B akuman
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鉄筋コンクリートの現代風のマンション、その角部屋へは階段を上がって通路左を曲がる。
時刻は夕方5時10分前。約束の時間より早く着いてしまった。
蒼樹が時計を見ながら通路を歩いていると、目的の部屋の前に誰かがいることに気づく。見覚えのない若い女性だった。
何度か来たことがあるし間違えることはないと思っていたが、ぼんやりして階を間違えたのかもしれない。蒼樹は引き返そうとしたが見慣れた人物が視界の端に映って足を止める。
(え、福田さん?)
その部屋の住人である彼の前に、女性が立っていた。
カチューシャにシニヨン、デニムのショートパンツにレギンス。紫色のダウンがとても似合う可愛い女の子。活動的な雰囲気の彼女の手にあるのは『St.Valentine day』と書かれてある紙袋。
「これ、いいですか?」
「ああ・・そういうことなら」
女の子が紙袋を渡す。小ぶりなピンク色のその袋は、どこをどう見てもチョコレート。というか2月14日のこの日に、チョコレート以外の物が入っているはずがない。
蒼樹は無意識にバッグを持つ手に力が入る。見てはいけないものを見たような、気まずさを覚える。
(こういう時って、隠れたほうがいいのかしら)
あちらが自分に気づいてないのだから、ここは気を利かせるべきだろうか。
(でも、別にやましい間柄ではないし・・)
そもそも福田とはつき合っているわけではない。漫画家仲間というには親しすぎるが、その枠からは抜け出てない程度の関係である。
今日もバレンタインデーだからといって約束したわけではない。借りていた漫画を返しに来ただけで、本当は昨日の予定だったが急な打ち合わせが入って今日になったのだ。
一応ご挨拶程度にチョコレートは持ってきたが、借りてた漫画のお礼のようなもの。他意はない。
(それに福田さんが誰かにチョコを貰ったとしても、私には関係ないこと)
漫画家なんて出会いの少ない仕事なのだから、家までチョコを渡しに来てくれる子がいるなんてステキなことではないか。しかもあんな可愛い女の子。
元気そうな明るそうな、自分とは違うタイプの彼女はどこか高木の妻である香耶を思わせる。きっとこの彼女も福田と付き合えば、香耶のように周りの空気を明るくする恋人になるのではないか。
福田も自分みたいな面白みのない女より、こういう笑顔が似合いそうな彼女と一緒にいることを望むだろう。少し寂しいけれど彼の幸せを思えば仕方ない、自分は心から応援しよう。
「・・・蒼樹嬢?」
ふいに名前を呼ばれて目を瞠る。気づけば二人ともこちらを見ていた。
「あ・・」
「あ、じゃねぇよ。なにぼうっと突っ立ってんだ。具合でも悪いのか?つうか眉間のシワがえらいことになってんぞ」
「え?いえ」
咄嗟に眉間に手をあてると確かに深く刻まれている。そんな蒼樹を見てか、女の子は「えっと、じゃあよろしくお願いします」と福田に会釈して足早に去って行ってしまった。
「福田さん、いいんですか?」
「?なにが」
「なにがって、あの女の子・・引き止めた方がいいんじゃないですか?」
「・・・はぁ?なんで」
「なんでって・・・そういうことは自分で考えてください。こういう好機を逃していいんですか?私ならお邪魔でしょうから帰りますし、どうぞ気になさらずに」
苛立ちを含んだ自分の声に驚く。これではまるで怒っているようだ。
なんだか気まずくて福田の顔が見れない。つい顔を背けてしまう。これではますます怒っていると思われる。そんなつもりじゃないのに。
「なに怒ってんだよ、意味わかんね」
「べ、別に怒ってなんかいません!」
「怒ってんだろ。めんどくせーなー・・どうすんだ?部屋入ってくのか?」
「・・ですから福田さんはさっきの女の子をどうぞ追いかけてください、面倒くさい女はもう帰りますから」
持っていた漫画の入った袋を押し付けるように渡すと、蒼樹はくるっと身を翻しスタスタと歩き出す。背後からため息まじりに舌打ちが聞こえ、さらに足を速めた。
何をやっているのだろうか、どんどん自分の気持ちとは離れた行動をしてしまう。本当は笑顔で「頑張ってください」のひとことでも言えたらいいのに、これでは本当に怒っているみたいだ。
(怒ってなんかないわ。ただ・・ただちょっと気持ちの整理がつかないだけ)
もやもやとした説明のつかない感情が、福田の顔を見るとわいてくる。そのせいで言いたくもない厭味が口から零れてしまう。
「おい!待てコラ」
「?!・・」
突然、背後から目を三角にした福田が追いかけてきた。
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BAKUMAN
(bakuman....)
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