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マリはずっと疑問であった彼女の噂の原因が、もしかしてこの兄ではないかと思い始めている。そんな馬鹿なと思いながらも、ティキの様子に以前コムイが言った言葉が思い出された。


『きっとミランダ姫を誰にも渡したくなかったんだよ、だからあんな噂を流した』


誰にも渡したくない、そう思うのは兄妹愛の延長なのか。しかしティキは妹を盲目的に愛しているという感じには思えない。
はっきりとした証拠があるわけでない。どちらかといえばそう思うマリの方がおかしいのだろう。しかし、この考えは今まで腑に落ちなかった点を解決する気がした。

警戒するティキの腕でミランダは不安そうにマリを見ている、その視線に応えるよう肯いて口を開いた。

「事情が込み入っているから、ここで今後のことを言っても信用されないかもしれない。しかし、わたしはあなたのことを軽々しく・・」
「四の五のぬかしてねぇで、帰るならとっとと行動に移せよ」

肝心なところを言う前にティキが割って入り、言葉が遮られる。なるべく穏やかに別れの挨拶をしようとしていたマリは、思わず眉間にシワを寄せた。
去り際に大人気ない態度をするのは、好ましくないから文句を言いたいのも我慢するが、マリの性分を見透かしているようなティキの態度は不快であった。

そんな張り詰めた空気の中、遠慮がちな声がした。

「あ、あのっ・・」

ミランダが勇気を振り絞って出した声は、真っ直ぐマリへと向けられている。

「き、今日は・・あの、色々と」
「おい」
「・・でもお兄様、私・・」

ティキの凄まじい眼光に勇気は散り散りになり、ミランダはそのまま口を噤んで俯く。これ以上兄の機嫌を損ねるのも恐ろしかった。
けれどこのまま帰られたら、もう本当にこれきりになってしまいそうで、それも嫌だった。黙っているのは、兄の言葉を認めているようで。恋人と宣言してくれたマリを裏切るような気がした。

こんな自分に『嬉しかった』と、言ってくれた人。ずっと欲しかった言葉をくれた彼に「手紙を書きます」と、伝えたい。
ミランダは俯いた顔を上げて、マリを見る。彼もこちらを向いているのが分かり、頬が熱くなりながらも勇気が湧いた。

「あの、私っ・・」

と、声を出したその時。
正殿からバタバタと慌しい足音が聞こえて、一同そちらへと意識が向かう。足音は何かを捜しているらしく、バタンバタンと格子を開け閉めする音や、御簾を巻き上げる音がして、あちこちから女房の悲鳴のようなものが聞こえる。
ティキとミランダは不審そうな表情を浮かべていたが、マリ一人は嫌な予感から胸がざわめき、全身の毛穴から汗が噴き出してくるのを感じていた。

(・・・まさか)

聞きなれた足音、それは弟の神田のものに酷似していた。
そういえば神田が倒れてから時間が経っているから、復活していてもおかしくない。よく聞けば、歩き方が酔っぱらいの様によたついている。

拳で額を押さえ、マリはこれ以上騒ぎが大きくならないうちにと、塗籠から出て行こうと戸口へ向かう。もし神田ならば、早々と連れて帰らねばなるまい。謝罪の材料をこれ以上増やしたくない。
正直、ミランダが何かを言おうとしていたのを気づいていただけに、今この場から立ち去るのは残念だった。

けれど後ろ髪引かれる思いは、次に聞こえた声にかき消えた。

「おいっ!いったいどこに隠しやがった」

まごうことなき弟の声に、マリは目眩とともに心臓が痛み、胸を押さえる。続けて聞こえたのはトクサの声らしい、かなり狼狽し、興奮しているのが分かった。

「い、いいかげんにしないかっ!自分がいったい何をしているのか分かっているのかっ!」
「うるせぇな、てめぇらコソコソと計りやがって・・そろそろ吐かねぇと邸中の女の部屋に乗り込むぞ、言っとくがオレは内大臣とかいうクソ親爺の立場なんざどうでもいいんだ、とっととマリを出しやがれ」
「正気ですか、あなたの行為は立派な犯罪だ。これが公けになれば検非違使である自分の立場も危ないというのに・・」
「知るか」

ゴトッ、ガタガタ、と揉み合う音が聞こえる。手を上げられては困る、もうこれ以上は騒ぎを大きくして欲しくない。

「あれ、おまえんとこの弟だろ?」
「・・・・」

ティキの指摘に返事をせず苦い顔のまま塗籠を出ると、ちょうど廂から母屋へ揉み合いながらトクサと神田が現れた。手には照明の高燈台を持ち、着ていた狩衣は前が肌蹴て裾をトクサに掴まれている。

「か、神田・・またおまえは・・」
「!マリか」

眼が据わり赤らんだ顔は、まだ酒気が抜けていないのを物語っており、高燈台の持ち方からして愛刀の六幻と勘違いしているようだった。

「中将殿っ、これは・・申し訳ありません。お邪魔をいたしまして、その、弟さんが随分と酔っ払ってしまったようで」
「こ、これは申し訳ありませんでした、トクサ殿・・その、弟の失礼をお詫びします」

マリの登場に気まずそうにするトクサは、神田を止める為にえらく骨を折ってくれたらしい。

「すぐに連れて帰ります。シェリル殿には日を改めてお詫びに参りますと、お伝え願えますか」
「そ、それは・・いえっ、あの・・」

シェリルにマリを手引きするよう言われていたトクサはうろたえる。このまま帰らせては面目が立たない、しかし、弟の行いを見過ごすことも出来ない。
そんな彼をよそに、神田はマリを押しのけ母屋を見回すと、

「おい、オレはまだ帰る気はねぇぞ」
「!・・なにを言ってるんだ神田」
「その不幸女に落とし前つけさせんだよ。二度と関わるなって、てめぇで言えねえんならオレが言ってやる!」

よたついた足取りで高燈台を振り回し、几帳やら衝立を払いのけるので、マリは慌てて後ろから羽交い絞めで止めた。

「ば、馬鹿なことを言うなっ。いいから今日は帰るぞっ・・」
「うるせえ!だいたいおまえは免疫がねぇし女ってもんを分かってねぇ。なんでよりによって、あんな野郎の妹と縁組しなきゃならねえんだよっ!」
「落ち着け、おまえは酔ってるんだ。とにかく帰ろう、ほら、な?」

ずるずると暴れる弟を引きずり、マリが母屋を離れようとした時。ミランダを塗籠に残したティキが目の前に現れた。

「弟くんとは、どうやら気があいそうだな。オレもあんたらと縁続きになる気はない」
「出やがったな、この野郎。猥褻を絵に描いたようなツラしやがって、胸糞わりぃ・・」
「こ、こら神田!」

『気が合いそう』と言われたのがさらに怒りに火を点けたらしい、ふざけんな、と今にも掴みかかりそうな神田を必死で押さえ、ティキから距離を取る。引きずって廂まで出ると、物音を不審に感じた女房たちがこちらへ向かって来るのが聞こえた。
騒ぎをこれ以上大きくしたくないのもあるが、このまま帰るのはミランダに申し訳なくて。塗籠で彼女が何を思っているだろうと考えると、胸が痛んだ。

できるなら、一言でいいから言葉を交わして帰りたかった。立ちはだかるティキの存在を考えれば、それも無理な話だと諦めるしかないが・・。
ティキは腕を組み柱に背をもたれ、そんなマリの気持ちを見透かしたように薄く笑う。

「やめとけ、おまえさんの未来のためにもな」

以前言われた時と同様、軽い調子のなかに棘を含んだその言い方は、明らかに釘を刺していた。


「・・・・・わたしではなく、自分のためだろう?」


返事を待たずに、マリはさらに足元が覚束なくなっている神田を担ぎ、母屋を後にしたのだった。





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