▽スイミー

「いちートイレットペーパー無くなったあ」
 ズボンとパンツを足首まで下げた状態でそう叫ぶと何処からともなくへったくそな魚の描かれた青いエプロンの彼がトイレットペーパーを持ってやってくる。
「はい、トイレットペーパー。あのさあ、これくらい自分で持ってきなよ。」
 青いエプロンの彼こと一弥は眉間に皺を寄せながら乱暴にトイレットペーパーを渡してきた。そんな一弥に苦笑しながら俺はトイレットペーパーを受け取る。だってパンツ汚れるの嫌なんだもん。
「いつも悪いねえ。」
 トイレットペーパーを設置した後、芯を渡そうとしたら持っていた手のひらを叩かれた。
「それくらい自分でやれ。」
 そう言って俺を見下ろす一弥の目の怖いこと怖いこと。その目は仮にも恋人に向けても良い目なのかと思う。俺は仕方無く伸ばした手を引っ込めた。
「ケチ」
「当たり前、だっ!」
 俺の言葉が余程頭にきたのか一弥は力任せにトイレのドアを閉めてもといた場所へと戻っていってしまった。俺は真新しトイレットペーパーで綺麗に拭いたあと芯を持ってトイレから出る。リビングに行くとぶおおんっという掃除機の吸引音が部屋一杯に広がっており、その中で一弥が走り回るようにせっせと忙しそうに掃除機をかけていた。
「…戦ってるみたいだね。」
「あー、忙しい!!」
 一弥は「一弥」と書いて「いちや」と読む。それから俺の恋人。大学を出て社会人になった俺がずっと片想いをしていた一弥に「俺に毎日味噌汁を作ってください。」と告白したら「じゃあ、養って」ということになりめでたく付き合うことになった。そして今は中小企業に勤めている俺と主夫になった一弥の二人でこの小さなアパートで同棲している。多分、男女のカップルだったらここまできたら普通結婚へと繋がるのだろうけど男同士の俺たちにはそれが出来ない。まあ、それでも一緒にいられることに変わりはないのだから俺は充分幸せな毎日を送っている。

「あー、疲れた。」
 ソファに座りながら最近買ったばかりの3DSをやっていると隣に一弥がどさりと座ってきた。
「よっしゃーサメ釣れたー」
「高く売れんじゃん。」
 賑やかなBGMがゲーム機から流れてくると一弥が興味を持った顔で画面を覗いてくる。その為に一弥の体全体がぴたりと俺の体とくっつく。緑色の一弥お気に入りのトレーナーと青いエプロンが視界にちらりと入った。
「エプロン取んないの?」
 俺がそう聞くと一弥は一瞬エプロンに目を向け、「なんか、落ち着くから。取んない。」と答えた。そして画面をまた覗き込んで「またサメじゃん!」と言った。
 何匹か魚を釣り上げた所で3DSを一弥と交代する。残念ながら今の我が家に3DSを2台買う余裕はない。3DSは俺と一弥で交代交代で使うことにしている。と、言っても専らゲームをやるのは俺なのだが。
 ゲーム機からザザーンとよく作られた海の音が流れてきた。画面の中はオレンジかかった空と真っ青の海が広がっている。
「海、行きたいなー」
 一弥が下手くそな操作をしながらそうポツリと呟いた。
「え?今、海エリアじゃん。」
「そっちじゃなくて、リアルの方。」
 ぽちゃん、とサメが釣りざおに引っ掛かった。
「あーそっちな。いいな、海。」
「うん。いいでしょ」
「行くか。」
「え?なに?今、話しかけないで」
 勢いよくソファから立ち上がる。そのソファの反動でAボタンを押すタイミングがずれてしまったのか一弥のサメは真っ青な海の中に消えていってしまった。
「あー、もう。逃がしちゃったじゃんかよー。」
 あーあ、と落胆している一弥の腕を掴む。近くにハンガーにかかっているジャンパーを被せ、俺は一弥の腕を引っ張った。
「…え?」
 何が起きているのか分からない一弥を無理矢理車の助手席へと乗せる。その間も「え、なに、ちょ、弥太郎?」と戸惑っている一弥を無視して俺も運転席へと乗り込んだ。
「何なんだよ、弥太郎!」
「行くぞ。」
「はあ?どこに?」
「海。海、行くぞ。」
 ブルン、と車のエンジンがかかる。飛ばせば暗くなる前に海に着くかもしれない。俺はアクセルを一杯に踏んだ。

「良かったーまだ夕日あるぞーいちー」
「今にも沈みそうだけど。」
 人、一人としていない海岸。地平線の向こうには3分の1も出ていない夕日の頭。ぴゅうと吹く風が肌寒く感じた。
 急いできた海はゲームのようなきれいな海ではなかった。秋と冬の間の季節の海は何とも言えない切なさがただどこまでも広がっていた。ザザーンという波音も圧迫感を感じる。
 俺はざくざくと色んなものが落ちている砂浜を歩いていき水内際まで行く。ぱしゃりと海水が靴にかかった。
「サメ、いないな。」
 いつの間にかに一弥が隣に立っていた。ちらりと横を見ると青いエプロンが風に揺れてぱたぱたとはためいている。
「エプロン」
「ん?」
 俺がそう呟くと一弥はこちらに顔を向けた。青いエプロンに描かれた魚も一緒にこっちを見てきた。
「それ。そのエプロン。」
「あー、これ?弥太郎から貰った魚のエプロン。」
「覚えてたんだ。」
「あったりまえじゃん。」
 一弥が毎日のように着けている青い魚のエプロンは俺が一弥と一緒に住むと決めたときに買ってあげたエプロンだ。家事をやるのに役に立つようにと。
「海みたいだよな。このエプロン。」
 海が好きな一弥に似合うと思って選んだエプロン。
「うん」
 朝起きて一番初めに見るのはこの青い魚のいるエプロンを着ている一弥で家に帰ると青い魚のエプロンで出迎えてくれる。
 それが幸せだった。俺があげたエプロンを一弥が着ていてくれていることが嬉しかった。しかし、それは逆に一弥が毎日休まず家事をこなしている証拠でもあった。
「オレ、このエプロン気に入ってる。」
 黙って隣にいる水仕事の所為でカサカサになっている一弥の手のひらを握りしめた。
 大丈夫。大丈夫。俺が幸せだと感じていた毎日は一弥も幸せだったのだ。
「弥太郎、海に連れてきてくれてありがとう。」
 青いエプロンを着ている一弥を見る度に無理をさせているのではないかと思っていた。俺の所為で休みなく家の仕事をしているのではないかと。しかし、家事が一切出来ない俺はついついなんでもしてくれる一弥を頼ってしまう。さらに一弥に甘えてしまうのだ。そんなことをしているうちに青いエプロンを見ると後ろめたい気持ちになるようになった。せめて、家事をしていないときはエプロンを取ってほしいと思うようになっていた。
 でも、そんなことはなかったらしい。
 ぎゅう、と握り返してくる手のひらの強さがその証拠だ。
「いち?」
「…んだよ。」
「大好き」
「…んー」
 ザザアン、ザザアンと海は白波を立てている。オレンジだった空はいつの間にかに真っ暗に染まり所々に星たちが散らばっていた。
「帰ろうか。」
「おう。」
 青いエプロンの君と青いエプロンに甘えてしまう俺の、俺らの家に帰ろう。
 繋がっている手のひらのぬくもりが幸せに感じた。




end





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