Sket Dance
1
夏の日に、影をおとす百日紅。ボートの上から見た蓮華の花。ちいさな手で編んでくれたシロツメクサの花冠。
青いふちのガラスにのったアイスクリーム。二人で合わせた下手くそなチャイコフスキー。
踊るように揺れる、繻子のワンピース。
――それは思い出。
幼き日に過ごした過去の記憶。つまりは忘却することも叶わぬ、縛り。
◆◇◆
真鍮のドアの取っ手がかちゃりと鳴って、開く。
「これは椿先生、お待ちしておりました」
そう父に恭しく頭を下げる丹生家の家令は、佐介を見止めると「佐介さんもいらっしゃいませ」と僅かにくだけた表情を見せた。
それは幼い頃より知っている青年への親しみのような温かさで、椿は嬉しくもあったがやや気恥ずかしくもあった。
丹生邸は壮麗な洋館で、当主の林太郎が若い頃に洋行していた影響もあり、一部の日本家屋を残して大部分をイギリスのチューダー様式に改築していた。
扁平アーチをくぐりホールに入ると、奥にはフランス製の豪華なタペストリーが飾ってある。父と佐介は右手にある応接室ではなく、家令に案内されて階段を上った。当主の私室へと向かっているのだと分かる。
(・・・・・)
出来れば二階へは上がりたくなかった。
一段、また一段と踏みしめる足に重たさを覚えながら、佐介は誰にも悟られず吐息をもらす。
けれどロビーに足を踏み入れた時、憂鬱の一端が耳に入る。ピアノの音だった。
「これは・・美森お嬢様ですかな?」
そう家令に聞く父の横顔を、佐介はざわめく気持ちを抑えて見る。なにごとも感じてはいないという風を装って。
「はい。さようでございます」
「ずいぶん上達されたのですね・・といっても以前お聞きしたのがずいぶん前でしたので、比較するのもおかしいでしょうが」
「椿先生がそう仰ってられたとお伝えすれば、お嬢様も喜ばれるでしょう。なにしろお小さい頃のピアノの御師匠様ですから」
「いや、わたしは下手の横好きでして。それに仕事が忙しくて最近はピアノにも触れておりません」
さようでしたかと相槌をうつ家令が、父の後ろで黙っている佐介に気づかってか声をかける。
「佐介さんは、今もヴァイオリンを弾かれているのですか?」
「・・いえ、今は弾いてはおりません」
「さようでございますか」
肯き、再び歩き出す家令と父の後に続きながら、ふいに佐介の耳はピアノの音色が途切れたのを捉える。たったそれだけのことが心臓をどくんと低く鳴らせた。
音楽室はすぐ近く。そう思うと気持ちが急いて、前を歩く二人の足取りがもどかしく感じられる。ひそかに唾を飲みながら、耳をすませた。扉が開く音を聞きたくなかった。
階段の豪華なステンドグラスを眺めるふりをして、窓越しに音楽室の扉を確認する。開く気配をみせないその扉に、微かな失望を感じる己を恥じた。
開いたからとてどうにかなるわけでない。どうにもならないことはある。
すうと息を吸って視線を窓から背ける。その時だった。
「じいや、いるの?」
背後から聞こえた声に、佐介は振り返らずに視線を床へ落とす。
約1年ぶりに聞く声の主は、偶然にも音楽室の扉を開きこちらに気づいたようだった。
「まあ、椿先生」
その明るい声に父が反応し、眼を細めて振り返る。
「美森お嬢様、おひさしぶりでございます。実は先ほど弾いてらしたピアノを聴きまして、ずいぶん御上手になられたと話していたところですよ」
「先生がおいでになっているとは思いもしませんでしたわ。恥ずかしいです」
「いえいえ、上達ぶりに目を瞠っていたところです」
「まあ、お上手ですのね」
くすくすと零れる笑みを佐介はガラスの向こうの出来事のように聞いた。
水色の花車模様の着物を纏う彼女は、父へ向けていた視線を当然のようにこちらへと向ける。その屈託のない澄んだ瞳を避けるように、佐介は目を伏せて頭を下げた。
「椿くん」
名前を呼ばれるだけで胸の奥がじりじりと熱を持つ。けれどそれを表には出さず、声音を整えて「おひさしぶりです」と返した。
視界の端で彼女が微笑むのが見える。佐介は逃げるように父へと視線を向けたとき、それまで傍に控えていた家令が口を開いた。
「お嬢様、練習は終わられたのでございますか」
「いいえ。少し喉が渇いたので休憩しようと思っていたの」
「かしこまりました。ではお茶をお持ちいたしますが、まだ音楽室におられますか?」
「ええ」
「承知しました」
家令はそう言って傍にいた女中に用件を命じた後、父に向かって「ではこちらへ」と案内を再開した。
「ではお嬢様、失礼します」
「はい」
「・・・・」
父とともに美森に礼をして、当主のいる書斎へ向かう。再び音楽室の扉が閉まる音が聞こえると、佐介は安堵と奇妙な苛立ちを覚えたのだった。
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