日が丁度よく差しかかる午後3時。
 松本八束は第2講義室で一人居眠りをしていた。
 90分前にここでは、もうそろそろ教授人生を引退した方がいいのではないかと言いたくなるくらい年の召した老教授による講義が行われていた。老教授の授業は今まで生きてきた年月を表すかのようにゆっくりで良い子守唄になる。そのため授業開始から30分で夢の中。
 そして、今もどうせ次の授業まで時間はあるので連続居眠り中という訳だ。
 ぽかぽかしている初夏の太陽はこんなに気持ちの良いものだと始めて知った気がする。ああ、いつまでもここで寝ていたい。次の授業もサボっちゃおうかな
「ねえ、起きて。」
 どこか、頭の中のどこか遠くから少女のような可憐な声が聞こえる。
「八束、起きて」
 今日は天気がとっても良いから妖精さんでも出てきたのかな。そう思ってしまうような可愛らしい声。
「起きろよ」
 ああ、可愛い妖精さんはそんな下品な言葉は使わないでおくれよ。
 ん…?妖精、さん…?
「……んん…?」
 八束は眠気眼を擦りながら声のする方へ顔を向け、目を剥いた。そこに居たのは、夢の中で聞いた妖精さんの声とは似つかわしくない目付きの悪い長髪のいかにもヤンキー上がりの男の人が立っていたのである。
「そこ、俺の席なんだけど。邪魔。」
 そう冷たく言い放つヤンキーを見て、八束の眠気は一瞬にして吹き飛んだ。
ヤバいヤバいヤバいシメられる殺されるヤバいヤバいヤバい
 先程までの心地好さは何処へ。八束は飛び上がるかの如く席を外し、ヤンキーに居眠りスペースを譲り空けた。
「うわああっ!ごっごめっごめんなさいごめんなさい!どーぞ、どーぞ!お使いくださいまし!」
 八束はペコペコと頭を下げ続けた。
 そんな慌てふためく八束を見て呆れたのか、ヤンキーは軽く溜め息を吐き、八束が座っていた席に乱暴に座った。
 長い足は講義室の落書きやら何やらで灰色に薄汚れた机に投げ出され、薄いTシャツに隠された腕は偉そうに組まれていた。
 ああ、さっきの自分の座り方とは雲泥の差だ、と更に八束は背筋を伸ばした。
 一刻も早くこの空間から逃げ出したい八束は急いで荷物を片付け、第2講義室を後にしようとする。
 と、同時だった。
「おい」
 突然、ヤンキーに呼ばれた。何だろう、何だろう。さっさと出ていこうとしたからシメられるのかな。どうしよう、どうしよう。
 恐怖で心臓がばくばく言っているのが分かる。恐る恐る後ろを振り向くと、先程と同じ格好をしているヤンキーがそこに居た。
「ななななんでしょう??」
 作り笑顔を精一杯作りながらヤンキーを見る。
すると、ヤンキーは目付きの悪いお顔をくしゃりと綻ばせた。
 わあ、あんなヤンキーでも笑うんだ。
 不自然なのに、どこかボーッとそんなことを考えていた。
 笑うんだ、あんな風に。
 そして、またまた不自然なヤンキーからの隠し玉。
「サンキュー」
 さっきとは違う意味で背筋が伸びた。
 八束はただカクカクと頭を上下に動かし、逃げるように講義室を後にした。
 なんでこんなにも心臓がばくばくしているのだろう。
 ヤンキーにシメられると思ったから?でも、実際はシメられていない。じゃあ、助かったから?助かって安心したから?いや、安心したというような脱力感もない。
 それじゃあ、なんで?
 なんでこんなにも、心臓がばくばく、ドキドキ高鳴っているのだろう。
「なん、で」
 顔が熱い。
 全身が熱い。
 沸騰してしまいそう。

 あの、笑顔が忘れられない。




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