▽死にたがり

 ドンッと鈍い音がした。
 俺は一瞬何が起きたのか分からなかったが乗っていた自転車の真下で大の字に倒れているその人を見て自転車から飛び降りた。
「大丈夫ですか」
 何かしら声をかけなくてはと思い在り来たりな言葉を伸びている男の人にかけてみる。体も揺さぶってみたが男の人はピクリとも動かない。目はしっかり開いているのだが黒目は真上しか見ておらず瞬きさえしなかった。
 ああ、もうこれは。と嫌な考えが脳裏に思い浮かぶ。自転車とはいえ人を轢いてしまった事実に自分の顔から血の気が無くなっていく。大学、退学になっちゃうかな。バイトもクビだろうな。その前に母さんになんて言おう。泣くかな。泣くだろうな。自分の息子が殺人者だなんて。動かなくなった人を見下ろしながらそんなことを考えていると突然足元からはっきりとした滑舌のいい声がした。
「死ねますかね」
 最初は死体が喋ったと思った。その証拠に俺は「ぎゃっ」と情けない声を上げて自転車のハンドルを離してしまった。ガシャンと自転車が倒れる音と「ぐえっ」と悲鳴が聞こえる。とどめを刺してしまった。
「とどめを刺しましたね」
 足に倒れた自転車を乗せながら死体はまた口を開いた。いや、よく見たら死体だと思っていたそれは死体ではなかった。小さな息づかいが聞こえる。男の人は「よっこらせ」と倒れた俺の自転車を退かしながらもう一度
「死ねますかね」
 と、聞いてきた。
 俺は男の人の端正な顔立ちを見ながら
「死ねないと思います」
 と、答えた。
 俺の答えに納得したのかしていないのか分からないが男の人は悲しそうに眉を下げながらどこかへ消えていった。
 これが俺とカズマさんとの出会いだった。

 それから2日くらい経った頃にまたぶつかった。あのときと同じように自転車の俺が歩いているあの人とぶつかってあのときと同じように大の字に倒れた。
 また、やってしまった。あのとき血の気が引く思いをしてもう二度と事故は起こさないと決めたのに。
 急いで倒れているその人の元に駆け寄る。今回はすぐに殺していないと分かった。男の人は黙って真上を見ていた。男の人の黒目は動いていないが青い空が映っており、そしてゆっくりと瞬きをした。
「死ねますかね」
「…死ねないと思います」
 また同じ質問をされた。

 それから男の人とよくぶつかる仲になった。よくぶつかる仲というのは自分でもよく分からないがとにかくよくぶつかる仲なのであってそれ以上でも以下でもない。俺たちはよくぶつかるのだ。
 ぶつかると男の人は必ず大の字に倒れ、俺は必ず男の人のもとに駆け寄っていく。そして真上を見ている男の人は
「死ねますかね」
 と、俺に聞き、俺は
「死ねないと思います」
 と、返すのだ。
 男の人がなぜそんな質問をしてくるのか俺には分からない。だが、もし男の人の言う「死ねますかね」が俺に自転車で轢かれて「死ねますかね」の意味だとしたら「死ねないと思います」しか返す言葉がない。なんせ男の人は生きているのだから。何回ぶつかったって生きている。生きているから最後にいつも悲しそうに笑いながら去っていく。

 ドンッと鈍い音がした。
 俺は急いで大の字に倒れている男の人のもとへ駆け寄った。そしていつもと同じように「大丈夫ですか」と声をかけようと思ったが、「だ」と言いかけて口を止めた。
「死ねますかね」
 男の人は変わらずそう言う。だが、変わっていないのは言葉だけだった。いつも真上を見ている男の人の黒目にはしっかりと俺が映っている。いつも空があった場所には俺がいた。
「…し、」
 どうして今日は俺を見ているんだろう。俺は黒目に移った俺を見ながらそう考えた。胸の奥の方に何かがつっかえたような苦しさを覚える。男の人の端正な顔はそれでも俺を見続けた。
「死にたいんですか」
 つい、いつもと違う返し方をしてしまった。しかし男の人はそんなもの元からなかったかのように口を開く。
「前はね。」
「前?」
「君とよくぶつかるようになる前。ずっと死にたかった。」
 男の人は優しそうな目を細めるとようやく俺を見るのを止めて視線を空にずらした。
「僕は空が好きだ。だから死ぬ直前は空を見て死にたいと思って空を見ていた。」
 真っ黒な男の人の目ん玉には白い雲と色のない空が映り込んでいる。
「でも、今日は君を見て死にたくなった」
 暖かくて大きいものが俺の左頬に触れた。それが男の人の手だと分かるまでに少し時間がかかった。どこかで男の人は冷たいものだと思っていた。いつも死んでいるような男の人しか見たことがなかったからこんなに暖かいとは思わなかった。なんだ、暖かいんだ。なんだよ、ちゃんと、生きているんじゃないか。
 触れられていない頬を涙が伝う。
「俺を見て死なないでください」
 彼は生きている。ちゃんと暖かい。
「ごめんね。君のことは見ないよ。」
 男の人はまた悲しそうに笑った。その顔が無性に悲しくなって腹立たしくなった。
「違います」
 俺は大声でそう言った。
「死なないでください。生きてください。俺と一緒に生きてください」
 悲しかった。こんなにも暖かい男の人が冷たくなってしまうことが嫌だった。
「死ねないです。ぜんっぜん死ねないです。死ねるわけありません。」
 涙と鼻水をだらだら流しながら間抜け顔でそう言う俺を見て男の人は苦笑した。そして暖かい手で俺の頭を撫でる。
「うん」
 目の前に大きな手を差し出された。
「起こして」
 俺はそれを黙って握って男の人を「よっこらせ」と起こしあげる。立ち上がった男の人は俺よりも10cmは高い背の高い男の人だった。
 手を繋いだまま男の人を見上げると男の人は笑った。優しく笑った。
「名前は?僕はカズマ。」
「俺は、梓」
 カズマさんは目を細めて笑う。彼は笑うと目がなくなるタイプのようだ。その顔は好きだなあと思った。
「ありがとう、梓くん」
 優しく抱きしめられると身体中ポカポカと暖かくなった。
「カズマさん」
 俺も暖かいカズマさんの背中に腕を回す。
「生きてる」
「うん」
「死ねないよ。」
「うん。死なない。」









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