D.gray-man T
1
神田ユウ、と言った。
最初に発した言葉を、今でも覚えている
「・・触んじゃねぇ」
透明で、尖った声。
例えるならば、手負いの獣。
迂闊に手を出せば、こちらが殺られるような。
10才の少年が発する声には思えなかった。
世界は己と己以外しかなく、一切を拒絶しながら。まるで全てを憎んでいるかのようなその少年が、初めてマリの名を呼んだのは、
出会いから三年も経ってからだった。
最近、朝の稽古の終わりを告げるのは柔らかな声。
「おはようございます」
彼女、ミランダが修練場の扉から笑顔を覗かせると、それが合図のようにマリと神田は稽古を止める。
「おはよう、ミランダ」
マリが笑顔を返し、組み手用のグローブを外してタオルを取ると、神田へ投げる。それを受け取った神田は汗ばんだ肌を拭きながら、ちらとミランダを見て
「おい、おまえまた寝てねぇだろ」
「えっ・・!ど、どうしてっ・・」
オロオロと顔を赤くするミランダの側へ行く。
「クマ・・濃くなってんだろうが・・」
「えっ・・ええぇ・・」
慌てて顔を隠すミランダに、それ見たと「やっぱ寝てねぇんだな」と眉を寄せた。
「だ・・だって、この前の任務の失敗を思い出しちゃって・・そうしたら・・その」
「んな事考えてるなら、羊でも数えとけ」
「は・・はいぃ・・」
しょんぼりと俯くとマリが神田のタオルを受け取りながら、
「さあ、二人とも。そろそろ行くぞ」
ぽん、と二人の肩を叩いて修練場の扉を開けた。
三人が食堂へと廊下を歩いていると、
ミランダがハッとして、神田の服の裾を掴んだ。
「あっ・・神田くん。そこ、ほつれているわ・・」
「あ?なんだよ」
「ほ、ほらここ・・修繕しないと」
「どうでもいいんだよ」
「だって・・破れちゃったら・・。わ、私縫うから、後で・・」
服の裾を放さず、神田を上目使いにそっと見つめると、神田が目を逸らした。
「は、放せっつてんだろ・・」
ミランダの手を強引に放させて、自分たちより早足で歩きだす神田にマリは苦笑した。
心音がいつもより速まっていて。それを隠すように、恐らく神田の顔はいつもより不機嫌な色をしているのだろう。
(・・変わるものだな)
あの、全ての人間を拒絶していたような神田が。
たった一人の女に心乱されているなんて。
マリには神田の気持ちが手に取るようにわかる。神田は間違いなく、
(恋をしている・・・)
ミランダに、恋をしているのだ。
当初は苛立ちしか感じていなかった筈が、いつのまにか神田の懐へと入りこまれていく。拒絶できない彼女特有の不思議な力に、さすがの神田も白旗を上げたようだ。
「あ・・か、神田くんっ・・」
よほどほつれが気にかかるのか、ミランダは再び服の裾に手をのばす。その手が神田に触れるか触れないかのところで、
「っ・・触んじゃねぇっ!」
ミランダを睨み付けた。
「ご・・ごめ、ごめんなさいっ・・」
「・・・・・」
その消えそうな怯えた声に、神田はムッとしつつも苛立ちながら、迷うようにミランダを見て。
「・・・チッ」
なぜかその場で服を脱ぎ、ミランダに投げ付けるように渡した。そしてそのまま、さらに早足でミランダから離れて行くのだった。
「か、神田くんっ・・風邪ひいちゃうわ!」
小走りで、神田を追いかけるミランダの焦った声を聞きながら、
『触んじゃねぇ』
マリは神田から発したその言葉噛み締める。
何の感情も、色も見当たらなかった少年の声音とは随分と変わったものだ。
(・・あいつがな・・)
小さく笑みを零して。
それは、単純に嬉しいものであった。
少年期より彼を見守ってきたマリにとって、この変化は感慨無量で、奇跡と言っても言い過ぎではあるまい。
だと言うのに、神田とミランダが親しくなる程、胸に打ち込まれる痛みは何なのだろう。
(いや・・・)
分かっている。
認めまいと、頑なに否定してきたが最初から分かっていたんだ。
(私も・・ミランダが)
いつからか、頼りなげな声を聞くだけで居ても立ってもいられなくて、無意識に彼女の音を捜す自分に気付いてしまった。
危なっかしい歩き方やすぐに跳びはねる心音と、震えがちな柔らかな声。
ミランダを形作る、全ての音が愛しくてたまらないと、気付かされたのも、神田がきっかけだった。
ある時。
ミランダに対する神田の視線が、どこか熱っぽさを含んでいるのを感じて、マリは奇妙な焦燥感を覚えた。
自分以外の誰かに、ミランダを奪われるという焦り。火が廻るように急速に意識した恋心。
我知らず、こんなにもミランダを想っていたとは、思いもよらなかった。
そして、他でもない神田が恋敵になるとは。
(思いもよらなかった、な・・)
ミランダは神田に追い付いて、なんとか服を着てもらおうとしている。神田は面倒そうに、服を受け取りながらも食後に繕いを約束させられている。
そんな様子を耳で感じながら、マリは自嘲ぎみに笑うのだった。
いつものようにテーブルに、蕎麦がのったトレーを置いて。神田は椅子に座る。パキンと箸を割って、先ずは二三本取ってツユには浸けず口に含んだ。
ミランダはまだ注文を終えていない。相変わらず、優柔不断だ。
ちら、とその光景を目に留めてから、神田は再び蕎麦へと視線をやる。ズズ、と音をたてながら啜り、飲み込んだ。神田は二口目へ箸をのばしたが、ふいに止まる。
ごく自然に、ミランダのトレーを持ってやるマリの姿が目にとまる。
(・・・ふん)
マリがミランダを好きなのはまる分かりだ。
躓いたり落としたり、ぶつかったりと忙しい彼女のフォローをしながらも、端から見る兄弟子はなんとも楽しそうで、そしてなぜか幸せそうだった。
(・・・・・・・)
なんとなく、目を逸らしてしまう。
ずきん、と何かが痛む感覚がして、気付かなければ何事も変わらなかったものが、明らかに変化してしまったのを悟った。
とろクサイ、苛々するだけの相手だったのに、いつの間にか側に居たいと思うようになって。
神田より七ツも年上なのに、頼りないその姿をいつも気付かぬうちに探していた。
特別だと、
実感した時には、マリの想いに気付いた後だった。
「・・マリさん、すいません」
「気にするな、それよりスプーンを忘れたんじゃないのか?」
「あっ・・!そ、そうでしたっ」
「ああ、いいからわたしが取りに行こう」
「そ、そんな・・マリさんっ・・」
トレーを持って、神田の前で二人はいつもの会話をする。
結局スプーンを取りに行ったマリを、申し訳なさそうにミランダはオロオロしながら見ていて。
(・・・・面倒くせぇ)
沸き起こる苛立ち、焦りにも似た感情。その正体は口に出すのは勿論の事、考えるのも腹ただしい。
嫉妬しているのだ。事もあろうに、
(・・あの、マリに・・)
神田は収まりのつかない感情を持て余し気味に、勢いよく蕎麦を啜った。
ミランダは、まだ申し訳なさそうにマリの背中を見ていて、それがまたカンに障る。
「お待たせ、ミランダ」
スプーンを手渡して、二人は席についた。微笑み合うように、何度か顔を合わせながら会話する二人を見ながら、神田は、複雑な気持ちのまま箸を動かす。
マリじゃなければ、と思う。
マリじゃなければ、こんな複雑な想いにはならなかっただろう。
(・・・・・・)
最後の一口を啜り蕎麦湯に手をのばして、神田は二人から目を逸らすように飲みこんだ。
分かっている。
(仕方がねぇだろ)
諦める心積もりはとうに出来ていた。
(以前の借りを返すいい機会だ・・)
そっと目を伏せて、蕎麦湯の器をテーブルへ置くと。
神田の記憶の片隅に隠れていた、一昔前のある出来事が顔を覗かせた。
それは、今から五年前。
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