20歳アルバイター



 木漏れ日が気持ちのいい並木道を抜けるとポツンと立っているカフェ『Bitter & Sugar』。俺は手書きで営業中と書かれた看板の前で大きく息を吸い込んだ。手のひらはじんわりと汗で濡れている。緊張するなあ。と頭のどこかで考える。ここで働くのが夢で、バイトだけど採用された時は飛び上がるほど嬉しかった。なのに、やっぱり不安は感じるものらしい。バクバクと音をたてる心臓を押さえつけ、金色の錆びた取っ手を捻った。からん、と小さな鈴が揺れた。ああ、今日からここで働くのか。
「いらっしゃいませ。」
 扉を開けるとここのカフェ特有のコーヒーの香りと憧れの人がそこにはいた。
 色素のない金色が揺れる度に言い様のない高揚に襲われる。俺はにやけてしまいそうな口許をなんとか引き締めながら口を開いた。
「今日からお世話になります、吾妻結翔です。よろしくお願いします!」
 そう元気よく挨拶をし、ペコリと頭を下げる。よし、第一印象はこれでばっちりだろう。コミュニケーション能力が高いというか物怖じしない性格で良かった。しかし、そう思ったのもつかの間だった。頭を下げた状態になってから幾秒か経ったが店のオーナーからは何も声がかけられない。あれ、俺、何かしちゃったかな。さすがに1分を過ぎた頃になると不安になってくる。嫌な汗がだらだらと流れてくる。それにずっとお辞儀をした状態でいるのもそろそろ限界がきそうだ。
 恐る恐る上体を起こしあげ、カウンターの奥にいるであろうオーナーの方へちらりと視線を向けた。
「…んーと、えー、と」
 すると、そこには何やら唸りながら考えている様子のオーナーがいた。顎に手をやり、眉間に皺を寄せている姿は何かを思い出そうとしているのだろうか。俺はお辞儀の体勢からカウンターのオーナーに近付き、ひらひらとオーナーの目の前で手を振ってみる。あのー、気付いていますか。しかし、それでも俺の存在に気が付かないというか、気を向けないオーナーに手を振るのをやめ、声をかけようとした瞬間。オーナーが何かを思い出したような顔をして俺を見た。
「君、バイトの子か。」
 ついつい、ぽかんした顔になってしまった。
「え、今、ですか?」
「あづー、まくんだよね。俺と名字似てる子。」
「あ、はい」
 無表情でそう言ってくるオーナーに愛嬌を振るのも忘れ俺も無表情で頷く。すると、オーナーはやっと合点がついたようににこりと笑った。
「俺、安住遥。まあ、見れば分かると思うけどここの店長ね。」
 胸がドキン、と鳴った。
 俺が『Bitter & Sugar』で働こうと思った理由。それは遥さん。遥さんに一目惚れをしたからだ。
「よーろしくね、吾妻くん」
 コーヒーの香りがゆっくりと俺の脳内にも染み始めた。

「えーと、一応制服のエプロンはこの奥の部屋にあるから。でもそんなに律儀に着なくてもいいよ、別に。俺も着てないし。あーそれから吾妻くんの仕事はメニューとることね。出来るよね?」
「はい、接客は前のバイトでもやってました。」
「じゃあ大丈夫だね。ん、説明終わりー。荷物置いてきなー。」
 遥さんはのんびりした口調でそう説明するとカウンターの小さな出入り口を開けて奥の部屋を指差した。きっとそこに荷物を置けということなのだろう。俺は小さく会釈をして指示された通りに奥のスタッフルームに向かった。白い扉を開けるといくつかのロッカーと棚が置いてある以外何も置いていない殺風景な部屋が広がっていた。俺はとりあえず入り口から一番近いロッカーへと近づいた。するとそこには『バイトさん』と手書きのネームプレートがつけられていた。かちゃりとロッカーを開けると、青いデニム素材のエプロンが2着かけられている。俺はそれを手に取り頭から被る。真新しい匂いがつんと鼻についた。それから乱雑にリュックサックをロッカーへと放り込み、俺は小さく溜め息をついた。
 まさか、自分のことを覚えていてもらえなかっただなんて。少しショックだ。面接の時もなるべく印象付けようと頑張ったつもりなのだが。まだまだということなのか。それにエプロンも律儀に着けなくていいだなんて。遥さんは俺のことあまりよく思っていないのかな。何を考えているのかよく分からない人だ。まあ、そのミステリアスな部分も惹かれた理由なのだが。
 はあ、と下を俯くとちらりと、エプロンの胸部分に書かれた『Bitter & Sugar』という白文字が目に入った。何はともあれ俺は今日から『Bitter & Sugar』の従業員なのだ。こんなことで落ち込んでいる場合ではない。遥さんと少しでも近づけるためにバイトを決めたのだから頑張らなくてはいけない。俺は自分で自分の頬をぱんっと叩いた。
「遥さんと仲良くなるぞ」
 そのためにここに来たのだから。
「吾妻くーん、まだー?」
 遠くから遥さんの呼ぶ声がする。
「はーい、今、いきまーす!」
 何もかも、今日から始まるのだ。

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