D.gray-man


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ゆるやかに立ち上るスープの湯気は、食堂の喧噪に紛れるように消えていく。
琥珀色の液体はジェリー渾身のコンソメスープで、ついさっきリナリーがおかわりをしに行ったのが見えた。
ミランダは軽く持ったスプーンでスープをすくう。けれどそれは口に運ぶことなく皿の中へと戻った。パンを食べようと一口ちぎる、けれどそこで動きは止まり、側にあったコーヒーカップを取り口に含む。
さっきからこの繰り返しだ。再びスプーンをスープに泳がせながらミランダは、誰にも気づかれないように微かな息を吐く。

頭がうまく働かない。体も、また。

消そうとしても頭から離れない。本当にあれは現実だったのだろうか、夢でも見ていたのではないだろうか。そう思うことに願望が含まれているのは確かで、同時に現実なのだということもミランダは実感していた。
ひりつく手首の感覚、枯れ草の匂い、後ろからのしかかられた時の重み、すべてが生々しく記憶している。そして・・・今も感じる下半身の違和感。

「・・・・」

忘れなければ、と思う。
ミランダは冷めたコーヒーを飲みきると、食事を終えて立ち上がった。いつも小食のせいか残していることを不審に思われることなく、トレーを下げて食堂を出た。
歩くだけでも緊張してしまう、聡い誰かに見透かされそうで。歩き方で、歩くスピードで、いつもと違うミランダだと誰かに気づかれそうで怖かった。



今日は幸せな午後になるはずだった。

リナリーやアレンとお茶をして、その後にラビに散歩に誘われた。
胸が甘く鳴って恥ずかしいくらい即答で応じた自分に、ラビも嬉しそうに笑ってくれて。秋も深まっているというのに穏やかな天気の今日は、ショールがなくても温かかった。
裏庭の楓はまるで彼の髪の色みたいに赤く色づいて、一枚拾い「ラビくんの色ね」と言うミランダに「オレはこっちの色のがいいさ」とさらに色が深まったこげ茶の葉を見せてくれた。それだけのことが本当に嬉しくて、ああ自分は恋をしているんだと実感した。
明るくて頭も良くて素敵な彼が、自分のような女を相手にするなんて思っていない。ただラビを見ていられればいいのだ。翡翠の瞳に自分の姿が映る、それだけのことが無常の幸せなのだ。

一時間ほどした頃だろうか、科学班の一人がラビを探しに来た。団服の冬用コートの採寸らしい。
どうやら前からの約束をラビが忘れていたようで「あー・・そっか、そうだった」と申し訳なさそうにこちらを見たので、ミランダはあわてて首を振った。

「気にしないで、あの、私も・・えっと用事があったはずだから」
「そうなん?」
「ええ、だから気にしなくても大丈夫よ」
「・・・・そんじゃさ、オレ採寸終わったら図書室にいると思うから、ミランダも来たら?」
「えっ」
「んじゃ、待ってるさ」

開いた口から白い歯がのぞく。胸の高鳴りが余韻のように耳に響いて、ミランダは知らずに微笑んでいた。
カサカサと枯葉が踊る音を聞きながら、彼が裏庭から去って行くのを見る。紅く色づいた楓のようなラビの頭が遠退いて消えるまで、足はそこから動かなかった。

どれくらいそうしていたか。ヒュウと冷たい風で髪が舞い上がり肌寒さを覚えた頃、ようやくミランダは歩き出した。彼が来るだろう図書室へと。
その時だった。背後に得体の知れない、なにか不思議な存在を感じて足を止める。それは視線だったのかもしれない、ぞくりとした感覚にミランダは思わず振り返ってしまった。
目と目が合った瞬間、体中が縛られているかのように動けなくなる。黒い髪、金色の瞳、人とは思えない肌の色。そして、額にあった聖痕。

『ノア』だった。名前は、たしかティキ・ミック。

思考と体が固まり、息をするのも忘れた。逃げようと考える暇も無く掴まれた腕、首へと伸ばされた手。
そこからの記憶は断片的で。何を言われたのかも、どうされたのかもよく思い出せない。どうしてあんなところに彼がいたのか、なにが目的だったのか。あまりにも曖昧で、感覚的なことしか覚えていない。

頭部を地面に押さえつけられ頬に枯れ草が摩れる。冷たい指、うなじを這う生温かい舌、声も出ないほどの激しい痛み。
揺さぶられる視界、白い息。耳元に感じた含み笑い、そして・・・「愛している」と囁いた声。

愛しているよ、と言ったのだ彼は。ミランダが痛みと衝撃で涙を流していたその耳元で。とろけるように甘く、優しい声で。
暴力的な行為のさなかで、その声だけは染みるように胸に響いた。



「ミランダ」

食堂を出てすぐ、ラビに声をかけられた。

「!・・ラビ、くん」
「ようやく会えた。どこ行ってたんさ?図書室にも来なかったし、あ、もしかして迷子になってたとか?」
「あ、あの・・ごめんなさい、その」

にこやかに笑いかけられ、胸がざわめく。ときめきといったものではなく、後ろめたさと恥ずかしさと、恐ろしさで。
鋭い翡翠の瞳に自分がどう映るか怖かった。きっとぎこちなく硬い表情に違いない、聡い彼はそれだけで不審に思うだろう。普通にしていようとしてもそれも出来ず、ミランダが目を逸らすと偶然女子トイレが視界に入った。

「ラビくん・・あの、ちょっと・・その、お手洗いに・・」
「あ!ごめん、呼び止めちまった?」

もじもじしているミランダに、ハッとしてラビの顔もうっすら染まる。そして気まずそうに笑うと、廊下の先にある談話室を指差して。

「さっき図書室で、ミランダに前話した本見つけたんさ。だから・・後で、渡そうと思うんだけど・・大丈夫?」
「ええ、あの・・あ、後で行くわ。ありがとう、ラビくん」

青い布地に金の刺繍が入った本を見せて、ラビは談話室へと歩き出す。その後ろ姿を見送ることなく、ミランダは女子トイレへ入った。
すぐに手洗い場の鏡へ向かう。自分がどんな顔をしているのか見たかった。さぞかし引き攣った、血の気のない顔をしているのだろうと想像していたが、そこにいたのは普段の自分だった。
いや、普段よりも赤らんだ頬と熱を帯びた瞳。ミランダは、それがラビに会ったからではないことに気づいて、愕然とした。

(―――私・・・どうしたの?)

鏡の前の自分に問いかける。
あんな強引な、酷い行為。許せるはずはない、唐突で、いたわりの欠片もない行為だった。しかも相手はノアだ、ミランダには敵だ。戦わなければならない相手だ。
嫌だったはずだ、痛くて苦しくて、早く終わって欲しくて。目を閉じながら忘れることだけ考えていた。それなのに・・・

『愛しているよ』

あの一言がなければ、ここまで気持ちが乱されることはなかった。
甘い囁きは、最中のミランダの脳を痺れさせる。そんなばかな、と思いながらも彼に「求められている」と錯覚してしまった。

蛇口をひねると、冷たい水が溢れた。両手で掬い上げ静かに頬を濡らすと、冷たさに目を閉じる。
どうかしている。あまりにもショックな出来事すぎて頭がどうかしてしまったのだ。落ち着こう、そう落ち着くのだ。冷えた指に温度が戻る、ミランダはゆっくりと瞼を開きもう一度鏡を見る。
その時、あるべきものがないことに気づいて目を瞠った。

「!・・・・」

手を、首から胸へと慌しくまさぐる。ない、あの馴染んだ感触の物がないのだ。ミランダにとって分身とも言える大切な物、今は違う形に姿を変えてしまったが、その存在は無くてはならぬ親友のようなもの。


(ない・・・・・螺子が、ない)


ずっと首からさげていたはずだ。外したりなんてしない、落としたのだろうか。けれど落としたのだとすれば、どこに・・?
顔から血の気が引いて、洗面台を掴む。心臓が嫌な予感にばくばくと動き出した。螺子を失くした事もそうだが、ミランダには失くした場所がすぐに浮んだのだ。

「まさか、うそ・・そんな」

ハイネックの首元を指でめくると、息を飲む。うっすらと赤い線がついている、指でなぞると微かな痛みが走った。間違いない、これは無理に引き千切った痕。
両手で口を覆う、あの男だ。ティキ・ミックが取ったのだ。意図は分からないが、あの行為の最中に奪われたのだ。

ミランダは衝撃に立ち尽くす。目の前が歪んで、鏡の中の自分が見えなくなった。酸素が足りなくて、視界が白く濁った。






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