〜 24 〜
ユリアと成歩堂と寿沙都は、他に誰もいなくなった部屋の片付けに勤しんでいた。もっとも、客として来ているユリアがやることではないのだが、動いてないと死ぬ、くらいの勢いで手伝いを申し出たのである。
「すっかり元通りになりました!ユリアさま、ありがとうございます!」
「いえ、とんでもないです」
寿沙都が喜んで、香茶の代わりに日本の緑茶を出してくれた。正面に並んで座る成歩堂と寿沙都が、取っ手のついていない茶器を持って、ゆっくりと味わっている姿を見て、ユリアも見よう見真似でその緑茶に口をつけた。初めて味わうその独特な渋い味わいに、ユリアはなんとも言えない顔をしながら、その茶器の中を見る。これに合わせる菓子はなにがいいのだろう。甘いものでも、塩っぱいものでも合いそうだ。そんなふうに思いながら、もう一口、味わった。
「ユリアさん、聞いてもいいですか?」
茶器をテーブルに置くと、成歩堂がユリアをまっすぐに見据えて言った。どうやら成歩堂は、ユリアとバンジークスの間柄についてを、ずっと聞いてみたかったそうだ。いつからバンジークスの秘書として働いていたのか。バンジークス邸で働きだすきっかけはなんだったのか。それから、《死神》の異名のせいで被害に遭ったことについて。
「全て、お答えします」
成歩堂の真剣な眼差しを受けたユリアは、茶器を元の位置に置いてひとつ咳払いをした。
質問された内容について成歩堂に話していくうちに、今回の被害者であるグレグソンとバンジークスの間柄について聞かれ、ユリアの知りうる限りの情報を提供していった。少し脱線して、ユリア自身が《死神》の異名の影響を受けた話も、全て話した。
「……すみません、ほとんどご存知の情報かもしれませんが」
話し終わってから、今回の事件に関する話はすでに成歩堂が知っている可能性が頭に浮かんでユリアは眉を下げた。成歩堂は顎に手を当てて、深く考え込んでいるのか、どこか一点を見つめている。
「……昨晩のような“復讐”を目的とした犯行は、バンジークス卿だけでなく、貴方も標的にされていたのですね……」
「…はい。過去に数回はありました」
うつむきがちに答えるユリアを、寿沙都が涙を浮かべながら見つめる。“復讐”は嫌がらせ程度のものから命を狙われたものまで様々で、直近のものでは、あと一歩のところで死んでいたかもしれなかったという話をして、成歩堂が驚愕の表情を見せた。
「…ユリアさま……怖いことを思い出させてしまい、申し訳ございません…」
聞いていた寿沙都が眉をひそめ、視線を下げた。
「ご無事でなによりでした。…あと一歩だった、というのは、誰かに助けてもらったのですか?」
ユリアはまっすぐに見つめてくる成歩堂から視線を逸して、うつむいた。“エスポワール”と言っても通じないだろう。1週間ほど前に“亜双義一真”となった彼の姿を思い出して、ユリアは小さく拳を握った。
「……カズマさんです。記憶を失って、大変だったでしょうに…それなのにも関わらず、私を守ってくれました」
ふたりはその言葉を聞いて、鞭を打たれたかのように驚いた。
「…さすがだな、亜双義。あいつは、腐ってもそういう男だ」
「ご自分よりも他人さまを優先する…。本当に、一真さまらしいですね!」
亜双義の名前を聞いてから、嬉しそうに喜ぶ成歩堂と寿沙都。その正面で、ユリアは不思議そうに顔を上げた。ふたりの知る“彼”と、自分の知る“彼”は、大して変わらないのだろうか。友人ふたりを前に言うのも気が引けるが、ユリアは意を決した。
「……でも、私、あの人が怖いんです。今回の法廷、初めてカズマさんの本性を見た気がして…手段を選ばないというか、憎しみだけで動いている人のように見えて…」
後半になるに連れ、声を弱めて視線を落としていくユリアに、ふたりは押し黙る。まるで友人の陰口を繋がりのある友人に言っているような、そんな罪悪感を感じて、ユリア唇を噛み締めた。
「…それなのですが……」
成歩堂が口を開いて同じように視線を落とし、しかし、真剣な表情で成歩堂はユリアを向いた。
「実はぼくたちも、同じことを思っていました。今の亜双義は、ぼくたちが知っている亜双義じゃありません。何かに囚われているような、取り憑かれているような……そんなふうに感じています」
「え?」
「でも、一真さまは、とても優しいおかたです。これだけは、なにがあろうとも保証します!」
怖がって視線も合わせようともしない自分に、亜双義は気を悪くする素振りも見せず、むしろ、歩み寄ろうとしてくれたことを思い出して、ユリアはぼんやりと、茶器に残った緑茶を見つめた。
「そういえば今日、執務室に行ったとき……貴方が笑っているのを見て、あいつは安堵の表情を浮かべているように見えました。ずっと元気がない貴方のことを、心配していたのかもしれません」
「あ……」
ユリアはその言葉に、ハッと顔を上げた。“心配”されてしまっていたのだ。エスポワールだったあの頃も、彼はずっと自分を心配していた。悪党に殴られて出来た怪我を見ていたときも、バンジークスの代わりになるなら死んでもいい、と言い放ったときも、万博模型の制作に手間取っているときも、人混みに負けてはぐれそうになったときも、すべて、心配の眼差しを向けられていた。いつも一緒にいてくれたのは心配されていたからだ。ユリアはそこで初めて、バンジークスばかりに目を向けて心配されないように振る舞っていた自分の行いと、エスポワールには全て見透かされていたということに気がついた。それは彼が記憶を取り戻した今も変わらない。亜双義はずっと、ユリアを“心配”していたのだろう。「まあ」と驚いたような声を寿沙都が上げた。
「ユリアさま、愛されているのですね。バンジークスさまからも、一真さまからも…」
優しく包み込むような声音で言われて、ユリアは唇を噤んだ。他人の好意に気付かず、ただ目の前の尊敬する人物だけに“優秀”だと思われたい一心で動いていた愚かな人間が、愛されていいわけがない。亜双義の淋しげな笑顔を思い出して、ユリアは押しつぶされそうになった。
「……私は彼のことを、正体のわからない“恐怖”を理由に……、避けてしまっていたのですね……。…ご友人のあなた達に、酷いことを言ってごめんなさい……」
あんなにも、自分を気にかけてくれていたのに。あんなにも、自分を助けてくれたのに。“敵対”したと分かった瞬間から壁を作るなんて、自分勝手がすぎる。ユリアは深く反省して、うなだれた。
「無理もないですよ。あいつはぼくの“親友”なのに……真正面に立っているだけで、とってもおっかないもの…」
成歩堂は、自分の親友が悪く言われていたのにも関わらず、ユリアを庇うような言葉を選んだ。ユリアは、自分が人に恵まれていることを痛感して、目頭が熱くなるのを感じた。それに気付いた寿沙都がユリアの隣に移動しようとしたときだった。
「ただいまー!」
玄関からとても活気のある声が聞こえて、成歩堂と寿沙都は振り向いた。すっかり泣きはらしたのだろうか、爽快に客間の扉を開いたアイリスが、ユリアの異変に気付く。
「…そろそろご飯にするんだけど、ユリアちゃんも食べてってよー!」
しかし、いつも通りの元気な、ユリアにもしっかりと聞こえるような声でアイリスが提案した。寿沙都が椅子から立ち上がって、嬉しそうに両手を合わせた。
「まあ!アイリスさま、いいご提案ですね!」
「え!い、いえ、そんな気を遣われなくとも!馬車で帰りますので!」
袖で乱暴に目元を拭ったユリアが、わたわたと身振り手振りで“遠慮します”を表現した。そんなユリアをお構いなしに、アイリスは更に「あー!」と声を上げる。
「ついでに、泊まってっちゃえばー?ホームズくんいないし!」
「まあ!アイリスさま、更にいいご提案を!」
「ええ!?」
断る間もなく、有無を言わせず、隙すら与えられないまま、寿沙都とアイリスがとても楽しそうに支度をし始めて、とても断りにくい空気になってしまった。出かけた涙も引っ込んで、呆然と女子ふたりを見つめていると、苦笑をもらした成歩堂がユリアに向き合った。
「ユリアさん、話してくれて、ありがとうございました」
成歩堂は、さすが弁護士と言ったところだろうか、不安をかき消してくれるような柔らかな笑みを浮かべて、ユリアを見つめた。つられるように微笑んで、ユリアも成歩堂を見つめた。
「……いえ、私のほうこそ。色々と気付かされました。本当に、ありがとうございます」
そうして、ユリアは厨房に消えていったふたりを気にしだした。先程のときもそうだったが、ユリアは“動いていないと死ぬ”のだ。客人として大人しくしておくべきか、成り行きとはいえ泊まらせてもらう身分になったので手伝うべきなのか、そわそわと落ち着かない様子のユリアを見て、成歩堂が「一緒に作ってあげてください」と笑った。ユリアは輝かんばかりの笑顔で「はい!」と答えて、厨房に向かった。
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