『あー、オレだけど』

 薄暗い廊下をひたすらに、下を向いて歩く。リノリウムの床に擦れるたくさんの足音がうるさくて音量を上げた。ポケットに突っ込んだ左手でイヤホンコードをいじる。あと20メートル。

『やっぱ無理だって。いーわオレ』

 掠れて聞こえるメッセージは、何度も繰り返して再生するからすっかり覚えてしまった。時代遅れの、通話もメールもできない二つ折の携帯をポケットの中で撫でる。あと10メートル。

『せっかくチケットくれたのに悪い。でもちゃんと中継は見るからさ』

 あほみたいなピンクの髪がちらちらと視界に入る。さっきまで後ろにいただろうにと思って顔を見る。皺のよる眉間の下の目が合ってそのまま見ていたらふっと力が抜けて、眉の下がった情けない顔をされた。意味がわからない。あと5メートル。

『もう時間だから切るな。応援しといてやる』

 あともう少し、あと1メートルでまた始まる。イヤホンを外してジャージを脱いで、横にいる腐れ縁に投げる。両開きの重そうなドアを係員が開けた。
 ドアの隙間から溢れ出す真っ白な照明に一瞬目が眩んで、割れんばかりの歓声と暑苦しい熱気とを一身に浴びる。それに負けないボリュームでアナウンスが流れる。止めてしまった録音メッセージを自分で吐き出した。

「絶対負けんな、勝ってこい」

 誰の耳に入るわけでもなく、大きな熱にかき消された。



直線歩行



 渡米してから2年、NBAプレイヤーとなったキセキの世代エース、青峰大輝と、そのキセキの世代たちと渡りあったという無名の新設校を後の名門校とされる足がかりとなった日本一の高校生、火神大我の二人の日本人はデビュー当時から注目される存在だった。
 平均身長200cmを割ることのないフィジカルを持つ本場育ちの中に190cmと少々小さいながらもそうは思えない日本人が二人、別々のチームに入ったことはそのときちょっとしたニュースとなった。
 そんなことも忘れかけていた10月、プレシーズンに入ると人々に日本人の存在を思い出させることとなる。日本国内でも期待されていなかったロースター枠、所謂ベンチメンバーにウェスタン・イースタンに分かれていた二人が入ったのだった。
 11月のレギュラーシーズンを勝ち抜き4月のプレーオフを両チームとも出場している。
 カンファレンスファイナル、準決勝で対面した日本人を抱える両チームは、マイナーである日本国内でもニュースとなり、後に伝説となった試合を繰り広げる。結果青峰の在籍するチームが勝利し、ファイナルまで進み優勝している。
 NBAチャンピオンになるにはプレーオフに出場し、16勝しなければならない。その16試合全ての試合を出場していた青峰大輝は注目の的となった。そしてその青峰と戦った火神大我のことも。

 やたらと長いナレーションをはさんで四年前から先月までの試合映像が流れる。テレビを消した。
 真っ黒の液晶に映る自分がやけに小さく見えて、思わず周りを見渡す。無駄に大きくしてしまったテレビの前に自分の座る二人がけのソファ、インスタント食品ばかり積み上げてしまったカウンター。一人でいるには広すぎるリビングは薄ら寒い。
 ソファの背に首を乗せて大きく息を吐いた。どうしたんだと問いかけてくれる声はない。
 青峰大輝は渡米したその日から火神大我と同居、もとい同棲をしていた。その違いを本人たちがしっかりと理解していたかといえば怪しいところではあったが、全米が注目した期待のルーキーたちが恋人同士だったなどと世間が知ったらどうなるかとは彼らは考えなかった。高校時代から続く仲で、当然の行き先だった。
 その恋人の選手生命は先程幕を下ろした。
 渡米して六年、デビューしてから四年と少し、火神の脚はどこまででも跳べた。トレーナーに、年齢に制限されることはあってもコートに膝をつくことは決してなかった。火神の限界を本人から聞き出したのは青峰ただ一人だった。
 同じベッドで寝ながら、そろそろと布団から抜け出すのを知ってはいた。どうにも様子がおかしいと気がついたときにはもう遅く、真っ暗な部屋の中で膝を抱えて一人で涙を流していた好騎手はもうほとんど跳べない状態だった。
 病院の帰り道どうして黙っていたんだと静かに聞けば「お前が好きだけどオレの本命はバスケ」と拗ねたように言う恋人にバスケをやめろなどとは口が裂けても言えなかった。できることはといえばベッドを抜け出そうとする火神の手を引いて横ですすり泣く声を聞くことぐらいだった。
 そんな生活が二年続いた先月とうとう、火神の脚は壊れた。


ざわざわと騒がしいコートの真ん中に置かれた演台。チームの入場曲がいつものように大音量で流れて歓声が上がる。波のような手拍子があっという間に完成して、こうやって始まるんだな、なんてこの歳になって初めて知った。アナウンスが流れて天井から吊られた液晶にスーツ姿の赤髪が映る。ひらひらと手を振りながら周りを見渡して歩いてくるスーツ姿の男。コートの中央、置かれたマイクの前で笑顔を見せて止まった。

「ありがとう。またここに立てると思ってなかった。セレモニーなんて聞いてなかったんだ」

 火神が話しはじめてすうと消えた拍手と歓声、スピーカー越しに聞こえる声がすこし浮いた。

「夢だった選手になって、ここで憧れてた人にも、支えてくれる人にも、応援してくれる人にも、沢山の人と会えた。その大切な人たちに囲まれて四年もバスケができた。すげえ楽しかった」

 チケットの取れなかったコートサイドに目立たない淡い水色の頭が見えた。あいつあの席にいくらかけたんだろう。ゴール裏の一階席を買った俺と、コートに立って話すあいつとの距離は結構遠くて、ファンも大変だよなとはじめて思った。

「オレはもうこのコートに立ってプレイをすることはできない。でももう心残りはないし、いつまでも座り込んでるつもりもない。大事なオレのチームメイト、偉大なプレイヤーたちの、そいつらを支えてくれる人たちにオレは、この恩を返したい」

ああこいつは、と思いながらフードを深くかぶり直す。隣に座っていたガキが下から覗き込んできた。目を輝かせて声を出そうというところを口元に人差し指を当てた。自分の口角が上がっていることに自分で驚く。丸くなった目でそれからまたやたらと輝かせた目を見ながら頭に手をおいてかき混ぜる。その隣にいた母親と目があって、驚いた顔をされてから、声を出さずに礼を言われた。何もしてない。

「本当に、本当に楽しかった」

 胸元に手をやる。多分きっちり着込んだスーツの下の、首からさげたリングを握って。

「オレにバスケをさせてくれてありがとう。愛してくれてありがとう」

 マイクスタンドに添えられた手が離れる。歓声と拍手とでまた、場内が音で包まれる。一歩下がって、腰を折って、深く頭を下げた。
 誰一人、個人の名前は出さなかった。思いつき過ぎて口に出せなかっただけだろうと思う。車の中であれだけ長いスピーチを助手席で聞かせたくせに、本番になったら五分にも満たない。あいつらしいと思った。
 下げられていた頭が上がる。満開の笑顔が天井のスクリーンに映った。ユニフォームを着たチームメイトに花束とバスケットボールとを渡されて抱き合う。退場のアナウンスが流れて、また拍手が大きくなった。

「ダイキ?」

 まだ高い声が聞こえて横を見た。おろおろとした顔が目をしきりに指差す。自分の顔を触ってみれば濡れていた。なんでオレが泣いてるのか。あいつは笑ってるのに。
 なにかを探して荷物をひっくり返していた小さい手が止まった。捜し物は見つからなかったらしい。それから自分の着ていたチームのユニフォームを脱いでオレに突きつけた。これで拭けっつーのか。ありがとなと言いながらユニフォームを受け取った手の甲で拭った。広げてみれば10の背番号にTAIGAの文字。かはと声を漏らして笑った。ペンを貸せと言ったら不思議な顔をしてマジックを渡された。背番号にかかるように、左は譲って右寄りにオレのサインを書いた。火神のだけど、と思いながら返すと眩しいぐらいの笑顔で礼を言われた。奥に座った母親にも同じように。
 火神が出口でもう一度手を振って、ドアの奥に消えていった。
 ユニフォームを着て笑顔で自分の体を抱く子供に拳を突き出して、出された拳に合わせる。
 財布とキーケースがポケットに入っていることを確認して席を立った。子供と目があって手を振られる。笑って手を上げてから通路を通った。
 出口に続く階段を降りて地下駐車場に出る。なんとか停められた車に乗り込んだ。
 シートを倒して深く沈んだ。肩がどうしようもなく重かった。両手の指を組み合わせて顔の上に置いて、詰まったような息を吐いた。


 コンコンと車の中に響く音。意識が段々とはっきりとして、寝ていたのかと思いながら手を下ろした。
 窓の外に立つ赤い髪白い蛍光灯に照らされて光る。右手に持った花束を肩に当てて、笑いながら左手で窓を叩く。鍵を開けた。

「おかえり」




紺のストライプの入ったスーツはさつきが持ってきた物だった。火神のスーツをなんでお前が、とは思ったけど本人が嬉しそうだったから何も言わなかった。
 火神が車に乗り込んで花束を開いた足の間に置く。倒していたシートを元に戻した。お世辞にも愛らしいとは口が裂けても言えないような、190センチ超えの男が持つには随分と派手だったけど、鮮やかな色が飛び込んできてよくわかっているなと思う。

「どうだったよ。オレのスピーチ」

 綺麗に包まれた束の中の赤い花をいやに優しい手つきで撫でながら言った。視線がこっちを向くことはない。

「バカガミにしてはよく出来たんじゃねーの」

「まだ言うのかよそれ。アホ峰のくせに」

 ふっと笑った口元を、こんなふざけた呼び方をしていた頃は知らなかった。屈託なく笑うことも、強敵を前にしたときの挑戦的な笑みも最近じゃ滅多に見られはしなかった。こんな風に、馬鹿みたいにおとなしい顔でしか笑わない。
 左からベルトを伸ばして挿し込む。エンジンをかけて、蛍光灯で白く照らされたコンクリートの通路を抜けた。
 ゲートを出てすっかり暗くなった道路を走る。道路脇の看板の光が線になって窓に写り込んでいて、窓の外を見る火神の頭を横目で見た。

 セレモニーが終わった。こいつの選手としての生活は本当の意味で今日終わる。試合の前日眠れずにソファに並んで夜通しDVDを観ることも、メンバー表を見て静かに悔しがることも、これからはない。本人が、オレがいくら望んでも、これからずっと。

 マンションまであと少し。窓を向いていた火神の頭は少しずつ少しずつ下がっていって、今では握りしめた花束に顔が付きそうなほど下を向いていた。垂れたリングが車の振動に合わせて揺れる。
 駐車場に入って車を停める。さっきまでいた駐車場とかわりのないコンクリートの壁。エンジンを止めても火神の頭は上がらない。

「降りるぞ」

 変に声が変わらないように、オレは何も見てないからな、なんて風で言った。ある意味白々しい。シートベルトを外してからゆっくりゆっくりと動き始めて、ぐずぐずと動く体を車から降りて見守る。火神がドアを閉めたのを見て、鍵をかけて歩き出した。
 駐車場を歩いてエントランスの入り口手前で振り返る。随分と後ろで馬鹿みたいな遅さで歩いているから、引き返して火神の隣に並んだ。もう一度向き直ってただ無言で歩く。花束を右手で持って左手でオレのトレーナーを掴んだ。引き止めるのかと思ったら歩くことは止めないからそのままにして歩く。
 自動ドアが開いてオートロックのインターホンにキーを通した。もう一枚ドアが開いて、いつも通りエレベーターに乗る。
 狭いエレベーターの中で後ろに立つ火神の手は掴んでいるというよりもただ触れているだけのように、まったく重さがなかった。こいつがこれからこんなふわふわとした、曖昧な立ち方をしていくのかと思うと大声で叫びたくなった。

 エレベーターが止まって降りる。玄関まで同じように歩いていってカードキーを通してドアを開けると、今まで後ろにいた火神がオレを抜かして家に入っていった。ばたんばたんとドアを開けて閉める音が何の音もなかった家に響く。後から続いてリビングのドアを開けた。いなかった。カウンターに鍵と財布とを置いてから電気をつける。繋がる寝室のドアを開けた。ベッドの上に上着を着たままうつ伏せに倒れている火神を見た。花束は握ったまま。
 スタンドライトだけ付けて部屋を出た。ある程度は使えるキッチンでお湯を沸かす。いつまでたっても上手く淹れられないコーヒーを淹れた。砂糖とミルクを適当に入れたマグカップ一つとカウンターから背の高い椅子を引っ張って寝室に戻る。ベッドの横に置いた椅子に座ってコーヒーを啜る。のめなくはないが決して美味くはない。

 コーヒーを飲み終えて、一ミリも動かない火神の側に寄ってみると静かに静かに啜り泣く声がきこえたから、どうしようもなくなって部屋を出た。もう一杯コーヒーを淹れた。


  明日の晩は火神のパーティーに出る。フロントやチームメイトが企画してくれたと珍しく純粋に嬉しそうな顔で言ってきたのは昨日の朝だった。オレが行くのかと聞けばお前以外に誰がオレを連れて行くんだと呆れた声で返された。
チェストの上に火神が並べたディスプレイの横、置かれた招待状を手に取って、箔の捺された封筒を透かし見る。大切に開けられた跡が見えて目を細めた。元の場所に戻してソファに沈んだ。


肩を揺すられて目を覚ました。付けっ放しだった照明を遮っているのは赤髪の頭で、逆光で表情は見えなかった。

「どうした」

車から降りてきたあの時と同じような雰囲気で、なんの気もないように言葉を選ぶ。思ったよりも声が掠れた。
本人はといえば何も言わず、ただ覆いかぶさるようにしてオレを見下ろすだけだった。手を伸ばして赤の髪を少しずつ梳きながら火神が口を開くのを待つ。

「風邪ひくから」

「おう」

「お前は風邪なんかひけねえだろ」

「てめえもだバ火神」

「馬鹿は風邪ひかねえんだとよ」

「馬鹿ほど体調崩すんだよ」

「だからお前はちゃんと」

「うるせえお前も」

馬鹿だろうがと頭を抱えて引き寄せる。全く軽くない体をそのまま上にのせたから呻き声なんてあげないようにと腹に力を込める。

「オレ、まだやりたかった」

静かに落とされた声が体の真ん中あたりに沁みていくようで、たまらなくなって腕に力を込めた。それきり何にも言わない火神の心臓の音だけ聞いてたけれど、オレがなにか言うことも同じようになく、ただ一緒になって綺麗じゃない沈黙に耐えていた。


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終われない
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