S ayonakidori
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◆◇◆
予定の時刻を小一時間ほど過ぎて、今日の作業は終了した。アシスタントが帰り支度をするなか、福田はやりかけのネームを引き出しにしまう。その時、安岡の声が聞こえて顔を上げた。
「あ、雪降ってる」
カーテンを開けて指さしているが、残念ながら福田の場所からはよく見えない。
「けっこう降ってんのか?」
「いえ、なんかパラパラって感じでたいしたことないスね」
「ふーん・・」
今日は寒いっスから、と呟いて安岡はジャケットに袖を通す。ふと何かに気づいたのか福田を見た。
「あ・・もしかして、風邪ひいたんじゃないスか?」
「は?」
「先生、今日出かけたじゃないスか。でも戻ってからなんか元気ないような気がして」
「誰が」
「誰って・・先生が。外寒かったから具合でも悪くなったんかと・・違ったスか?」
「違ぇよ、バーカ」
鼻で笑って安岡を軽く睨んだ後、時計を見て立ち上がる。
「ほら、もう8時だ。悪かったな今日ちっと延びちまって」
「いえ。別に用もないスから」
そう言って首にぐるぐるとマフラーを巻くと、安岡は「おつかれっしたー」といつものように玄関へ向かった。
ドアの閉まる音を聞きながら、福田はカップラーメンの空容器をごみ箱に捨てる。冷蔵庫から取り出した水を飲みながら誰もいない仕事部屋へ戻ると、気が抜けたように息をついた。
「・・・・・」
カーテンを開けて目を凝らす。ゆっくりと地上目がけて落ちてくる白い小さな物体。
雪か、と声なく呟いて、ぼんやりと暗い夜空を見つめた。
(さっきは、降ってなかったのにな)
視線の先に映るのは窓の外ではない。数時間前に見た光景。
用事があって行ったバイク店の帰り、渋滞を避けて入った道で偶然見つけてしまった。
それは仲良さそうに歩く二人の姿。信号待ちの歩道で、映画でも見てきたのかパンフレットを持つ蒼樹のもう片方の手は平丸と繋がっていた。
バイクに乗る福田の存在に彼らは気づいていない。それでいいと思った。声をかける気もなかった。
中井との騒動がさらに平丸との絆を深めたのだろうか。
信号が青になり、歩き出す二人はどこから見ても恋人同士であり、それを傍から見ている福田は、自身でも滑稽な存在に思えて自嘲した。
(くだらねぇ・・)
歯痒さは、嫉妬だ。今さら悟ってもしかたないのに。
既にどうにかなる話でもない。纏まったものを掻きまわす権利なんてあるはずない。しかも誰も望んでいない。
だから福田には、この行き場のない気持ちの振り方を自分でよく分かっていた。諦める、それしかないと。
遅かったのだ、なにもかも。ただ、それだけだ。
窓越しに見上げる空は、あの夜よりもさらに暗く寂しい。静謐に降る雪は、福田の中にも落ちていく。
カーテンを閉めてそっと息をつく。額をカーテンごしに窓にあてて、微かに伝わるガラスの冷たさに眉を寄せた。そうして零れるように苦く笑うと、自らに問う。
(どうやって?)
諦めるって、どうやって?
自分でも笑えるくらい、蒼樹のことが頭から離れなかった。少し前までこんなことはなかった。彼女はずっと『仲間』であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
いや、そうであって欲しかったのだ。惹かれているなどと、気づくことをどこかで怖れていたのかもしれない。
福田は『漫画』というフィルターを通さずに蒼樹と会することを、無意識に避けていたのだ。
「・・自業自得ってやつか」
嘲りを含んだ声が己の口から零れたことにやや驚きながら、福田は窓から離れる。紛らわしたくてシャワーを浴びようと浴室へ向かう途中、なにげなく視界に入ったバイクのヘルメットに目を止めた。
唐突に浮かぶ己の衝動にうんざりしながらも手を伸ばしてしまったのは、結局のところ考えるのを放棄したかったのだろう。
あと一つ、それはとても単純な理由だ。逃げたかった。この気持ちから。
けれどその行き先は矛盾して、浮かぶ場所は三鷹だった。蒼樹の住むあのマンションしか行きたくなかった。
もちろん会う気はない。マンションの近くまで行って、すぐに帰るつもりだ。遠くから蒼樹の部屋を見て、自分の中で納得をさせたい。諦めたい、それだけだ。
その考えが都合のいい言い訳のように思えて福田は気が重くなったが、結局ジャケットと手袋を抱えて、靴を履いた。
外へ出てすぐ、白い息が空へ昇って消えていく。それはどこかの誰かの想いのように、昇華して消えた。
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