〜 22 〜
「ユリアさん、よければ、ぼくたちの捜査に同行してもらえませんか?」
ユリアと寿沙都が談笑する中、成歩堂は言い放った。会話を中断せざるをえなくなったふたりが同じように顔を上げ、成歩堂を見上げた。
「え…!…ば、バロック様の《無実》の証明に繋がるのであれば、私も、是非お手伝いしたい所存です!」
「よかった」
成歩堂は笑顔になって、寿沙都と共に検事局の外で待っていると伝えると、部屋を出ていった。残されたユリアは、荷物をまとめるために立ち上がった。
「あ……」
亜双義の視線に気付いて、手を止める。亜双義は何も言わずに、ただユリアを黙って見つめて、それから窓の外へ視線を移した。検事を目の前にして弁護士の協力に出たのだ、亜双義もきっと面白く思っていないだろう。しかし、なにか言おうにも言葉が出てこなくて、ユリアは掛けていたコートに腕を通しながら、鞄を手に取った。
「……あの、……。では、これで失礼します…」
「…はい。お気をつけて」
事務的な挨拶のみで、ふたりは別れた。ゆっくりと閉められた執務室の扉の奥で、亜双義が小さくため息を吐く。《死神の呪縛》は、想像以上に厄介そうだ。彼女を悲しませず、傷つけず解放するには、どうしたらいいのだろう。考えても考えても、その解答は“闇”の奥底から、顔を出すことはなかった。
検事局の外へと出てきたユリアの視界に、成歩堂と寿沙都の間に挟まって、会話をしているアイリスの姿が目に入った。外で待っていたのだろうか、鼻の頭が外気によって冷えて、赤くなっている。ユリアの姿を確認した寿沙都が、ユリアに向かって手を振った。
乗合馬車に体を揺られ、一行が辿り着いたのは、ドクター・シスの娘、マリア・グーロイネがいる《法医学研究室》。ユリアにとっても、少々…というより、かなり気になる情報が手に入った。問題はアイリスの様子だ。動揺を誤魔化すようにして、その場から消えたアイリス。3人とも首をかしげてはいたが、深く追求はしなかった。
それからユリアたちは、事件現場であるフレスノ街のアパートメントに来ていた。かすかに“血”のような匂いが漂う、薄暗くて殺伐としたこの場所の雰囲気をかき消すように、活発な女子の声が響いている。その声の持ち主は、ジーナ・レストレード警部。何度かグレグソン刑事と一緒にいるところを見かけたことはあるが、こうして会話するのは初めてだった。彼女は信頼していた上司を失ったが、自分の責務までは見失わずに、こうして警察としての仕事をしている。そんな彼女の姿を見て、ユリアは、強い女性だな、とひそかに尊敬した。
そんなこんなで調査を進めているとき、ジーナの腕の中にいた警察犬のドビーが突然、成歩堂を見て唸り出した。次の瞬間、ジーナの腕を飛び出したドビーが成歩堂に飛びかかり、猛烈に吠えながら成歩堂の顔面を容赦なく、舐め取るくらいの勢いで舌を出し入れし続けている。驚いた成歩堂がそのまま後ろに倒れ、あろうことか、そのまま気絶してしまった。ユリアと寿沙都は互いに顔を見合わせたあと、ユリアは成歩堂に駆け寄り、寿沙都は馬車の手配をするよう、警官に頼み込んだ。
ベイカー街・221B。そこにとある人と住んでいる。馬車の中で横たわらせた成歩堂の頭を、自身の膝に置いて介抱している寿沙都が言った。
「申し訳ございません、ユリアさま…。わがままを聞いてくださって…」
「いえ、いいのですよ。私が泣いているとき、スサトさんが傍にいてくれて、とても嬉しかったんです。お気になさらないで」
寿沙都の“わがまま”というのは、成歩堂の目が覚めるまで一緒に居て欲しい、というものだった。捜査は中断せざるを得なくなってしまったが、ユリア自身も、今回の事件の深い部分まで知れてよかったと思っている。しばらく馬車に揺られていると、とある一軒家を目の前にして、馬車を引く馬の蹄が鳴り止んだ。ふたりは乗車したときと同じように、成歩堂を一緒に担ぎ上げて、下車する。寿沙都がひいひい言いながら、その家のインターホンを空いているほうの手で鳴らした。
「……どういう絵面だい?」
扉を開けたくすみのかかった金色の髪を持つ男性が、煙管をふかしながら言った。ユリアはその人をなんだかどこかで見たことがある気がして、必死に記憶を辿り、名前を探す。
「詳しいことは後ほど!」
寿沙都が言って、男性にユリアの代わりをしてくれと頼み込んだ。
「ワンちゃんに舐められて……ミスター・ナルホドーは動物に嫌われてるのか好かれてるのか、理解に苦しむね」
事の経緯を話した寿沙都が、その言葉を聞いて苦笑した。成歩堂が運び込まれたここは、《成歩堂法律相談所》という“仮拠点”なのだという。元々は物置部屋でした、といわんばかりのすすけた古い棚や、物があったであろう部分の床の色褪せなさ。赤くて丸っこい人形のようなものがあったり、見たことがない茶器など、目を引くものがたくさん置いてある。物珍しそうに部屋を見回しているユリアを振り向いた男性が、寿沙都に目配せした。
「それで、ミス・スサト。こちらの女性は?」
「あ!ご紹介が遅れてしまい、申し訳ございません!彼女は、ユリアさま。バンジークスさまの秘書をされているのだとか」
ほう、と声を上げた男性がユリアを興味深そうに見つめた。ユリアはドレスの裾をつまんで、深く頭を下げた。
「紹介に預かりました、ユリア・ミルトンです」
「シャーロック・ホームズと申します。ミス・ミルトン。ヤツの手には余るくらいの麗しき淑女ですね」
ホームズはユリアの手を取って、恭しく頭を下げた。言われ慣れていない言葉に、微かに頬を染めたユリアが、恥ずかしそうに笑う。一部始終を見ていた寿沙都が、ふたりのやりとりに、“これが大人の世界!”と言いたげに興奮していた。3人で雑談しているうちに時間はあっという間に過ぎ去っていき、やがて日が傾きかけてきた頃。小さく唸った成歩堂に、3人は一斉に目を向けた。
「成歩堂さま……!大丈夫でございますか!」
「…よかった、打ちどころも悪くなさそうですね」
「……寿沙都さん、ユリアさん……」
ぼんやりと瞼を上げた成歩堂が、寿沙都とユリアの姿を見ている。その背後でホームズが椅子から立ち上がり、ようやくか、と声を上げた。
「やれやれ、よかったね!」
成歩堂はそんなホームズを見て、自分が今いる場所を理解したようだ。未だにぼんやりとした目と頭を覚醒させようと起き上がり、ふたりに感謝を述べる。起き上がった拍子に、自分の頭から水袋が落ちたのを見て、成歩堂がそれを掴んだ。妙に固形物のような硬さがあるその“水”に、成歩堂が首をかしげる。寿沙都の応急処置で、砂糖を大量に含んだ水を使ったものだ。ホームズの家には冷蔵庫がないので、こうするしかなかったらしい。
「さあ、落ち着いたらお茶にしようじゃないか諸君!…ああ、ミスター・ナルホドー。キミのお茶は、砂糖抜きだ」
「うううう…“たんこぶ”がうずきます。」
悲しそうに言う成歩堂を見て、ユリアと寿沙都は一緒になって笑った。アイリスのお茶は美味しいよ!と、まるで自分のことのようにユリアへ自慢して、階段を降りていくホームズ。ベッドから降りた成歩堂を見てひとつうなずき、ユリアはホームズの背を追うようにその屋根裏部屋をあとにした。
prev | next
戻る
×