35歳カフェ店長



エレベーターで3階から1階まで一気に降りていく。ピンポーンという音とアナウンスの甲高い声と共にゆっくりエレベーターの重い扉が開いた。少し急ぎ目にエレベーターを後にして、目の前にあるちゃっちい扉からマンションを出る。午前7時の朝日は柔らかく僕を照らしてくれる。んー、いい天気。ほんのり夏の匂いがする。そういや、今日から7月だっけ。僕はマンションの前で伸びをひとつしてもう何年も通勤し続けている道へと足を進めた。
マンションを出て同じ様な木が立ち並ぶけやき通りが終わりを迎えた頃。大通りとも小道ともどちらとも言えない中途半端な道の途中にぽつん、と淋しそうに、だけども目を引くように建っている一軒のカフェの前で僕は足を止めた。朝早いにも関わらず、手作りの木の看板に「営業中」と書かれたこのカフェは僕の朝飯を作ってくれる。
カラン、と扉の上部に申し訳なさそうにぶら下がっている鈴を鳴らしながら店内へと入ると、朝特有の気だるい香りとコーヒーの香りが充満していた。ああ、アイツの匂いだ。僕は手前に並んだテーブルや椅子を通りすぎ、店の奥にどっしりと構えるカウンターへと腰を下ろした。


「おはよう」


僕がそう声をかけると店の中に充満していたコーヒーの香りがより一層強くなった。原因はこの1つ増えたコーヒーカップだ。砂糖もミルクも何も入れていないブラックコーヒー。僕のオリジナルブレンド。いちばん好きな味。それが分かるのはこの世に一人しかいない。
カウンターの奥から眠たそうな声が聞こえた。


「おはよ」


眠たそうな声にぴったりな眠たそうな瞳と後ろでゆるく束ねている色素の薄い髪の毛が朝日に照らせれてキラキラ光っている。
カウンターの奥で優雅にコーヒーを啜っている男は、安住遥。このカフェ「Bitter & Sugar」のマスターだ。


「腹減った」
「オムレツとトースト。どっちがいい?俺的にはトーストのが作るの楽なんだけど」


そして、毎朝朝飯を作ってくれる僕の幼馴染み。
チビの頃からの付き合いで、気付いたらこんな歳になるまで一緒にいた。だからもういつどこでどんな風に出会ったかなんて思い出せないし、思い出そうとも思わない。不思議なことに小中高は勿論大学まで同じで社会人になり僕はサラリーマン、遥は自営業とお互いのなりたい職業が違い、そこでようやく別々の道を進むことになった。しかし、これが腐れ縁というのか何なのか。僕のマンションの近くに遥が店を出すことになり、職種は違えどまたこうして一緒にいることが多くなった。そしてついでだからと、毎朝僕の朝飯を作ってもらっている、という訳だ。
僕は遥に淹れてもらったコーヒーを一口啜る。うん、いつ飲んでも遥のコーヒーは美味しい。たまに自分でコーヒーを作ることはあるのだが遥のように美味いコーヒーを作ることは中々できない。遥は昔から料理が得意だったからなあ、ともう一口コーヒーを啜った。朝飯はオムレツとトーストか。どちらにしようかな。でも、まあ、遥の作ったものなら何でも構わないのだが。


「うーん、じゃあ、オムレツ」
「分かった。トーストね。ハチミツでいいよね。」
「……」


じゃあ、最初から聞くなよ。とも思うが、今更遥に何を言っても無駄なのはこの長い付き合いの中で重々承知だ。
遥は昔っからそうなのだ。やる気がないというか、どこか勢いに欠けるというか。
顔は整っている方だし、頭も良いし、運動だってできる。何事もそつなくこなすため周りからよく目を引いていた。そんなよく漫画とかに出てくる王道王子様の遥だが、決定的に王子様とは違うところがある。それがこのやる気のなさだ。
女子から「安住くんかっこいいー!これやってー!」といいところを見せるチャンスをもらおうが、男子から「安住頼む!助けてくれ!」と助っ人を頼まれようが全て「面倒くさいから嫌だ。」の一言で断るくらいのやる気のなさだ。カフェを開いたのだって、「会社行くのとか面倒じゃん。俺は俺のペースでやるから。」という理由で始めたのだ。だが、何事もそつなくこなすタイプのこの男。こうして立派な店を構え、見事「自分のペースで楽にできる仕事」に就くことができた。全くなんの取り柄もない普通のサラリーマンをやっている僕からしたら有り得ない話だが、知り合いに、しかも幼馴染みにまざまざと普通では有り得ないことを見せつけられると信じる他ない。現に今も、僕の目の前には美味しそうなトーストが置かれている。


「うおーうまそー」
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」


サクッとトーストを一かじりするとじゅわっとバターの香ばしい味が口一杯に広がる。ああ、やっぱり遥の料理は世界で一番美味いと思う。大した腕前なのにこんななんのへんてつもない町で、僕みたいな平凡な男に料理を振る舞っているのは凄く勿体無いと思うが、まあ、それがこの遥という男だから仕方がない。
そもそも遥のような人間が僕と幼馴染みであることが奇跡なのだから。
でもだからといって今更遥との関係をどうこう言うつもりもない。こうして、毎朝朝飯を食いに行ってたまーに夜に酒を飲んだりするこの関係にお互い満足しているのだ。

だから、これからもそんな平和でゆったりとした毎日が続くと思ってしまったのだ。


「そういうば、バイト取ることにした。」
「ほー。なんで、また」
「俺の仕事減らし」
「あーなるほどね。」


サクッと最後の一口を頬張り、もう完全に冷めたブラックコーヒーを喉に流し込む。もうそろそろ店を出なくては電車に間に合わなくなる。流石にこの年になって上司に遅刻で怒られるのは嫌だ。
僕は足早に席を立ち上がり、店に入ってきたように綺麗に並んだテーブルとイスには目もくれずカフェの扉を押し開けた。


「いい子が入ってくるといいな。」
「うん。いってらっしゃい」


店の冷気が一気に外へと繰り出す。7月上旬のカラッとした暑さが僕の体を包んだ。


「いってきます」


特別な君といる限り、普通だなんて有り得ないのに。
僕は今日もいつもと変わらない毎日を願っていたんだ。

遠くからカラン、と鈴の鳴る音がした。






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