gondora






◆◇◆


(喉が渇いた)

輯英社を出て歩きながら、ふと思う。そういえば朝からお茶を一杯飲んだだけであった。編集部の振り子時計はたしか午後3時を過ぎていたはず。喉が渇いて当然だ。
神保町から錦町へと歩いていく。数軒並んだ下宿屋を通ると、長屋の角に駄菓子屋があるのが見えた。子供たちが集まって、騒がしい。なんとなく自分の子供の頃を思い出し、愛子は歩みが遅くなる。

そういえば昔、一度だけ秋人と駄菓子屋に来たことがあった。どうして2人で駄菓子屋にいたのかは覚えていないが、まだ幼かった愛子と秋人はくじ引きをしたり三角パンを半分こしたりと、それは子供らしいほのぼのした時間だった。

(私ったら・・また、考えている)

気が緩んだらすぐ秋人のことが頭を過ぎってしまう。愛子は眉を寄せ、忌々しげに空を睨んだ。
どうかしている、今考えなければならないのは先ほど頼まれた『念生物』の続編のこと。まだ返事はしていないが自分は依頼を断れるほどの作家ではない。物書きとしてはまだ新人なのだから。
しかし書くとしてもあれは一度終わらせた話で、続編を書くとなると話が破綻してしまう。

(それなら、設定だけ使ってまた最初から話を考えたほうが・・)

物語を考えるのは楽しい。文学少女だった愛子は昔から読んだ話の続きを考えるのが好きだった。本好きな娘のために父も好きなだけ読ませてくれた。そんな父も、まさか娘が本気で作家になりたいと考えてるとは思っていないだろう。
一人娘の自分はいずれ婿を取って家を継がなければならない、両親はずっとそう思っている。小説を書いて出版社に持ち込んでいても、いずれ諦めるか飽きるかすると考えているらしい。さすがに髪を切ったときはひどく叱られたが、大学を卒業するまでに伸ばすことで渋々許された。

愛子が大学を卒業するまであと2年、その2年が勝負だった。
それまでに作家として結果を残したい。その為には今のように少女小説や大衆向けの娯楽作ではだめだ。文壇の重鎮も認める一人前の『作家』にならなければ。

ふいに背後でワッと歓声が沸き、さっき通り過ぎた駄菓子屋を振り返る。子供たちが興奮ぎみに騒いでいるのを見て愛子は首を傾げたが、よく見ればその中に子供ではない人がいて目を瞠る。
童子のように短い前髪と不揃いの髪形。すぐに桜並木で見かけた男だと分かった。一日で二度も見かけるなんて、こんな偶然もあるのか。
男は駄菓子屋の脇にある木箱に座りながら、菓子を頬張っていて。食べきれないほど買ったのか子供らに分けていた。南京豆やら飴を袋ごと渡すのでその度に子供らから歓声が沸いた。

(あの人、何をしているのかしら)

犬のかたちをしたベッコウ飴を舐める彼の手には、他にも芋羊羹や味噌せんべい、新聞紙の袋に入った勾玉みたいなゼリービーンズ。足元にはくしゃくしゃになった空クジ。甘いものが好きなのかと思ったがそうでもないようで、一つ二つ口にするとすぐ側にいる子供に与えていた。
楽しいのか分からないが、ただ珍しげに色々と商品を見て満足そうである。
変な人、と愛子が内心で呟いた時、まるでその声を聞いたかのように男がこちらを見た。目と目が合い、今度ははっきりとお互いを認識する。咄嗟に目を逸らし、愛子は速足で歩き出した。見ていたことを知られたのが気まずかった。

「おーっ!ちょっと待って下さーいっ」

背後から声をかけられて心臓が飛び跳ねる。まさか呼び止められるなんて思ってもいなかった。聞こえないふりをしようかとも思ったが、本当に自分を呼んだのかとの確かめもあり、愛子はそろそろと振り返る。

「そう!そこのアナタですっ。初めましてじゃないですよね?」
「え・・わ、私ですか?」
「はいアナタです。知ってますよっ!さっき日本橋から歩いてきた人ですね!」

木箱の上にひょいと乗って手を振る彼に、愛子の顔は引き攣った。子供らは男が立ち上がった瞬間に落とした菓子を拾いつつ、興味深々といった様子で愛子と男を見ている。
違います、と言って立ち去ろうとした時、男が「とう!」と木箱から跳んだ。そのまま跳ねるように近づいてきたので、呆気に取られて声を出すのを忘れてしまう。
体だけでなく顔も近づけてくるので、思わず後ずさった。けれどそんな愛子のことはお構いなしに男はじぃっとこちらを見つめてくる。

「なっ・・なんなんですか?無礼です。こんなふうに女性に近づいてくるなんて、無礼にも程がありますっ」
「僕初めてなんです、これが噂に聞くモダンガール!・・おおおっ!耳隠しの断髪に洋装、いいですね!ファンタスティックです!」
「は?」

両拳を握ってなぜか興奮ぎみな男に、顔が引き攣る。なんだこの男は、バカにしているのだろうか。愛子は眉尻を上げて睨むも、こちらのことなどお構いなしだ。
洋装が珍しいなどと、これは最近巷で聞く男が女を「引っ掛ける」というやつだろうか。洋服を着ただけでフラッパーのように思われるなど心外である。自分は流行しているから洋服を着ているのではない、機能性もあるが洋装の女子を未だ白い目で見ようとする封建的な輩へのアンチテーゼの意味もあるのだ。
抗議をしようと意気込んだとき、男のなりの野暮ったさに気づく。もしや地方から出て来たばかりなのだろうか。
紺色の着物と鼠の袴は裄も裾も短く、ところどころ継ぎ接ぎがされており、中に着ているシャツは首元がだらしなく緩んでいる。着物の柄も若い人が着るというより年寄りが好みそうな古臭い、時代遅れの印象を受けた。

(・・地方なら洋服が珍しいというのも、分からなくはないけれど)

それでも何か言ってやらねば気がすまないと、愛子が鼻息を荒くした時。背後から物売りの声がして、男の興味が一気にそちらへ移る。

「おおっ!なんですかアレはっ」
「え?」
「あの天秤で持ってきてるヤツです。なんですか?あれ!」
「・・・あれは苗売りでしょう?」

『茄子の苗や、胡瓜の苗や〜』とゆるく伸ばした節回しに男は興味津々であったが、愛子は文句の出鼻を挫かれたこともありそっけなく答える。
子供たちが駄菓子を食べながら、苗売りの後をついていく。男は子供のように追いかけて、いくつか苗を見せてもらっていた。

それを見ながら、愛子はバカらしいと鼻で笑う。喉が渇いているのを思い出し、相手にするだけ時間の無駄だと男に背を向けて歩き出した。

「んっ?おっと、ちょっと待ってくださーい!」

またしても声をかけられたが、今度は無視して歩みを速める。構っている暇はない、自分は忙しいのだから。
そもそも最初から足を止めるべきではなかったのだ。桜を見つめる彼の瞳にある種のデカダンスを感じていたが、実際は妙な人だった。第一印象はあてにならないというのは、こういう事だろう。

その時、突然背後で『ポン!』と音が聞こえたので驚いた。なにごとかと振り返ると、男が開けたばかりのラムネの瓶を差し出しながら追いかけてきていた。

「なっ、なんなんですか!?」
「さっきそこで買ったんです!おっ!わっ!こぼれる!ほらっ早く受け取ってくださいっ」
「ええっ!?きゃっ、あなた何しっ・・ちょっと!」

溢れる炭酸水が愛子の指と地面を濡らす。ちなみにお気に入りのワンピースも濡らした。
男は無事愛子にラムネを渡せて満足したのか、自分のぶんのラムネに口をつける。ゴクと飲んで口元を拭うと、瓶を持ったままの愛子に笑いかけた。

「あ、それどうぞ。バケツで冷やしてたみたいで冷たいですよ」
「・・・だから、なんなんですか」
「え?ラムネですケド・・あれ?知らないです?」
「知ってます!そうではなくて、あなたがなんなんだと聞いているんです!さっき声をかけてきたのもそうですが唐突すぎますっ!」

男は愛子の剣幕に一瞬目を丸くしたが、すぐに納得したのか「なるほど」と肯く。けれど反省したというよりも新たな事実に気づいたような顔である。

「れでぃふぁーすと、ですね?」
「はい?」
「西洋では何でも女が先立ってすると聞きました。部屋に入るのも食事も。つまり声をかけるのも僕からではなく自分からと・・進歩的なモダンガールはそういう信条ということですね?なるほど勉強になります」
「全然違います」

興味深げにふんふんと肯く男をピシャリと否定し、愛子は持っているラムネを突き出した。

「これは結構です」
「ラムネ、嫌いでしたか?」
「嫌いというのではなく、一般的な警戒心は持ち合わせていますので。面識のない方からの頂き物はお断りしたいだけです。それに・・こういった行為はあまり好きではありません」

言い切って男を睨むと色素の薄い瞳と目が合い、愛子の心臓が大きく跳ねる。桜の木の下で見た、あの真っ直ぐな瞳がじっとこちらを見ていた。
射抜くような鋭さと、映すものへの探究心。目に映る姿ではない、別の姿も知ろうとする視線。それは子供のように無邪気だが微かな残酷さも見える。
なにかを見透かされているようで、奇妙な居心地の悪さを覚えた。

男は白い歯をにいと見せて、突き出された愛子の瓶に己の玉瓶を傾ける。そうして乾杯のようにコンと鳴らした。

「今日は記念日なんです」
「・・え?」
「今日、初めてこっちの桜を見て、色んなとこ見てまわったんです」

玉瓶のビー玉がカランと音を立てる。ゴクと音が聞こえそうなその飲み方に、見ていて喉が刺激された。
『記念日』というのがよく分からなかったが言い終えた男の表情がなんだか楽しげで、愛子は険しい顔を少しだけ緩める。



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