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泣きボクロの男は縛られた痕を摩る。微かに赤くなった程度だから痛々しさはないのだが、当人は実に大袈裟に手首を摩っている。
こちらをちらとも見ず茶をすすり、一口含むとまずそうに顔をしかめて、湯呑みを邪魔くさそうに机に置いた。

(・・・・)

その様子を横目で見ながら、神田は忌ま忌ましげに舌打ちをした。
昨日に続き今日までも。余程ついてないのか、それとも厄日か。二晩も続けて、ティキと相見えようとはいったいどういう事だ。

「おい・・目障りだ、とっとと帰りやがれ」
「はあ?なんだその態度、言っとくけどコッチは被害者だからな、わかってんの?なぁ」
「なにが被害者だ、テメェは単なる露出狂じゃねぇか。この変態が」
「・・・言うに事欠いて変態はないだろうよ。言っとくけどコッチにはコッチの事情ってもんがあんの」

なにが事情だ、と胡散臭い目でティキを見る。大きく胸元が開き、所々に女が塗る紅の痕。どうみても情事の後だ。


千年公の邸がある三条付近で怪しい半裸の男を取り押さえた−−との知らせにより、馬を走らせた神田が庁で見たのは、手首を縛られたティキであった。
一応仕事であるから取り調べるものの、どう見ても情事の最中に逃げ出してきた様子に、深く聞き出すのもバカらしく。
部下の報告からも事件性が見当たらない為、神田は早々に解放することに決めたのである。

「あーあ・・帰んの面倒くせえなぁ」
「グダグダ言ってねぇで帰りやがれ、テメェがいたら仕事にならねぇんだよ」
「別に今だって仕事してねえだろ、いいじゃねぇか邪魔する訳じゃあるまいし」

机に肘をつきながら、あくびを一つした。何の魂胆かティキはこの場を動こうとしない、面倒だと言い訳して帰るのを拒否しているように見える。
理由を聞こうとしても適当に話を濁されるし、正直これ以上ティキと同じ空気を吸っているのも嫌だ。ここに放っておいていいなら既にそうしている。部下に押し付けたくても出来ないのは、今この場に神田しかいないからだ。

「なあ、ちょっと聞きてえんだけど」
「・・オレに話しかけんな」

目を剥いて睨みつけるが、ティキはあまり堪えてないようで「おお、こわっ」と大袈裟に肩を竦める。
舌打ちし、神田は席を立とうと掌に力を入れるが、それだとティキに負けたような気がして。ぐっと拳を握り我慢した。
ティキは机に肘をついたまま視線だけ神田を見ると、何かを思うように眉を寄せて。

「お前んちのマリ、どっかに手ぇつけてる女とか・・いないの?」
「・・・・・・・・なに?」

思いもよらない名前が出て、神田はティキを見る。

「あの年だ、普通いるよな?」
「は?知らねぇよ、何くだらねぇ事聞いてやがる」
「お前、弟じゃねぇか。あの悟り澄ましたマリの意外な性癖とかも熟知してる筈だ、教えろ」

あくまで世間話のように振ってくるが、それにしては口調にこだわりを感じた。

「おい、テメェが不道徳だからって、マリを同じレベルで語るんじゃねぇよ」
「だってよ、今まで浮いた話の一つもないんだぞ?おかしいだろ。上手く隠してるか、はたまた男色家・・」
「殺すぞ」

六幻を持ち鍔音を立てる。

「いや、冗談だ。うんオレが悪かった。そんなこと思っちゃいねぇから」
「ちっ」

不愉快ここに極まれり、と神田は舌打ちの他にも苦々しいため息をついた。これ以上会話していたら、また昨夜のような事をやらかすかもしれない。
そうなったら今度はマリでなく、養父のティエドールの世話になるかもしれない。それだけは避けたかった。

「でもお前さ、マジで知らないの?マリのその手の話」
「しつけぇぞ、よっぽど六幻の錆になりてぇみたいだ・・・あ?」

急に思い出した。出掛けにあったマリへの手紙。ティキの妹で、たしか『不幸姫』とかいう物騒な女から。

「おい、どうした?何かあんのか?」
「・・・・・」

そういうことか、と得心する。ティキはきっと嫁き遅れのの妹とマリの縁組を考えているのだ。だから、さっきからマリの事を探っているのか。その事に気づくと、神田は片眉をくっと上げて腕を組む。こいつに一言いってやらねばと、口をへの字に曲げて。

「こっちもテメェに、いやテメェらに話があんだ」
「は?何だよ」
「何だよじゃねぇ、魂胆はお見通しなんだ。おまえの妹だよ、妹」

妹、という単語にティキは反応し、頬杖から顔を上げ神田へ向けた。

「どういう意味だ」
「言っとくがオレは反対だからな、テメェらと縁続きになるなんざ御免だね」
「・・急に何言ってんだ?」
「しらばっくれんな、こそこそ手紙なんざ寄越しやがって。ふざけんじゃねぇぞコラ」
「・・・・・・手紙?」
「テメェの妹だろ、マリにまとわり付くんじゃねぇって言っとけ」

ティキが一瞬呆けたように、口を開けて神田を見たが、じわじわと何かを悟ってきたらしい。
「ああそう」と一人呟いた声は、さっきまでと違い底冷えするほど冷たく、その目は憤りの色を見せていた。
机に手をついて、重たそうに腰を上げると。

「帰る。馬、貸りるぞ」
「あ?なんだいきなり・・」

まだ言い足りない神田はムッとしつつティキを睨むが、当のティキは何やら苛立った様子で。扉を強く閉めると、神田と目を合わせることもなく、部屋から出て行ってしまった。

(なんだ、あの野郎)

あれだけ帰れと言っても帰らなかったくせに、人の話の途中に帰るとはどういう了見だ。神田としては、もっと強くマリとティキの妹との縁組を拒否するつもりだったが、その気持ちを途中で折られたような気分になった。


◆◇◆


「なんだ、まだいたのか」

そろそろ寝ようかと支度をし始めたマリは、コムイの存在に呆れたように言った。

「帰ろうかと思ったんだけどね、叔父さんとの話が盛り上がっちゃって。今日は泊まることにしたんだ」
「リナリーがこっちに越してきてからそう言うのは何度目だ、このままお前も引っ越してくるんじゃないか?」

苦笑しながら言うと、コムイは「それもいいねえ」と呑気に言う。
半分本気なのだろう、住んでる邸から私物を持ち込んで、リナリーの側部屋を占領しつつあるのを知っていた。

「だって、リナリーが入内したらこうやって会う事も少なく・・いや、滅多にないんだよ。離れて暮らすのにもまだ慣れないのにさ」

はああ・・とため息をつき、コムイはがっくりとうなだれる。

「そんなことを言っても、お前だって認めたんだろ?東宮妃の件は」

マリはコムイの愛情の方向性に、いまさら何か言うつもりはないが、
この『超』がつく程のシスコンが、よくぞリナリーの入内を一度でも許したと、実はずっと不思議であった。

「・・・・・まあね、リナリーの強い希望に結局折れたのは僕だけどさ。兄妹二人だけの幸福な生活を、泣く泣く諦めたあの時の気持ちは今でも筆舌に尽くしがたいよ」
「そ、そうか・・」

どうやらコムイは少々酔っているらしい。近づいた顔から微かに酒の匂いがして、マリは珍しく思った。コムイは普段はあまり飲まない方だから、父であるティエドールとの話がよほど弾んだのだろう。

「あの時は、リナリーへ求婚の手紙が毎日引きもきらず、僕が片端から処分してたけど、女房に言づてする輩も出始めて大変だったんだよ」
「ああ、言っていたな・・うん」
「うっかり女房がほだされて、僕がいない時に手引きするかもしれない・・そんな事を考えたりしたら心配で心配で、ホントに出仕も行きたくなかったよ!」

思い出し怒りか、歯ぎしりしながら拳を震わせる。

「・・・・・」

そんな様子をマリは黙って聞いているが、実際リナリーに張り付いていたコムイを、何とか出仕させたのは自分である。その時の事を思い出し、マリはやや苦い顔で笑った。随分手こずったものだから。

「入内するならそういう輩を一蹴できるだろ?それに、リナリーも心変わりするかなぁ・・って、時間稼ぎにもなるし」
「今のところリナリーは、心変わりはしてないようだが」
「・・・そうなんだよ、今朝も僕に宮中でのシキタリとか、東宮の人柄とか聞いてくるんだから・・もう気持ちは焦るばかりさ」

さらに深いため息をついたコムイは、急に何かを思い出したように、顔を上げた。

「あ」
「・・なんだ?」
「そういえば・・・ミランダ姫も昔、入内の予定があったんだっけ・・」
「は?」

ミランダの名前に、マリは僅かに動揺する。

「あの噂が急に広まったから入内の話ごと流れたんだ・・てことはリナリーにも・・そんな噂があれば」
「コ、コムイ?」
「あああ、ダメだ!そんな噂が広まったらリナリーがかわいそすぎる!」

誘惑を払うようにコムイは頭をブンブン振り、顔を覆う。
酔っていてもその辺は冷静でよかった、とマリは胸を撫で下ろす。
リナリーにしつこく手紙を送ってきた青年貴族を、闇討ちしようと計画していたコムイならやりかねない。

「そういえばマリ、安心していいよ」
「何がだ?」
「ミランダ姫は、ちゃんと『普通』の女性みたいだ」
「・・・・・・は?」

マリはポカンと口を開けて体が固まる。理解するまでに時間を要した。

「ええと・・コムイ?それはどういう意味なんだろうか・・」
「ああ、今日来たミランダ姫の使いから聞いたんだ。フェイくんていって、美人なんだけど気が強くてさ」
「いや・・使いの女房のことじゃなくて、その・・ミランダ姫のことを聞いたのか?その女房に・・」

おそるおそる聞くと、コムイは何のためらいもなく「うん、聞いたよ」と頷いたので、マリは何だか軽い目眩を覚えた。何なんだ、その唐突な思い込みは。マリ自身の気持ちも定まらないというのに、なぜこうも周りが先んじているんだ。

「・・でもさマリ、前から思ってたんだけど」
「?」
「ミランダ姫の噂って、結局は彼女を熱烈に思う誰かが・・広めたんじゃないかな」

ふいに真顔になったコムイを、マリは怪訝な顔で見た。
いきなり何を言う、という思いもあったがコムイの言う熱烈な誰か、というのがマリには理解できなかった。

「どういう意味だ?」
「きっとミランダ姫を誰にも渡したくなかったんだよ、だからあんな噂を流した・・と思うんだけど」
「いや、それなら自分がミランダ姫に求婚すればいいだけじゃないのか?その考えは歪んでいるぞ」
「だから、それが出来ない人なんだよ。例えば身分違いとか・・とにかく障害があるんじゃないかな、僕の憶測だけどさ」
「・・・・障害」

なるほど、そういう考えも出来る。
『不幸姫』の噂自体マリはあまり興味ないが、誰がどんな目的で広めたのかは確かに気になった。
嫌がらせというなら、もっとおどろおどろしい噂でも良さそうなのに、考えれば骨折だとか気欝だとか、内容が少々お粗末に感じる。

「きっと、マリがミランダ姫と親密になるのも、その人にとっては面白くないだろうねえ」
「いや、だから・・わたしは別にそういう考えは・・」
「またまた、速攻で手紙の返事書いたくせに。」
「っ・・そ、それは」

動揺するマリをよそに、コムイは睡魔がきたのかあくびを一つすると、眼鏡を外し目を擦った。

「軽く飲んだせいかな、急に眠気がきたみたいだ。そろそろ寝るかな」

腕を伸ばし、ふわああ、と体全体で再度あくびしたコムイは「それじゃ」と軽く手を上げて、廂を歩いて行く。マリはなんだか目が冴えてしまい、床に入る気にまだならなかった。
茵(しとね)に腰を下ろそうとした時、懐にコムイの袱紗があったのをふいに思い出す。返すのを忘れてしまった。
まだそう遠くない所にいるはずだから、声をかければ間に合うのだが、マリはしなかった。ミランダの事を考えていると、そんな気になれなかった。袱紗に触れると、か細いあの声が聞こえるようで。

「・・・・・」

たぶん、これが『惹かれる』というものなのだろう。

まだ恋だとか、そんな段階ではない。ただ間違いなく自分はミランダ姫に惹かれているのが分かる。
あの噂の真相が気になったり、来た手紙を何度か読み返したり、彼女に触れた袱紗を手放したくないと思ったり・・・。

(熱烈な誰か、か・・)

コムイの憶測に過ぎないと分かっているが、何か引っ掛かりを感じた。嫉妬とかそういう類のものではない、既視感のような・・奇妙な感覚。

『好奇心なんてもんは、出さない方がいいぜ、何にせよ為にならんよ』

どうしてだろう、こんな時にティキの言葉を思い出すなんて。
確かに、あの時釘を刺されたような気がした。棘というか、ティキの声にある種の含みを感じた。

(・・・まさか、有り得ん)

マリはそこで考えるのを止めて、もう一度名残惜しげに袱紗を撫でたのだった。



◆◇◆


真っ暗な中、白い頬が浮き立って見える。すうすうと寝息が静かな部屋に響く。

ティキは寝台の傍らに座り、ミランダをじっと見下ろしながら面白くなさそうに眉を寄せていた。
馬を走らせ、邸についたティキはそのままミランダの部屋へ苛立つ足音と共に向かった。たたき起こし、きつく仕置きをしてやろうと、鼻息荒く乗り込んだものの、当のミランダはぐっすり眠りこけて起きる気配がない。
よほど熟睡しているのか、名前を呼んでも髪を引っ張っても、突いても抓っても反応はなく。寝息が聞こえていなければ、死んでいると思いそうなほどの熟睡だ。

「・・・・おい、まさか狸寝入りじゃないよな?」

両頬をつかみ、ぐいいと引っ張るが「んん・・・・」と微かなうめき声を上げるだけで、放すとフニャフニャと元通りである。
ティキはぶつけようのない怒りを持て余し、苛立ちから寝台ごとミランダを放ってやろうかとも考えたが、
ミランダの寝顔を見ているうちに、それをする気が無くなった。

(なんつうマヌケな顔で寝ているんだ、コイツは)

口をだらしなく開けており、今にも「あ」と言いそうだ。さっきからティキが指で閉じてやるが、すぐに開いてしまう。
子供の頃からの癖だった、夜着の袖をギュウと握りしめて寝るのは今も同じらしい。鼻はヒクヒク動いて、まるで犬みたいだ。

「・・・・・・」

あぐらをかいて肘をつき、ティキはまじまじとミランダを見る。

本当なんだろうか・・・ミランダがマリに手紙を出したというのは。

人見知りで怖がりで愚図で頭のネジが足りない妹。
これといった取り柄もない。ティキの知るミランダが、そんな事を出来る女ではなかったはずだ。

(まさかあの神田って野郎、俺を騙したんじゃねえよな・・?)

見た所あの男は単純そうだし、そんな芸当が出来るとも思えない。昨夜ちょっとからかっただけで抜刀してくるくらいだ。

(やっぱり、あのフェイってのに唆されたとしか・・)

と、考えている最中。
ミランダの鼻が、何かにつかえたのか『スピー・・』とこれまたマヌケな音を立てるので、考えもまとまらずティキはため息をつく。
スピスピと鳴る鼻をつまむと、ミランダはフガフガと鳴くばかりで、放すと元のヒクヒク動くだけに戻った。

「・・いらいれすぅ、ヒィキおにいさま・・」
「ん?」

どうやら寝言らしい。まだむにゃむにゃ言っているが、もう聞き取れなかった。
相変わらずどうしてこうも緊張感のない女なんだろう、ティキはなんだか毒気を抜かれたような気分になり、肩の力が抜ける。

「・・おまえ、マリのこと気になってんの?」

頬をツン、と突いてみる。もちろん反応はない。

開いた口を軽く手で塞ぐと、生暖かい息がティキの掌を湿らせる。唇の感触がどうしてか、なまめかしかった。当たり前のことだが、ミランダも女なんだと今更実感する。

「・・・・・・・」

首筋の白さが目に入り、ゆるんだ夜着から華奢な鎖骨が目に入る。
ティキの中で、ミランダはずっと貧相なイメージだった。痩せっぽちで、魅力の乏しい女だったのに、いつの間にか成長していたらしい。
想像する。ミランダが男に抱かれる姿を。
とてつもなく不愉快な気分に、ティキは眉間に皺を寄せた。その想像だけは我慢ならなかった。
ミランダは自分の物。昔も今もそれは変わらないのだ。他人にやるつもりは無い、これっぽっちも無い。

マリの姿を思い出し、あのデカイ体がミランダの上へのしかかるのが脳裏に浮かぶ。咄嗟に近くにあった几帳を腕で払い、ガタンと音を立て倒れた。黒く澱んだ気持ちがとぐろを巻いて、気づくとティキは、ミランダの上に覆いかぶさっている自分に気づく。

(・・・・なにやってんだ、俺)

実の妹を襲うつもりなのか自分は。いや、そんな気はない。
この気持ちは何なのだろう、焦燥感に似ている。ミランダと自分の間に距離が出来ていく、いつも側にあったものが知らぬ間に消えていくような。

面白くないのだ、とてつもなく。

寝ているミランダの上に被さりながら、細い首筋に顔を埋める。
くんくんと匂いを嗅ぐと、甘い餅みたいな香りがしてティキは緩く唇を上げた。安心して体から力が抜ける。

(いい年して、ガキみたいな匂いしてんだな)

そう思いつつも、この匂いが昔から好きだった。
ゆっくりと顔を上げるとミランダはまだ夢の住人で、相変わらず口を開けている。

(・・・コイツ、毎晩口開けてんのか?)

虫でも入ってくるんじゃないだろうか、そんな事が頭をよぎりまじまじと口の中を覗く。明かりが無いからよく見えない。


「・・もうっ、やるならやっちゃいなよぉ」

「ぶ!!」


背後から聞こえた声に、さすがのティキもビクンと体を震わせる。
妻戸を半分開けて覗き込んでいるのは、姪のロード。口を尖らせながらも、その目は楽しそうにティキを見ていた。




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