〜 29 〜
被告人控室の扉を勢いよく開けて、ユリアが滑り込むように入室した。扉の開閉の音に驚いた寿沙都が体を跳ねさせて、目を見開きながら振り返った。寿沙都だけでなく、成歩堂と御琴羽も驚きながらユリアを見つめている。
「み……、みなさん、審理は……」
息を切らせてよろよろと近寄るユリアに、成歩堂が輝かんばかりの笑顔を見せた。
「……ちょうど今、終わりました。無事に、《無罪》を勝ち取りましたよ」
「ああ……ああ、よかった……」
ユリアはそれまで堪えていた涙を耐えきれずに溢して、肩をすくめた。走ってきたせいで上がる息と嗚咽が混ざり合い、酸欠になりそうだ。見かねた寿沙都がユリアに近寄ろうとした。しかし、そのすぐ横をバンジークスが通りかかり、寿沙都は思わず足を止めた。バンジークスはユリアの目の前に立ち、それに気付いたユリアが、弾かれるように顔を上げた。
「バロック様ぁ…!この度は……っ、おめでとうございますっ!信じて…いましたっ……。よかったです……よか…った…よかったぁ……うぅぅぅ」
「……そう泣くな」
どうしたらいいのかわからない様子のバンジークスが、ユリアの頭に、ぽん、と手を置く。ユリアは改めて安心感を覚えて、溢れてくる涙を指で拭い続けた。不意に扉の開く音が聞こえたかと思うと、間髪入れずに控室へ入ってきた亜双義が、何も言わずにバンジークスの横へ立って、彼の名前を呼んだ。
「《無罪》判決、お祝いを言わせていただきます。……申し訳ありませんでした」
亜双義に向き合ったバンジークスが、その顔を見て考え込んで、それから顔を手で覆った。
「…詫びを言うのは、私のほうだ。御尊父…アソーギ・ゲンシン。この私の、力不足のせいで……許されぬ“あやまち”を犯した。……申し開きの言葉もない」
亜双義は一瞬驚いた顔をして、目を伏せる。まさか謝られると思っていなかったのだろう。亜双義の表情から“憎しみ”が消えているように見えたユリアが服の袖で涙を拭いながら顔を上げた。
「……オレは、貴君を許すことは出来ない。……だが。貴君は、正しいことのために闘った。それは、認めざるを得ない」
観念したように言う亜双義の声色は、ユリアがよく知っている“彼”のものだった。黙ったまま小さくうなずくバンジークスを見て、嬉しくなったユリアが微笑んだ。
ここに来た旨を説明し始めた亜双義。クリムトが残した“遺書”の“もうひとつの願い”が気になって来たようで、亜双義を向いた御琴羽が、その件について説明を行うと言い出した。亜双義玄真から“身重の高貴な夫人の出産を手伝ってあげてほしい”という頼み事をされたこと。そしてその夫人は、クリムトの奥方だったということ。衝撃の事実に一同が目を見開く。一番うろたえていたのは、紛れもなく、バンジークスだった。
「し……しかし!それならば……兄は…なぜ!その子を私に託そうとしなかったのだ。私は…そのような子がいることすら、知らなかった……!」
「……きっと、そうするしかなかったのだと思います」
成歩堂は、《殺人鬼》の娘として生涯を送らせたくなかったのでは、と憶測を語った。
「なにも背負わせずに生かしていくには、バンジークス家から引き離すしかなかった…」
亜双義も難しげな顔で言い放つ。それに対して「なんということだ」とバンジークスが瞼を伏せて、呟いた。御琴羽は、バンジークスが落ち着いた様子を確認してから、再び口を開いた。
「私は、亜双義の最後の願いを聞き入れることにしました。しかし……1ヶ月もしないうちに、日本から帰国の命令を受けたのです。そして…身元を明かせない赤子を連れていくことは許されなかった。そこで、私は……悩んだ挙げ句、“親友”に頼んだのです。どうか、その子の……“父親”になってくれまいか、と」
「それが……ホームズさん……ですか」
御琴羽はひとつ、うなずいた。
「……結局、私がその子にあげたものは…たったひとつ。“名前”だけでした。あの頃…私は、妻を亡くした悲しみから逃れるように、大英帝国を訪れた。その“妻”の名前を……送らせてもらったのです」
寿沙都は肩を跳ねさせて、御琴羽を見つめた。
「…御琴羽あやめ……」
「“あやめ”……英語では、“アイリス”……です」
「え……!?それでは、あの子が……」
ユリアはバンジークスを見つめた。この法廷に入る前、アイリスはバンジークスに香茶をあげていた。まさにその瞬間が、バンジークスとその姪とのやりとりだったのだ。ユリア自身も、ここ数日で随分と仲良くなれた女の子。なにか粗相をしていないだろうか、と急激に不安に襲われたところで、突然、成歩堂が悲鳴を上げた。そこに全員の注目が集まる。成歩堂はポケットから手のひらサイズのちいさなぬいぐるみを取り出して、なにやらピカピカと点滅しているところに触れた。
「やあ、諸君!聞こえるかい!」
そこからホームズの声が響き渡り、それに返事をした成歩堂を見て、どういう仕組みなのだ、とバンジークスと亜双義が頭をひねっている。似たような反応をしているふたりを見て、仕組みを知っているユリアはバレないようにくすくすと笑った。
「なるほどくーん!すさとちゃーん!」
「あ、アイリスちゃん……!」
同じように響き渡った少女の声に反応して、その場にいる全員が弾かれたように反応した。いつから成歩堂たちの声は、向こうに聞こえていたのだろう、と成歩堂と寿沙都以外の人間が、瞬きを繰り返しながら冷や汗を流している。しかし、なにごともなく雑談する成歩堂とアイリスの様子に、ひとまず彼女に伝わっていないことと理解して、安堵した。
「よーし!それじゃ今夜は、お祝いするんだからね!《死神》くんも来るんだよ!」
ユリアは口元に手をかざしながら、バンジークスを見た。亜双義もバンジークスの反応が気になるのだろうか、横目で彼の動きを追っていた。
「お、おおおお……ッ!」
急に話を振られたバンジークスが、聞いたこともない声でうろたえてのけぞっている。ユリアはそんな素振りに思わず目を疑って、何度か目を瞬かせた。成歩堂にぬいぐるみを渡されて、受け取ったバンジークスがそれを手のひらに置く。バンジークスの手に乗るぬいぐるみは、成歩堂が持っていたときより何倍も小さく見えた。
「さ……さすがに、それは無理かもしれぬ」
それを聞いたアイリスの声が、明らかに落胆した。それに対して、バンジークスがどこか焦っているように見えて、ユリアは困ったような笑顔を浮かべた。
(さすがのバロック様も、姪御さんには弱いわね…)
「……だが、約束する。近いうちに必ず、そちらに行って礼を言わせてもらう」
ユリアはぬいぐるみに向かって話すバンジークスの背中を見て、心が洗われるような気持ちで微笑んだ。
「よーし!約束だからね!……それじゃね、なるほどくん!」
その言葉を最後に、ぬいぐるみの胸辺りで点滅していたランプが消えた。それから、まるで自我を持っているような動きをして、ぬいぐるみは成歩堂のポケットの中へ消えていった。不思議そうに見ている一同の目の前で、成歩堂がまた悲鳴を上げる。最後にひとつねりされた、とつねられたであろう場所をさすって、一同の笑いを誘っていた。
控室に置かれた時計を見て、ユリアが、いけない、と声を上げた。バンジークスの釈放手続きをしなくてはならないのだ。早ければ早いほどいい。ユリアの声を聞いた亜双義が、同じように時計を見て、バンジークスを振り向いた。
「……では、バロック・バンジークス卿、……同行を願おうか」
わかった、と返事をしたバンジークスが、成歩堂を振り返り、丁寧な身振りで頭を下げる。ユリアも成歩堂と寿沙都を向いて、ドレスをつまみながら、頭を下げた。
「ミスター・ナルホドー。心から、礼を述べさせていただく。本当に…世話になった」
「私からもお礼をさせてください。…それから、ホームズさんとアイリスさんにも、よろしくお伝えください」
寿沙都は笑顔でうなずき、お返しをするように頭を下げた。しかし成歩堂は、立ち去ろうとしたバンジークスに声をかけて、その歩みを止めさせた。なんだ、と言いながら振り向くバンジークスに、ユリアも亜双義も、思わず足を止めた。
「あの……これから、どうするつもりですか」
バンジークスは瞼を伏せて、少しだけ考えた。
「こうなった以上、検事局を去らねばなるまい。私は、《プロフェッサー》事件の“真実”を、全て公表する。そうなれば…倫敦市民は、バンジークス家を許すまい。自由の身になったら、すぐに倫敦を去るつもりだ」
「え……」
言葉を失ったユリアが、視線を落としているバンジークスを見つめて眉をひそめた。そうなったとき、自分はどうするべきか。秘書としてついていくべきなのかもしれないが、それは時として“重荷”になるのではないのだろうか、と頭の中で葛藤する。亜双義はそんなユリアを見て、大袈裟なくらいのため息を吐いてから、バンジークスに向き直った。
「……馬鹿馬鹿しい。それが《死神》と恐れられた男の吐く言葉か」
吐き捨てられるような言葉を聞いて、バンジークスが顔を上げた。
「10年間……貴君は、その身を晒して倫敦の“闇”を引き受けてきた。やっと、そこから解き放たれた今、貴君の闘いは始まるのではないのか?」
バンジークスは亜双義の言葉を、意外そうに聞いていた。法廷ではあんなにも憎しみをぶつけてきていたのに、どんな心境の変化があったのだろう。それもこれも、成歩堂の力だと言うのだろうか。
「貴公から…そのような言葉を聞くとはな」
目を伏せたバンジークスに、ユリアがうなずいた。
「失礼ながら、カズマさんの言う通りだと思います。バロック様は、紛れもなくこの倫敦の優秀な検事です。自由の身になったら、またこの国を守っていきましょう!私も出来得る限り、支えていきますので!」
今度は亜双義が意外そうな顔をしていた。ユリアはバンジークスの意見を尊重するだろうと思っていたからだ。にこやかに笑うユリアの笑顔を見て、バンジークスが一瞬考え込んでから、うなずいた。
「やっと、倫敦に着いたのだ。……学ぶことは、多いほうがいい」
誰に言うわけでもなく呟いた亜双義の言葉を、ユリアは聞き逃さなかった。亜双義はしっかりと、バンジークスの元に戻ってくるつもりなのかもしれない。それを言っている気がして、ユリアは内心、飛び跳ねるように喜んだ。
「それでは、また会おう。……成歩堂龍ノ介」
「失礼します」
成歩堂と寿沙都に笑顔を見せて、亜双義とユリア、そしてバンジークスが控室をあとにした。明日から、また新しい生活が始まる。ユリアは嬉しそうに頬をゆるめて、バンジークスと亜双義が肩を並べて会話している後ろ姿を、そっと見守った。
prev | next
戻る
×