Sket Dance


3


◆◇◆


多くの洋書と寄蔵書、漢籍と古典文学。溢れるような光景に佐介は神聖な気持ちになる。
指先で線を書くように題名をなぞっていく。一冊の本に出会い、傷つけないようにそっと取り出した。家では読めない本、法律学の書物。
誰にも言っていないが、本当は医学よりも法律学を学びたかった。手にあるその本は、先日丸善で欲しいと思いつつも諦めたドイツ語の法典解説であった。
頁をめくることにひそかな罪悪感を覚えつつも、知的好奇心はそれを上回る。

佐介は、養子であった。
産みの母は佐介を産んですぐに亡くなったらしい。双子のうちの一人を養子にしたのだと、一高に入学した際聞かされた。
跡継ぎのいない椿家に養子になった自分は、医者になるべく育てられたのだ。恩を忘れて別のことを学ぶことは出来ない。分かっているからこそ帝大でも医学部を目指している。

「・・・・・」

淹れられた珈琲は苦かったが、嫌いではなかった。一緒に出されたビスケットが子供の頃と変わらない味がして苦笑する。
懐かしいな、と心の中で呟く。というのも七歳になるその日まで佐介にとってここは二つ目の家であった。

(あのボートは・・まだあるのか)

書庫の窓から見える池には、当時何度か乗ったことのある小舟が入江につながれている。10年も前のものだが作りがしっかりしているのだろう、それほど古びた様子は見えなかった。
幼い頃、自分は美森の遊び相手としてこの屋敷によく招かれていた。それはもう毎日のように。
普通娘の遊び相手には同性を選ぶのだろうが、林太郎はあまりその点に拘りはなかったようだ。幼少の佐介が大人しい性質であったのもあるが。
物静かでカルタや人形遊びも嫌がらず、少しお転婆な美森につきあって庭の散策にも付き合う自分は、遊び相手にはちょうど良かったのかもしれない。もっともそういった遊び相手は何人かいて、佐介はそのうちの一人というだけだが。

――縁談。

そう遠くないうちに彼女は結婚する。17歳という年ごろと丹生という家格を考えれば当たり前のことだ。むしろ許婚がいないことのほうが不思議だった。
女性の爵位相続は認められていないから、婿養子をとって子爵家を存続させるだろう。きっと同じ華族の次男坊や三男坊、もしくは政界重鎮の子息あたりだと思われる。丹生家の財産はどの家でも魅力的だろうから。
佐介は読みたかった本の頁をめくらず、ぼんやりと活字を見ていた。とうに諦めているのに、ぎりぎりで往生際の悪さが出るのは昔からだ。

(だって、しかたがないじゃないか)

道は既に作られていたのだ。ほかの選択などできるわけがない。
自分はこのまま医者になり父の跡を継ぐ。そうして・・いずれは父のように丹生家の主治医になる。望む望まざるにかかわらず、そのために生かされているのだ。
優しい父と母にそれを強制されたわけではないが、佐介自身がそうあらねばと思っている。
ただ一つ邪魔なのは、幼き頃よりの秘めた想い。実ることのない恋心。いつだってそれが決心を鈍らせるのだ。
佐介は少しさめた珈琲を一口飲んで、開いていた本を閉じる。読みたかったはずなのに色々と考えてしまって集中できない。この場所のせいだろうか。この屋敷には断ち切りがたい思い出が溢れていて、落ち着かない。
ため息をつき、本を戻そうと立ち上がった時、扉をノックする音が聞こえた。もう将棋は終わったのかとホッとした心持ちで「はい」と返事をした。

「失礼いたします」

入ってきた人物に、思わず息をのむ。美森であった。
彼女はにっこり笑いながら、それは嬉しそうに佐介のもとへ近づいてくる。戻そうとした本を落としそうになったが、咄嗟に持ち直す。心臓が大きく音を立てた。

「椿くんが書庫にいらっしゃると聞きましたので」
「・・・・・・」
「?どうかされまして?」
「いえ・・」

黒く豊かな髪が水色の着物の上で揺れる。かたちのよい鼻と大きく澄んだ瞳がこちらに向けられると、佐介は逃げ出したいような臆病な気持ちになった。

「お久しぶりですわね。たしか・・去年の花見の宴でお会いして以来かしら?」
「はい」
「今年の花見はいらしてませんでしたでしょう?がっかりしましたのよ、お会いできると思ってましたのに」
「・・申し訳ありません」

相変わらず屈託ない、おっとりとした彼女の様子に心の中で予防線をはる。踏みこまれては困ると、頑なに。
美森にとって佐介はずっと変わらない幼馴染なのだ。懐かしい友人なのだ。けれど暢気な彼女は、それがどれだけこちらを苦しめているか知らない。
先ほどのチャイコフスキーもそうだ。ああやって忘れかけた頃に杭を打つ。埋めてもまた掘り返される。何度も、何度も。

「あのボート、まだありますのよ。覚えてらっしゃる?昔二人で乗って叱られたことがありましたわね」
「・・・・・」
「魚に餌をやろうとして・・でも、そのまま中の島まで流されて。じいやと椿先生が別のボートで迎えにきてくれたんでしたわ」

窓の外を見ながら、美森は懐かしそうに言う。ふふ、と思い出し笑いもして佐介の方を振り返った。
悪戯っぽく微笑むその表情が、あまりにも昔と変わらなくて微かに眉を寄せる。言いようのない苛立ちがわいて、彼女から目を逸らした。
そうして半ばあてつけるように、言わずにいた呼び名を口にする。

「お嬢様は、よく覚えておいでなのですね」

静かな声に、自分でも少しだけ驚く。『お嬢様』と彼女を呼んだのはこれが初めてだった。
子供の頃はずっと名字で呼んでいた。他の遊び相手の子たちは「みもりさま」と呼んでいたが、なんとなく恥ずかしくて「うにゅう」と呼び捨てしていた。
今思えば、大それたことをしているなと思う。おそらく父も気まずかったのではないか、けれど子供の言うことだからと周囲の大人たちは気にせずにいてくれた。
彼女を「うにゅう」などと呼ぶのは自分一人だけで、そう呼ぶことで安心していたのかもしれない。自分たちの関係に未来があると、微量でも期待していたのだろうか。
美森はそんなこちらの気持ちなど知らず、そっと目を伏せると口元だけほころばせる。

「ええ、覚えているの」

響いた囁きは、佐介の胸に新たな傷をつけた。
さざめく数多の感情を抑えて持っていた本を棚に戻すと、重苦しさを隠し、なにごとも見せずに美森から顔を背ける。

「ボクは、もう忘れました」

締め付けた感情が微かに声をかすれさせた。冷淡な声は彼女に届いただろうか。

伏せた視線が美森の影を捉える。ゆるやかな西日の、おぼろに翳るその黒影は佐介のすぐ足もとまでのびていて。
触れるのを躊躇う己に情けなさを覚えながら、けれど触れることもできず後退りした。
退出の言葉を口にすることも出来ず、彼女を再び見ることもせず。佐介は静かに扉を開き、書庫を出た。

扉を閉める瞬間、美森の横顔を静かに心に焼きつけて。



END





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