるなんて、本当に夢みたい。
あの優しくて、みんなから慕われ信頼されている、あんな立派な人が・・・自分みたいな女を愛してくれたなんて、本当に信じられないから。
ミランダは、そっと目を閉じて。何度も思い返した彼の告白を、再び胸の内で噛み締める。
『わたしは・・・』
『あなたに、恋をしている・・よう、だ』
緊張していたのだろうか?
あの彼が。
場所は、時間帯のせいか人気のなくなった修練場。
ミランダはいつものように発動時間を延ばす訓練をしていたが、なかなか上手くいかなくて、夕食も忘れて必死で集中しようとしていた。
『ミランダ』
そこに聞こえた優しい声。
あんまり優しい声だったから、彼がいつのまにかそこにいた事に驚くのも忘れて、
ミランダは思わず頬を緩ませながら見上げた。
『そ、そろそろ休んだらどうだ?』
『・・マリさん?』
マリは、どうしたのかいつもより落ち着きなく。目線をミランダから外して、
『ほら、食堂のメニューもなくなるし、な』
『あっ、こんな時間っ』
時計を見ると、8時を軽くまわっていた。ミランダは慌てるように立ち上がると、疲れからかフラリとよろめいて。
『危ない』
ごく自然な動きで、マリはそれを支えた。
『あっ・・ご、ごめんなさいっ』
『い、いや・・大丈夫か?』
『は、はい』
マリの手が離されて、そっと見上げると、どうしたのか彼の顔は赤く染まっている。ミランダは不思議そうにそれを見ながら、
『マリさんは、どうしてここに?』
『ん?・・あ、いや、その・・用があって、な』
『・・?』
彼らしくない動揺した様子にミランダは首を傾げたが、それでもこんな風に会話できるのが嬉しくて、ミランダの頬も自然と染まっていく。
修練場には、気付けば誰もいなかった。皆、食事に行ったり風呂に入ったりと夜のひと時を過ごしているのだろう。
『ミランダ・・その・・』
静かな修練場に、マリの声が響いた。
マリの表情は、困ったような照れたような複雑な顔で、ミランダを見下ろすようにしていた。
見えないはずの瞳は正確にミランダの瞳をじっと捉えていて、本当は見えているのではないのかと、胸の中でちらりと思ったりした。
『わたしは、その・・こういう事を・・どう言ったらいいのか・・』
『?』
『つまり、だな・・』
いったいどうしたのか、何か困った事でもあったのだろうか。
マリは咳ばらいを一つして、それから赤くなった頬を隠すように少し乱暴に拳で額をこすると、深呼吸するみたいに、息を深く吸い込んで、それからゆっくりと吐いた。
『わたしは・・・あなたに、恋をしている・・よう、だ』
低く、優しい声がミランダの耳にその言葉を届ける。
(・・・・・え・・・)
いま何て言ったの?
頭にマリの言葉が正確に伝達されるまで、しばらくの時を要した。
『・・ミランダ?』
『・・・・・あの』
ミランダは恐る恐る、という風にマリを見て。
『ま、間違っていたらごめんなさい・・もしかして、あの・・恋愛、とかそう言った・・』
『そ、そういう事になるかな・・いや、そうだな』
少し上擦った声で、頷いたのを見て。
ミランダはドクドクと一気に血液が脳に集まってくるのを感じた。
(マリさんが・・私に、恋・・恋・・こ、恋・・?)
目の前がチカチカして、鼻の奥がジンジンとしてくる。
みるみる内に上昇する体温に、ミランダはショート寸前だ。
『ミランダ大丈夫か?心音が・・』
『・・・ほ、本当に?』
『ん?』
『わ私を・・す、好きってこと、ですよね?』
声が震えてしまう。
マリは赤らんだ顔で、少し苦しそうに俯きながら
『驚かせて、申し訳ない。迷惑なら・・そう言ってくれても構わないから・・』
そう、唇だけ動かし僅かに笑って見せた時、ミランダの頭の中で何かが弾けたような音がした。
(・・・・・・・・)
あの後。ミランダは何かをマリに言ったのだが、あまりの精神的興奮から殆ど覚えていない。
自分の気持ちをしどろもどろに伝えたような気はする。
具体的な言葉はぼんやりとしてはっきりしないが、マリがそれを聞いて嬉しそうに笑ってくれたので失礼な言葉ではないのだろう。
ミランダは風呂上がりのように、のぼせ上がった頭で、さっきより明るくなった天井をぼんやりと見つめていた。
(フワフワする)
まだまだ冷めない頬を押さえる。
時刻はもう5時になって、ほんのり空が白んできたのだろう。ミランダの部屋が、柔らかな灰色の世界に包まれているようだ。
ミランダは、ベッドからゆっくりと身を起こして時計に目をやると、なんだか急に落ち着かない気持ちになるのを感じた。
(・・もう、起きてるかしら)
マリが以前、5時半には修練場にいると言っていたのを思い出したのだ。
午前5時半。
神田がいつものように修練場の扉を開けると、何かを感じたのか僅かに眉間に皺を寄せた。
(マリか?)
暖房がついている。この時期は朝が冷えるから、朝一番に修練場に来た者が電源を入れる事になっていた。
たいていは神田かマリだが、二人は殆ど同時刻に来る為、神田がいつもこのドアを開けると、冷たい空気が肌を刺す。それがある意味この季節の朝の習慣だった。
(・・いつから来てんだ)
室温は適温と言ったところか、暑くも寒くもないから、1時間以上は前に来ているだろう。フロアを見回すが、兄弟子は見当たらない。
「・・・・・・」
訝るように片眉を上げるが、それ以上気に止める風ではなく。
朝により硬くなった筋肉を解そうと、軽いストレッチを始めた時、フロア奥のドアが静かに開いて、兄弟子が出てきた。
その部屋は坐禅をしたり、何かに集中する為に使用される事が多い。
「早いな」
マリが少し驚いたように言うので、神田は不快そうに舌打ちする。
「別にいつもと変わんねぇだろ」
「そうか?」
「寝ぼけてんのか、おまえ」
「・・・いや」
言い淀むように答えると、マリはいつもの鍛練に使う用具に目もくれず、修練場の扉へと足を向けた。
「?・・帰んのか」
怪訝そうな神田の声を背に、マリは顔だけ振り返ると。
「ああ。一旦部屋へ戻る」
「・・・ふん」
神田の視線が自分から離れたのを感じながら、マリは扉へ向けて歩きだした。
廊下に出て、刺すような空気の冷たさで朝を実感する。ガタガタと何かを運ぶような音や、食堂から聞こえる調理場の声が、なんとなしに耳に入って。マリは苦笑した。
(もう朝か・・)
体の芯がまだ熱い。
脳が休む事を許してくれないのだろうか、神経の高ぶりが治まらなくて。昨夜は坐禅をして精神統一をはかっていたのだが、結局は無意味に終わってしまった。
(どうも・・浮つきすぎだな)
苦笑したまま、頭を掻く。
マリは階段を一歩、また一歩と上りながら、昨夜の事を思い出していった。
出会ってからずっと、気ががりで。どうしてか、放っておけない人だった。
いや、元来の構い症が出たのかもしれない。
何せミランダは、マリが今まで会ってきた誰よりも手の掛かる人物だったから。
自信なさげで臆病で、頼りなくて。その癖まるで子供のように純真で泣き虫で。
躓くし、転ぶし、そして迷子になる。
気になって何かと手助けしてやりたくて。けれど、そうしているうちに彼女が誰よりも努力家で芯の強い人だと知った。
気付けば、知らぬ間に嵌まった沼のように。どうしようもない程、ミランダに恋をしている自分がいて。
(・・ミランダ・・)
意識してしまえばしまう程、不可解な行動を取り始める自分が情けなかった。
他の男と会話しているとなんだか沈んだ気持ちになったり。ミランダが噂や雑談などに、ちらとでも名前が出たりするだけで耳が反応したり。
ミランダの事で一喜一憂してしまう自分がなんとも脆く情けなく、自己嫌悪に陥ってしまう。
そうして、この強い気持ちは日に日に抑え切る事が困難になって、まるでせき止められた川の水が溢れるように、想いは止まらなくなった。
あの時、彼女しかいない修練場へ。誰かに背中を押されるように、マリは足を踏み入れていた。
イノセンスの発動状態のミランダに話しかけるのは、やはりどうも気が引ける。発動を解くのを待とうと、マリは少し離れた場所で彼女を見守っていたが、調子がよくないのかミランダはすぐに発動を解いた。
ふと、彼女の唇から微かなため息がもれるのを聞いて、マリは咄嗟に名前を呼ぶ。
『ミランダ』
突然呼んで驚かれないかと心配だったが、彼女の心音は軽く跳ねただけで、あとは穏やかだ。
『そ、そろそろ・・休んだらどうだ?』
逆に自分の心音が、激しさを増していくのを感じて。
『マリさん?』
『ほら、食堂のメニューもなくなるし、な』
(何を言っているんだ、わたしは・・)
『あっ・・こんな時間っ』
ミランダが急に立ち上がる。
『!・・危ない』
そんな体で、急に立つものではない。マリは考えるより体が動いていた。
立ち眩みなのか、ふらりとよろける彼女を咄嗟に支えたが、その瞬間ミランダの香りが自分の鼻先をかすめて、マリは支える力をつい弱めてしまう。
『あっ・・ご、ごめんなさいっ』
『い、いや・・大丈夫か?』
『は、はい』
触れた指が落ち着かなくて、逃げ出すようにミランダから手を放すと、不思議そうに彼女が自分を見上げているのを感じて、マリは自分が赤い顔をしているのに気がついた。
(まいったな)
『マリさんは、どうしてここに?』
ドキリ、とする。
どうにも騒がしい心臓を鎮めるように、呼吸を一つすると。
『あ、いや、その・・用があって、な』
『?』
ミランダは首を傾げるようにマリを見ている。
(・・・・なんと言えば)
ドクンドクンと心臓が騒がしく、緊張からか指先が冷たい。告げるのを辞めようかと迷う己を、叱るように拳の甲で額を強く擦る。
(よし)
ミランダの不思議そうな視線を感じながら、
『その・・こういう事を・・どう言ったらいいのか・・』
声が上擦る。
『・・?』
『つまり、だな』
ギュウ、と心臓が締め付けられて痛いくらいだ。
今ならまだ引き返せる、そんな情けない事を思いながらも、マリはミランダの視線を正面から受け止める。気持ちを落ち着かせるように、深く息を吸ってゆっくりと吐き出して・・
『わたしは・・・あなたに、恋をしている・・よう、だ』
緊張からか、自分の声ではないようだ。
『・・・・・・』
『・・・・・・』
(?)
おかしい。
聞こえなかったのだろうか。ミランダに変化がみられない。
『・・ミランダ?』
『・・・・・あの』
ふと、ミランダの心音がゆっくりと速まっていく。
『ま、間違っていたらごめんなさい・・もしかして、あの・・恋愛、とかそう言った・・』
『そ、そういう事になるかな・・いや、そうだな』
ミランダの心音が激しく鳴りはじめて、マリの声が上擦った。
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