草木も眠る丑三つ時。空は真っ黒に染まっており、金色に輝く月がぷっかりと浮かんでいる。辺りは時折風に吹かれた木々たちの揺れる怪しい音だけが静かに響く。こんな夜には不思議な事が起こるのだ、と誰かが歌っていた気がする。ありふれた東京の下町にだって不思議なことは起こるのだろうか。宮下はぼんやりと考える。しがない時計屋を始めてから20数年が経とうとしているが、今までそんなこと一度もなかったけれど。煙草の灰が静かに灰皿に落ちる。 その時までは。 その小さな扉が叩かれるまではそう思っていた。 「…ん、」 鉛のように重い瞼を開けると余り目には入れたくない太陽の光がヨシュアを包んだ。 何処だろうか、ここは。 見慣れない天井と壁。それから久々の布団の感触。驚いて体を起こすとそこは多分、見知らぬ誰かの部屋だった。 「…どこ、ココ」 昨夜の事を思い出そうとするが、さっぱり思い出せない。寒さと空腹で倒れそうだったのは覚えているのだが、どうやってこの部屋まで来たのかがすっぽりと抜けていた。もしかしたら、本当に倒れてしまってそこを保護されたのかもしれない。それならば、この部屋の主がいるはずだ。そう思い、部屋を見渡すとヨシュアが寝ていたベッドの下の畳に布団でいびきをかいている一人の男性を見つけた。 「あ、のっ」 気持ち良さそうに眠っている男に声をかけてみるが反応はない。そのあとも2、3回声をかけたが起きる気配は全くなかった。仕方無くぺちぺちと髭が生えている頬を叩いてみると男は「んがっ」となんとも間抜けな声を上げて目を覚ました。 「あ、あのっ、あの…」 「…んん〜…?…きみ、だれ?」 「えっ」 ベッドの方が布団よりも上にあるため自然とヨシュアが男を見下ろす形になってしまう。見下ろされている男は一回眠たそうな目をぱちくりさせた後、思い出したように「ああ、」と呟いた。 「もう、体は平気?吸血鬼くん。」 どきん、と胸が飛び上がった。 「なん、で」 わなわなと唇が震える。 どうしてこの人は知っているのだろうか。 ヨシュアはペロリと自分の鋭く尖った八重歯を舐めた。 「もしかして」 「昨日はびっくりしたよ。」 目の前の男はにへらにへら笑いながら首筋を見せてきた。白いTシャツを少し横にずらすとそこには赤い歯形が2つぽつんぽつんとついている。 「血をください、なんて言うもんだから。」 そこは久々の鉄の味が広がっていた。 色白を超えて青白い肌、人の肌を貫き血を吸いとるための鋭い八重歯、そして真っ赤な瞳。吸血鬼の特徴だ。ヨシュアも青白い肌と鋭い八重歯を携えている。だが、瞳は真っ赤ではなく青色をしている。それはヨシュアが吸血鬼と人間のハーフだからである。そのため太陽の光は当たりすぎても体に異常が出るが死にはしない。ニンニクも好き嫌い程度。十字架はあまり向けないで欲しい。血は飲んでも飲まなくとも生きていける。ただ、やはり、吸血鬼の血は流れているため血は大好物だ。体が弱っているときに血を飲むと回復する。今回もその影響で血を求めてしまったのだろう。ヨシュアは小さな机の前で肩を落とした。もう、血は飲まないと決めたのに。人間として生きていくって決めたのに。 あのあと、ショックで言葉が出なかったヨシュアを男、宮下に引っ張られるように小さな机の前に座らせた。朝御飯は食べなくちゃいけないよ、と宮下は言うとさっさとどこかへ行ってしまった。隣から何か切る音が聞こえるから多分朝食を作っているのだろう。しばらくすると良い匂いと共に宮下が現れた。 「朝御飯、ほうれん草のバター炒めでいい?」 「あ、お構い無く。」 「あっそれともやっぱり血が良かった?」 「結構です。」 「あ、そう。」 ヨシュアがきっぱり断ると宮下は心なしかつまらなさそうな顔をして机にほうれん草のバター炒めと白飯をヨシュアの前に並べた。良い匂いはバター炒めかららしい。バター炒めに箸を伸ばし一口口に入れると宮下が心配そうに「どう?」と聞いてきたのでヨシュアは黙って頷いた。 「良かった。吸血鬼も普通の飯食べるんだな。」 「…吸血鬼じゃないです。」 「あ、秘密なの、吸血鬼って。」 「そうじゃなくって、本当に吸血鬼じゃないんです。ハーフなんです。吸血鬼と人間の。」 白飯をかきこみながらヨシュアがそう言うと宮下は驚いたようにヨシュアを見つめた。その気まずさに宮下から目を逸らす。斜め上からは「はーん」だの「ふーん」だの物珍しそうな声が聞こえた。これだから日本人は嫌なんだ。ハーフっていうと直ぐ珍しいものを見るように僕を見る。 「あの、」 「かっこいいな、吸血鬼と人間のハーフなんて。あんまりいないよ。そもそも吸血鬼があんまりいないけど。」 宮下の予想外の言葉についつい宮下の方を見やるとそこにはにこにこと優しく笑う宮下がいた。 かっこいいなんて初めて言われた。吸血鬼をかっこいいなんて言う人あまりいないし。この人、ちょっと変な人なのかな。いや、そもそも見知らぬ吸血鬼に血をくれと言われてあげちゃうような人だ。変な人に決まってる。変人だ。 「…変わってるって言われません?」 「あまり人とはなさないからな。分からない。」 ほら、変な人。 なのに、どうしてだろう。この人にかっこいいって言われると何だか嬉しくなる。 ぞくりと昨日飲んだ血の味が口の中に広がった。 続くかもしれない。 |