〜 26 〜
早朝。支度を済ませたユリアたち一同は、中央刑事裁判所を目的地に馬車を走らせていた。今日こそが、バンジークスの運命を決する日だ。言われようのない緊張感に襲われて、ユリアは固唾を呑んでいた。成歩堂も寿沙都も、いつもの柔らかな雰囲気から一変、緊張した面持ちで馬車に揺られている。アイリスはユリアの隣に座って、馬車から見える景色を楽しんでいた。
「そういえば、なるほどくん。“ネタバラシ”はした?」
アイリスが正面に座っている成歩堂を振り向いて言った。呼ばれた声に顔を上げた成歩堂が、眉間に寄せていたシワを解いてアイリスに向き合い、それから、ユリアを見て「ああ、今言っちゃおうか」とうなずいた。視線を感じたユリアは成歩堂を見て首をかしげ、それを聞いた寿沙都も一緒になってユリアを見て、笑顔になった。
「ユリアさんを今回、うちに呼ばせてもらったのは、ワケがあるんですよ」
「…少し、予想外の展開にはなりましたけどね」
寿沙都は成歩堂が倒れて、ユリアにも世話になったことについて指摘した。成歩堂はすっかり引っ込んだ“たんこぶ”があった場所をさすった。
「それについてはご迷惑をおかけしました」
苦笑しながら言った成歩堂に、ユリアは微笑みながら首を振った。
「実は昨日、亜双義に頼まれたんです。“今日だけ、ユリアさんを傍に置いてやってほしい”、と」
「え?」
成歩堂は疑問に思いつつも、亜双義の真剣な眼差しに押されて、一言で了承したという。並々ならぬ事情があるんだな、と察していた成歩堂だったが、昨晩のユリアの話を聞いて確信に変わったらしい。《死神》への復讐が、バンジークスが不在の今、ユリアに向けられる。それを恐れた亜双義が傍にいてやろうとしたが、どうにも難しいので、一番信頼出来る“親友”へ頼んだのだ、と。
「…そうだったんですね…」
ユリアは、静かに瞼を伏せた。
(私が、カズマさんを“怖がっていた”から……)
気持ちの良くない態度を取ってしまったのにも関わらず、亜双義は自分を思って行動していたことを知って、ユリアは申し訳なくなる。一刻も早く亜双義に会いたくなった。会って、昨日の自分の態度について謝罪をしたかった。今回の判決がユリアにとって喜ばしいものでも、苦しいものになったとしても、自分の行いは正さなければならない。そう思った。
「やはり、愛されております。ユリアさま」
成歩堂から聞いて全面協力を申し出たと言う寿沙都が、ユリアを見て微笑んでいる。アイリスも例外ではなかったらしい。アイリスはうつむいているユリアの腕に手を置いて、揺さぶった。
「そんな顔してちゃダメ!アソーギくんの“愛情”も嫌になって逃げちゃうよ!」
本当に、その通りだと思った。ユリアはアイリスと、寿沙都と、それから成歩堂を順番に見て、「ありがとう」と笑った。亜双義にも、感謝を伝えたい。馬車はちょうど、ホワイトホールにある検事局を通り過ぎる。ユリアは窓の外を見つめて、淋しげに微笑んだ。
中央刑事裁判所。アイリスは何やら用事があるということで、裁判所前で別れることになった。被告人控室に入る手続きを成歩堂が済ませている間、寿沙都はずっと暗い顔でうつむいており、それに気付いたユリアが寿沙都の肩に手を添えて、顔を覗き込んだ。
「スサトさん、体調でも悪い?」
寿沙都はハッと顔を上げて、結った髪を揺らしながら首を横に振った。心配させまいとしているのだろう、気丈に振る舞っているが、視線はずっと泳ぎ続けている。
(あのあと、元気そうにしていたけど…やっぱり引きずっているのね、お父上のこと)
もし自分が同じ状況にいたら、粗相を犯している可能性のある父親に対して、軽蔑の感情を持ってしまうだろう。それでも寿沙都は父親を尊敬して、信じている。そこにある”親子愛”は計り知れない。ユリアは寿沙都を気遣いながら、控室に向かった。
「あ……バロック様、おはようございます」
控室のソファに座って腕を組んでいるバンジークスに、いち早く気付いたユリアが頭を下げた。成歩堂と寿沙都もあとに続いて、挨拶しながら頭を下げた。なぜここへ、このふたりと一緒に、と言いたそうな顔でユリアを見つめて、バンジークスは立ち上がった。意図を汲んだユリアがバンジークスを見上げた。
「捜査に同行させてもらいました。バロック様の《無実》ために」
その旨を伝えると、そうか、と呟いたバンジークスは目を伏せて、それからユリアを真っ直ぐに見つめた。
「……世話をかけた」
ユリアは微笑みながらゆっくりと首を振った。成歩堂はユリアにもお世話になった、と話して、それから、捜査結果について話した。黙って報告を聞いているバンジークスだが、その右手はずっと“検事章”に触れていて、眉をひそめている。その姿がなんだか痛々しくて、ユリアも同じように、悲しげに眉をひそめた。
《死神》の正体は、殺人鬼に命を奪われたクリムトの“亡霊”で、《死神》となって蘇ったと噂されていたこと。しかしその噂は、兄を失って進むべき道をも見失ったバンジークスにとって、心の拠り所となっていたこと。たとえそれが《幻》だったとしても、クリムトの存在を感じていたかった、と、バンジークスは当時の心境を吐露した。その話を聞いた一同が、眉をひそめてうつむいた。しかし成歩堂だけは、顔を上げて、真っ直ぐにバンジークスを見つめた。
「とにかく、最も重要な事実は……たったひとつです。あなたは……誰の命も奪っていない。今日の法廷で……ぼくが必ず、立証します」
成歩堂の自身に満ちた目を見て、心を打たれたバンジークスが礼を述べた。そのとき。どこからか鼻孔をくすぐるほのかな香りが漂ってきて、ユリアとバンジークスは扉を向いた。その視線につられて、成歩堂と寿沙都も首を動かす。腰に下げた水筒から、ティーカップへ香茶を注いでいるアイリスが目に入って、成歩堂は驚いた顔をした。
「あ…アイリスちゃん!いつのまに……」
まさか会話が終わって自分に視線が集まるとは思っていなかったのだろう、アイリスも同じように驚いて、それからバンジークスの元へ、トコトコと駆けていった。
「はい!アイリスの《特別配合》の香茶なの。頭がスッキリするって、ホームズくんも大好きなんだよ!」
アイリスは笑顔でそう言って、ティーカップの乗った受け皿をバンジークスに差し出した。カップの中で、透き通った琥珀色が揺らめいている。バンジークスはアイリスを一瞥すると、その場に膝をついて、その香茶を受け取った。
「……礼を言う」
「……えへへ」
「……!」
なんて微笑ましい光景なのだろう。ユリアはバンジークスとアイリスのやりとりを見て、頬を紅潮させ、締まりのない顔で口元を覆った。
(バロック様にお子がいたら、こんな感じなのかしら…!)
立ち上がって香茶に口をつけるバンジークスの、なんと絵になることか。ワインを煽る姿ばかりを見ていたユリアは、新鮮な気持ちでバンジークスの姿を盗み見ていた。嬉しそうに照れていたアイリスが表情を一変させて言うには、“法廷の様子がいつもと全然違っていた”ということ。どういうことだ?と首をかしげる成歩堂。バンジークスはカップを受け皿に戻して、大法廷に続く扉を睨みつけた。
「どうやら……あの方が、本気で動き出したようだ」
あの方?となおさら疑問を抱える成歩堂を奮い立たせるかのように、係官が開廷時間が近付いたことを大声で知らせた。今日の法廷、“部外者”はどうやら傍聴席に座らせてもらえないらしい。理由は聞かせてもらえなかったが、神妙な面持ちをしていた法廷の管理人の顔を見て、それ以上言及はしなかった。短く息を吐いたバンジークスを、ユリアが見上げる。ついでに、空になったカップを受け取った。
「バロック様……。私も、尽くせる手は尽くしました。…待ってます。絶対に、《無罪》で…帰ってきてください!」
「……無論だ」
気合を入れ直している成歩堂と寿沙都を見ると、視線に気付いた寿沙都が、ユリアに向かって拳を突き上げてみせた。
「ナルホドーさん、スサトさん。信じています!どうか、バロック様を、お願いします…!」
「……はい!」
「ユリアさまの、笑顔のために!」
成歩堂と寿沙都の背を追うように、バンジークスが部屋を出ていく。係官もそれに続くようにして控室を出ると、後ろ手に扉を閉めた。残されたユリアは、深くため息をついて、アイリスを振り向いた。
「ユリアちゃん、裁判見たくない?」
振り向きざまに、突然アイリスが言った。見れるものなら当然見たいが、事情が重そうだったのだ。
「これから交渉にでも行くの?」
アイリスは満面の笑みで、首を横に振った。どうやら“思惑”というより、“用意”があるようだ。アイリスはユリアの手を掴んで、引いた。
「“特等席”があるの。着いてきて!」
健闘もつかないユリアは、ひたすらアイリスの手に引かれて、中央刑事裁判所を出る。そこから。手配された馬車に乗せられて尚更裁判所から離されてしまった。どういうこと?と、ユリアが疑問を口にしても、アイリスはニコニコと笑ったままだった。
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