音の記憶



「お前はまたこんな所で油を売ってッ!」
 空気が震えるような江澄の大きな声が、雲深不知処に響き渡った。深く青々とした森で羽を休めていた鳥は慌てて飛び立ち、せせらぎの中のんびり泳いでいた魚は音を立てて跳ね、修行中の弟子達は集中を乱し筆を誤り――金凌は、江澄の前でうんざりとした顔を隠そうもせず、頭をかいた。
「そうは言っても外叔上、家の仕事は全て終わらせ」
「外叔上ではなく江宗主と呼べと前から言っているだろう。お前はもう蘭陵金氏の正式な宗主なのだからいつまでも子供のような態度をとるな!」
「でも外叔上は外叔上に変わりないし、ちゃんとした場ではしっかりするよ」
「おっ…前は!ああ言えばこう言うッ…!!」
 江澄の右腕が大きく振り上げられると同時に、金凌はギョッとした顔をし、そばにあった真っ白な服を掴み、その影に座り込んだ。雲深不知処の清らかな空気をそのまま映したかのような純白の衣装は藍氏の象徴でもあり、さらに言えば今まさに金凌が掴んで皺だらけにしたその白衣の主は、そんな藍氏のなかでも一際この白衣が似合う人物だった。この深い森のように静寂で、清らかで、そして、雄大な男――藍曦臣である。
「江宗主、落ち着いてください。金宗主も」
「…申し訳ありません沢蕪君。しかし、貴方もいつまでも金凌を甘やかさないでいただきたい」
「沢蕪君からも言ってください!この金凌は、決してここで遊んでいるわけではなく、衰退した蘭陵金氏を立て直すために!ここに!学びに!来ているのだ、と!」
「金宗主…そうは言っても、私も修行中の身なので誰かに教えを授けられるような立場ではないのですが…」
 困りましたね、と、薄く口角を持ち上げた藍曦臣は、ここにきてようやく持っていた筆を硯に置いた。あの騒ぎの中、まったく乱すことなく筆先を滑らせていた藍曦臣は、自分の後ろで縮こまっている金凌を優しく振り返った。そして、それからゆっくりと顔を上げ、目のまえで目を吊り上げている江澄を困ったようにじっと見つめた。

 先ほどまで江澄と金凌がギャンギャンと騒いでいた場所、実は、数か月前から藍曦臣が閉関している部屋の中であった。観音堂での騒動の後、藍曦臣が閉関していることは周知の事実ではある。が、閉関してから二週間程した辺りでまず金凌がここに訪ねてくるようになり、それを追いかけるようにして、江澄も度々訪れるようになっていることは、藍氏と、金凌と江澄の近しい関係者しか知らないことだった。
 もはやこの二人が頻繁に訪れるようになってからは、閉関中であることを忘れる程に騒がしいこの部屋ではあるが、藍曦臣自身はここ数か月ここから出ず、最低限しか俗世と関わってはいない。事実、この二人がいくら騒いでいても、それをただじっと見つめているだけのことも多いし、日によっては来訪に気付いていないのではと思わされるほどに無視されることもある。どこまでも響き渡る江澄の怒鳴り声をBGMに、瞑想をしたり書を写したり本を読んだりしているのだから驚きである。
 つまり、どれだけここが騒がしかろうと、藍曦臣は食事すらとることなく真摯に修行に励んでいるので閉関しているというのは嘘ではないのだ。

 +

 金凌が、沢蕪君が閉関していると知ったのは、藍氏から来た遣いの者から話を聞いたのが切っ掛けだった。
 当然であるが、蘭陵金氏は金光善と金光瑶のことがあり、壊滅状態に陥った。ほぼ消去法と言ってもいいような不名誉な形で、宗主はまだ幼い金凌が継ぐこととなったが、他家からの信用は無いに等しく、門弟は混乱の中で多くの者は去っていった。
 金凌は、今まで自分たちに媚びへつらうような態度をとっていた他家の者が手のひらを返したように辛辣な言葉を自分たちに浴びせてくることも、去っていった門弟たちも、特に気にしてはいなかった。正直に言うと、金氏がそういった扱いを受けることは仕方ないとすら考えていた。あとから考えると、自分が一番「蘭陵金氏」という存在に嫌気がさしていたのかもしれない。
 ただ、金凌を蘭陵金氏の宗主とたらしめしていたのは、ひとえに亡き父への愛であった。
 顔も覚えていない父だが、父は、大層立派に、そして誠実に、この蘭陵金氏の宗主になるべく励んでいたと沢山の者から聞いた。そして、自分は、そんな素晴らしい父と、父が愛した優しく美しい母(母の話は大半が外叔上から聞いたものなので、実のところ誇張されて聞かされているのではないかと金凌は疑っている)との間に授けられた尊い存在である、と。
 その意識があったからこそ、金凌は宗主として蘭陵金氏を立て直そうと覚悟を決めたし、そんな金凌をみて、江澄をはじめとして多くの者が金氏のためにと尽力してくれた。

 そんな尽力してくれた家の一つが姑蘇藍氏であり、金凌が宗主としてのふるまいを学びたいと思ったのが、姑蘇藍氏が温氏によって酷く汚された際に藍氏を立て直した沢蕪君であった。
 金凌からすると、沢蕪君は「両親の仇をとってくれた男」である。気にかかることがないと言えば嘘になるが、あの時の観音堂で、自分の両親をまるで書き損じた紙屑かのように切り捨てた金光瑶の胸を貫いたのは間違いなく沢蕪君である。色々あって自分も混乱していたのであの時は碌に話もできていなかったが、お礼の一つや二つ伝えたいと思っていたのだ。
 なのに、いざ色々教えを請いたいと思ったら当の本人は閉関したと言うではないか。しかも、どうしてもお礼だけでもと無理やり会いに行ったら、自分は沢蕪君をこんなにも尊敬しているのに、まるで自分は大罪人とでも言わんばかりな顔をして碌に食事もとらずに部屋に閉じこもって修行をしていたのだ。

 金凌は、蘭陵金氏の立派な宗主になって父の愛した金氏を立て直す覚悟を決めていた。だからと言って、沢蕪君がこの世の悲しみを全て背負ったような顔をして孤独に生きることを無視できなかった。納得できなかった。どうして、と思ったし、実際言ったと思う。
つまりやっぱり、金凌は「お嬢様」なのだ。
 自分が沢蕪君と喋りたいと思ったら喋ってくれないと嫌だし、自分が沢蕪君に教えを請いたいと願えば教えを授けてくれないと嫌だし、自分の感謝の気持ちをまっすぐ受け入れて「どういたしまして」と自分に笑いかけてくれないと、とってもとっても嫌なのだ。
 
 そんなこんなで、半ば無理やり沢蕪君のところに押しかけ始めた金凌だが、最初は当然沢蕪君は顔も見せてくれなければ声すら聞かせてはくれなかった。
しかし、甘やかされ慣れている金凌と、甘やかし慣れている沢蕪君が揃った時点でそんな状態が長く続くわけでもなく――驚くべきことに、金凌はほんの数日で部屋に入ることを許され(部屋の前で寒い寒いと凍えていたら扉が少し開いた)、たまにではあるが沢蕪君と声を交わすようになり(勝手に沢蕪君と机を並べて色々な資料を読み込んで分からず唸っていると教えてくれた)、今では金凌が訪ねるとすぐにお茶をだしてくれる日すらあるようになった(鍛錬後にそのまま訪れて脱水症状を起こしかけていたことがあったから)。…まあ、基本的には関わってはくれないが。そういう日もあるということだ。
 お茶まで出されたら、金凌としてはこっちのものである。あくまで「姑蘇藍氏を立て直した時の話を聞く」という体裁を崩さないままに、金凌はあれよあれよと藍曦臣に関わっていった。訪ねるときには旨いお土産を大抵持参したので、当然それも二人で食べた。
どこを見ているのか分からなかった藍曦臣の瞳が徐々に金凌を映し、時折笑みを浮かべるようになり――当然、金凌のそんな行動を知った江澄が黙ってるはずもなかった。

「お前はこんなところで沢蕪君にご迷惑をかけるんじゃない!!!!!!!」

 と…つまり、こういうことである。

 +

「江澄〜、お前のキンキン声が俺のところまで聞こえたぞ」
「魏無羨!」
 今日もまた、三日ぶりに、もう何度目か数えることも不可能になった江澄のおたけびが雲深不知処に響き渡った。
 今日のおたけびは、藍曦臣が手ずから入れたお茶を飲みながら金凌が話をしていた時だった。金凌がここにいると言うことは、当然、江澄もここにいて同じようにお茶を飲んでいるということだ。金凌が楽しそうにしゃべっていると言うことは、江澄は眉間に皺を寄せて難しい顔をしながら歯を食いしばっているということだ。
 そして、金凌の話が蘭陵金氏が新たに試みた政策の話から、いつも自分に小言を言ってくる外叔上の愚痴に移行した辺りで…遂に江澄の腹の底から雲深不知処の空気を震わす怒声が飛び出てきたのだった。
「魏無羨!お前には関係がないことだ、口を出すな!」
「そうは言ってもよ江澄〜、門弟たちがお前のでかい声に怯えて修行にならないって泣いてるんだよ」
「そっれは……そもそも!金凌!お前が沢蕪君の邪魔をしているから私はそれを止めに来ているのだ!」
「外叔上、何度も言っていますが、私は沢蕪君に学びに来ているのです。蘭陵金氏を立て直す為、沢蕪君にこそ話を聞きたいのです」
「私だって雲夢江氏を立て直した経歴があるのだ。私がいくらでも話を聞かせてやる」
「外叔上の武勇伝はもう耳にタコができるほど聞いたよ」
「そんなには喋ってないだろう!」
「江澄、都合悪くなったらすぐ怒鳴るのやめたほうがいいぞ」
「そうだそうだ!」
「ッ魏無羨!金凌!」
「…困りましたね」
 いつの間にか魏無羨と金凌が二人揃って江澄を責め立てるという構図ができてしまい、流石にこれは…と、藍曦臣が口を挟もうかと顔を上げた。そして、今にも噴火しそうな顔をした江澄と向かい合って、金凌が半分魏無羨の影に隠れながら真っ黒な袖口を掴みながら目を吊り上げるのを見た。
 藍曦臣はまず、人の影に隠れながら自分の意見をいう金凌を注意したほうがいいかと考えた。しかし、己が人に何か注意できるほど偉い人間であったかと思い直して、口を閉ざした。だが、自分が口を閉ざしている間にも三人は益々ヒートアップし、このままいけば江澄が紫電を振り回すのも時間の問題な気もしてきた。
 この部屋は自分が生活している場であり、壊されるのは非常に困る。だから、自分は今から人に教えを授ける為に言葉を発するのではなく、自分の部屋を壊されないようにするために声をかけるのだ。藍曦臣がそんなことを考えながら口を開こうとして――。
「なんでもかんでもガミガミ、お前の方が金凌よりよっぽど聞き分けのない子供みたいだな!江澄!」
「なんだと!もう一度言ってみろ!」
「ああ、言ってやるさ、江澄…違うな、お子様江澄のことは阿澄とでも呼んでやった方がいいかもしれないな」
「魏無羨…ちょっと、そこまで…外叔上も落ち着いて」
「阿澄はそんなにすぐ頭に血が上って大丈夫か、魏哥哥は心配ですよ」
「ッッ黙れ!」
 なぜか今日は、江澄と魏無羨の舌戦が絶好調だったのだ。それは、今日がたまたまお互いにそんな気分の日だったのかもしれないし、何か琴線に触れるような発言があったのかもしれないが、詳しいことは分からない。
 ただ一つ確かなのは、この二人がこの場でこんなにも激しく言い合いをしているのは初めてだということだった。手が出ていないのが奇跡だとすら思える状況に、さすがの藍曦臣もこれはマズいと腰を上げざるを得なかった。
「江宗主、落ち着いてください」
「沢蕪君!こんなガキのことなんて阿澄って呼んでやればいいんだよ!」
「貴様ッッ沢蕪君を巻き込むな!」
「外叔上…外叔上!流石にここで紫電は」
「やーい金凌に注意されてやんのー」
「ッ」
「お二人とも、一旦落ちつきましょう」
「阿澄、ほら、お前がうるさいってよ!」
「黙れ魏無羨!そもそも貴様が」

「いい加減になさい、魏無羨――阿澄」

 藍曦臣がその一言を発した瞬間、部屋は静寂に包まれ、外を飛ぶ鳥のさえずりだけが響いていた。藍曦臣の声は決して大きくはなかった。しかし、荒れ狂う海をたった一滴の雫で鎮めたかのように、その一言であっという間にこの場を支配したのだ。
 金凌は呆然としながらも、声が空気に溶けた、と感じた。沢蕪君が声を発した瞬間、この部屋の空気がガラッと変わったからだ。恐ろしいほどに清く、冷たく、美しいこの空気を金凌は知っていた。それは、この部屋の扉をでたすぐそこにある…雲深不知処そのものだった。
 これが、姑蘇藍氏の宗主――そう思うと、金凌は益々沢蕪君の話を聞いてみたいと思った。自分の両親の仇をとってくれた、この優しく、大きな宗主に。
 なんて、金凌が感動を覚えていると、金凌の横を、江澄がぬらりと通り過ぎていった。
先ほどまでの興奮しきった様子からは打って変わって静かになっていたが、どこか様子がおかしい。うつむいていたので誰からも顔は見えなかったが、いつも堅苦しいほどにピンと伸ばされた背筋はのっぺりと丸まっており、どこか宙を浮いているかのように足元もおぼつか無い様子だった。
 当然、そんな江澄の様子に魏無羨が気付かないはずもなく、金凌と魏無羨は二人で江澄の動向をいぶかしに気に見つめていた。だというのに、当の江澄は、そんな二人を視界にすら入れることなく、ぬらりぬらりと藍曦臣の元へと足を進めている。
「…江宗主?」
 たった一言で場を支配した藍曦臣と言えど、大人しくなったかと思うとよたよたと自分の元に近付いて来る、明らかに様子のおかしい江澄には困惑していた。しかもその上、いきなり両手を握り締められたものだからたまったものではない。
「どう、されたんですか…先ほどは無礼な呼び方をしてしまって申し訳ありませんでした…が…あの……江宗しゅっ」
「師姉」
「――は?」

「師姉」

 金凌は瞳が零れ落ちそうな程に目を見開いた。魏無羨は顎が抜けそうな程に間抜けに口を開け、藍曦臣は目の前に立つ男をじっと見つめ――江澄は、まるで、愛しい姉が目の前にいるかのような優しいまなざしで藍曦臣を見つめていた。
「師姉」

 江澄が三度、藍曦臣を見つめながら姉を呼んだその瞬間、魏無羨の叫び声が雲深不知処に響き渡り空気が震えた。

 +

 外叔上がおかしくなってしまった。
 あの日、外叔上が沢蕪君を「師姉」と呼んだあの日から、外叔上には沢蕪君が母上に見えるようになってしまったのだ。自分でも自分が何を言っているかまったく意味が分からない。
 あれから魏無羨や藍先生、沢蕪君、含光君総出で外叔上の異常について原因を調べているが、未だに原因は分からないままだ。魏無羨なんて、「あんなごつい男と師姉なんて似てもにつかない。似てるところが欠片もない。それを師姉と呼ぶのはありえない」と憤慨していた。そして「そもそも師姉は…」と話を続けようとしたところで、ふとコチラを見て、へにょりと眉をハの字にしてから口を閉じた。
 正直に言うと、私はまだ母上のことについて、魏無羨に語ってもらいたくないと思うほどにはこの男のことを恨んでいる。「いいよ」と言えるほど自分はできた人間でもないし、優しい男でもない。それに、死んだ両親や、親に甘えることすら許されなかった自分のこと、自分を育ててくれた外叔上のこと、色々なことを考えて、きっと一生自分はこの男を許すことは無いのだろうと思う。ただ、こいつが悪い男ではないのは知っているので、一生口をきかないとか、いつか殺すかと言われたら別にそうでもない。ただ、許さないと決めている、それだけだ。
 とまあ、話は脱線したが、周りの混乱を気にかけることすらなく、外叔上はあれから沢蕪君を「師姉」と呼び続けている。
 当初は、自分が沢蕪君の邪魔をするのを止める名目でこの雲深不知処に来ていたはずの外叔上だが、いまでは率先して「師姉」に会いに外叔上が自主的に来ている。そして、外叔上を心配した自分と魏無羨がそれを見守る為にここに来ている。閉関とは何だったのかと思わざるを得ない騒がしさだ。(もしかしたら前からそうだったのかもしれないが)
完全に立場が逆転して初めて、自分がここに入り浸っている時に毎度毎度外叔上も来ていた理由が分かった気がした。要は、心配してくれていたのだろうな、と。そう思うと、なんともむず痒い気持ちだ。
「師姉、今度蓮花塢に遊びにきてください。師姉の好きな花が咲きましたよ」
 今日も今日とて外叔上は絶好調で沢蕪君に話しかけている。いつもカリカリと怒ったような顔をしている外叔上が、もう半分とろけたような顔をして沢蕪君に話かける姿を見て、むず痒いを通りこして寒気がした。正直とても気味が悪い。吐きそうだ。現に、部屋の入口にいる魏無羨も舌をだしてオエッと顔を背けていた。
 ここ最近ずっと外叔上のこの顔をみているが、いつまで経っても慣れない。気持ち悪い。夷陵老祖の術を使う者を小間切れにして犬の餌にしていた頃の外叔上に戻ってきてほしいと思う日が来るとは思わなかった。
 ここまでくると、もし将来外叔上が結婚するときに自分は大丈夫だろうかと心配になってくる。外叔上がお嫁さんに向かって優しく微笑んでいる時に吐き気を催したらどうしよう。いや、さすがにそれは無いと信じたい。だって自分の愛しい嫁に向かって「脚を折るぞ!」と言っている外叔上の方がよっぽど嫌だし…ここまでくると、外叔上がちゃんと結婚できるのかがそもそも心配になってきた。
「師姉、先ほどから休みなく仕事をしすぎでは?そんなに師姉に仕事が回されているのですか」
 沢蕪君(師姉)にかまってもらえず不満なのか、眉間に皺を寄せながら遂に外叔上は沢蕪君の手を取って無理やり作業の手を止めた。以前の沢蕪君なら「いえ」などと、返事になっているのかいないのか、よくわからないことを言ってまた作業に戻っていただろうが、沢蕪君は外叔上に言われるまま手を止めて、外叔上の顔を見てにっこり微笑んだ。
「そうですね、では皆さんでお茶にでもしましょう」
 沢蕪君は、外叔上がこうなってしまった辺りから、完全に無視する日はほとんどなく、外叔上としっかり目を合わせて話すようになっていた。原因はなんであれ、自分の一言が外叔上を狂わせたと思って責任を感じているのかもしれない。
「金凌、白湯を持って来るよう伝えてくれ」
「えー、せめてお茶にしてよ。どうせだったらお茶菓子も持ってきてさ、皆で食べようよ」
「何を言っている、師姉は休憩するときは白湯を飲むと決まっているだろう」
 知らねぇよ、物心ついたときには母上いなかったんだから…と言うのはタチの悪い冗談ではあるが、思わず口元がピクリと痙攣した。外叔上から母上の話を聞いている時に薄々感じてはいたが、外叔上の姉至上主義は想像を超えていた。そしてむしろ、こんなにも鬱陶しくて気味が悪い外叔上を受け入れていた母上の偉大さに震えそうだった。さすが、母上、できた女性だ。
「いくら甥とは言え、金宗主に対してそのような物言いはいけませんよ」
 沢蕪君が先ほどまで広げていた書物を片付けながら外叔上に注意すると、外叔上はしゅんとして、ちょっと頬を膨らまして不満げな顔を、オエ。…オエッ……。
「江澄〜、沢蕪君、白湯ここに置いておくからな〜」
 突然目の前に合わられた黒い物体に驚いて身を引くと、魏無羨の衣だった。つい先ほどまで部屋の入口でむすっとしながらだらだらしていたのに、いつの間にか白湯を用意しに行っていたようだ。
 あまりの用意周到さに、この男も「師姉は休憩の時は白湯に決まってるだろ」と言い出したらどうしようと恐る恐る顔を見上げると、そこには、この事態になってからずっと変わらず、面白くなさそうにふてくされているような顔があったのでそこは一先ず安心だ。
 ただ、魏無羨が持ってきた白湯と湯飲みが乗った盆を自分の目の前に置いて部屋から出て行った時…部屋を出る直前に、沢蕪君のことを睨みつけたのは気のせいだろうか。

 +

「師姉、そろそろ蓮花塢へもどります」
「そうですか」
「師姉、もしよければ、あの汁物…また、作ってください」
「…機会があれば」
「では、師姉も身体を冷やさないように」
「気を付けてくださいね――阿澄」
「よし、行くぞ金凌」
「はーい。沢蕪君、お邪魔しました」
 そうして、江澄と金凌がいなくなり、寒室にまた静寂が帰ってきた。鈴がなるように鳴く虫の声聞きながら藍曦臣が空を見上げると、あと少しで夜の暗闇がこの雲深不知処の山々を包み込もうとしていた。遠くには一つだけ輝く星が浮かんでいる。
 藍曦臣はその星に手を伸ばしても届かないことを既に知っている。そもそも、藍曦臣は幼い頃から星がほしいと思うような子供ではなかった。届かないものに手を伸ばすよりも、自分の手の中にあるものを零さないように持つことが大切だったのだ。
 だが、この時は、気まぐれに空に浮かぶ星に手を伸ばしてみようかと思った。
 夜の暗闇では他の星達に紛れてしまうその星に、昼と夜の境の今だからこそ一つだけ輝いて見えるその星に――その、哀れで、孤独な星に、手を伸ばし――。
「沢蕪君」
「魏の若君」
 魏無羨が暗闇から、藍曦臣に声をかけた。藍曦臣から見て建物の影なっている場所にいた魏無羨は、壁にもたれ掛かりながら腕を組み、こちらを見つめていた。
「沢蕪君、どういうおつもりですか」
 魏無羨からの問いに、藍曦臣はふっと息を零した。光の加減で表情がしっかり見えるわけではないが、魏無羨は、いつも真っ直ぐで分かりやすい。だから、藍曦臣は男がどんな表情で…どれほど鋭い眼差しで自分を睨みつけているのか、手に取るように分かった。
「江宗主の魂に何らかの異常をきたしている今、刺激しないよう接するのが賢明かと思いまして」
「へえ、流石沢蕪君、お優しいんですね」
「言いたいことがあるのならば、聞きましょう」
「なら言わせていただきますが――江澄は貴方ではない」
「そんな、当たり前のことを…」
「理解しているのなら、それでいいです。ただ、それだけ伝えたかっただけなので。…ああ、あと、今日最後にアイツが言っていた汁物は師姉がよく作ってくれた蓮根と骨付き肉の汁物のことです。『機会があれば』まあ、食わせてやったら喜ぶんじゃないですか」
 魏無羨に憎しみにも似た感情をぶつけられても、藍曦臣は笑顔で「では、いつか」と言い返した。魏無羨にとっても大切な「師姉」という存在を部外者が土足で踏みにじっているのが耐えられないのであろうことも、藍曦臣は理解していた。
 魏無羨が去る背中を見届けることなく藍曦臣が再び空を見上げると、暗闇がより浸食してきていた。そして、先ほどまでたった一つで光っていた星も、他の星達に飲み込まれていた。だが、数多の星が周りにあろうとも、その星の輝きが一際目立っていた。まるで自分は他とは違うのだと言わんばかりに、一人で必死に光っている。
 一つだけで瞬いていた時も、星達に囲まれた今も、その星はいつも孤独だ。藍曦臣は再び星に手を伸ばしかけて――やめた。己なんぞが、星に手が届いたからなんだというのだろうか。星の孤独を埋めることもできなければ、孤独を受け入れる覚悟もないというのに。
「…あーちょん」
 小さな声で、自分を見つめながら自分ではない女性を見る男の名を呼ぶ。
「あーちょん」
 本来、自分が口に出していい呼び名ではない。けれど、自分がこう呼ぶことで、あれほど苛烈な男が、まるで幼子のようにふにゃりと笑うのだ。
「…」
 たかが呼び名一つで救われる人間がいるのならば、それでいいのではないか。それが、死人を冒涜する行いであったとしても――。

 藍曦臣は部屋の中へ戻った。当然、夕食は食べなかったし、その日の夜は眠らなかった。
 部屋の中で瞑想しながら、また朝が来て、夜になるまでの時間を過ごすのだ。藍曦臣は生きている。生きているから、悩みもすれば悲しみもする。生きているから、こんな自分でも誰かの役にたてるならば、役に立ちたいと思うのだ。それが例え偽善であっても、自己本位な行いだとしても。

 +

「師姉」
 あれから三月が立ったが、江澄の異常は治らなかった。治らなかったが、江澄は江宗主として問題なく振舞い、特に体調を崩すこともなく過ごしていた。空いた時間に雲深不知処に来る、という以外は、江澄はまったく問題がなかったのだ。
 いくら調べても原因は分からないし、しかも放っておいても特に問題がない。江澄がデレデレしながら藍曦臣に会いにきても、藍曦臣が上手く対応する。そうなったら、もはや周りの人間はこの事態について深く考えないようになっていった。
 まあ、いつか戻るだろう。
 皆が口を揃えてそう言いだした辺りから、江澄は金凌を伴わず一人で雲深不知処を訪れることも増えていった。そもそも、二人とも宗主という忙しい立場なのだ、そう簡単に予定を合わせてここに来れるようなものではない。
「師姉」
「阿澄、最近暑くなってきましたが、体調は崩していませんか」
「…師姉、俺はもう立派な大人です。子供扱いはやめていただきたい」
 むすっと膨れる江澄に、藍曦臣は笑みを零した。藍曦臣はここ三月、藍曦臣であり江厭離であった。寒室で、眠ることもせず、食べることもせず、江澄の来訪を待っていた。そして、江澄と話をすればするほど、藍曦臣としての個が失われていく感覚がした。
 藍曦臣はこのままいけば、数か月前に見た星に手が届くような気がしていた。そして、その星に手が届いたときに、自分に足りなかった何かを得られる、そんな風に考えるようになっていた。
「阿澄、今日は貴方に贈り物があるんです」
「えっ」
「ずっと前に約束していたものです」
 藍曦臣が奥から出してきたのは、蓮根と骨付き肉の汁物だった。無理を言って、魏無羨に作り方を聞いて、門弟と共にこれを作ったのだ。門弟は、藍曦臣が遂に食事をとるようになるのだと喜び、部屋の外に出てきて料理をしている姿をみて涙を流した。これを切っ掛けに、また以前のように彼を師と仰ぎ、教えを授けてもらえるような生活に戻る未来をみたからだ。
 ただ、率先して料理を作ってくれていた魏無羨と、その傍にいた藍忘機と様子を見に来た藍啓仁の三人だけは、藍曦臣の存在の不安定さに気付き眉をひそめていたが――。
 皆で作った汁物を江澄の前に差し出すと、江澄の頬が赤く染まった。そして、いつも以上にどこを見ているのか分からない瞳で、恍惚とした顔をして汁物を掬った。まるで幼子が宝物に触れるように持ち上げた蓮華から、白い湯気がほわりと上がった。
 どうぞ、とは言葉にしなかったが、藍曦臣は笑みを深めることで江澄がそれを食べることを促した。そして、江澄も、藍曦臣の笑みに答えるように大きく笑みを浮かべてから、ぱくりとそれを口に入れた。
「味はどう」
 ですか、と藍曦臣が言葉を言い切る前に、江澄の異常はすぐに表れた。
 江澄は汁物を口に入れた瞬間急に顔を歪め、勢いよく咳き込んだ。先ほど飲み込んだ一部も吐き出したようで、口からはだらだらと唾液だかなんだか分からないものが垂れていた。咳き込んで、ぐしゃぐしゃと胸をかきむしる。皺ひとつない紫の衣があっという間に乱れたと思ったら、ぐうううと獣のように唸りだす。
「うぅう」
「どうしました!」
「ぅぅうああああああ!」
 江澄が大きく腕を振り回し、机の上にあった汁物が吹き飛んだ。壁に叩きつけられた食器が大きな音と共に砕け散り、中身はそこら中に散乱した。叫び続ける江澄は、今度は頭を抱えてその場にうずくまった。
「阿澄!」
「ううう、ぐうううう!」
「阿澄!どうしましたか、阿」
「お前がその名で私を呼ぶな!誰だ!お前ッ…師姉じゃない、師姉じゃない!」
「阿……江、宗主」
「どうした!」
「外叔上!」
 ここまでの騒ぎになって誰も気が付かないわけもなく、魏無羨と、タイミング良く来ていた金凌が部屋に駆けつけた。寒室の扉を開けて目に入ってきた部屋の惨状と江澄の様子に二人は目を丸くして驚いていたが、先に金凌が動いた。床に丸まってうなる江澄に金凌が駆け寄り、名を呼びながら優しく背をさする。そして、魏無羨は部屋の入口に立ったまま、江澄の前で呆然と立ちすくむ藍曦臣をじっと見つめていた。
「外叔上!僕の声が聞こえる!?外叔上!金凌が来たよ!」
「うう、ううう!」
「外叔上!」
「師姉は…もう、死……いない…金凌…ぅうう!」
「外叔、上」
「誰、だ…師姉じゃない!師姉じゃない!」
「外叔上!いいから、分かったから、落ち着いてよ!大丈夫だよ外叔上ぇ!」
 正気に戻りかけている江澄を、金凌だけが抑えていた。金凌だけが、江澄に手を伸ばし、金凌だけが江澄に向けて声をかけていた。
「沢蕪君、俺は言ったはずだ。江澄は貴方じゃない、と」
「……ええ」
「誤解があったら嫌だから言っておくけど、俺はあの汁物に細工なんてしてないよ」
「そう、でしょうね」
「最初から師姉の作るあの汁物と同じものなんて、作れるわけないんだ。俺たちは師姉じゃないし、師姉になれるはずもないんだから」
「…」
「外叔上ッ!」
 どうやら気を失った江澄に、金凌が悲痛な叫び声を上げた。半分泣きながらゆさゆさと江澄の身体を揺らす金凌を見かねた魏無羨がゆっくりと二人に近付き、江澄を抱えあげる。
「江澄はあちらの部屋で休ませる。部屋の片づけをするように人も呼びますか?」
「…ええ、お願いします」
「外叔上!外叔上!ッ魏無羨!外叔上は大丈夫なのか!?」
「こいつが起きたら分かるさ」
「おじうえぇぇええ〜」
 魏無羨が江澄達を連れて部屋を出ると、そこには荒れ果てた部屋と呆然とする藍曦臣だけが残された。

 ――――こんなはずではなかった。

 藍曦臣は、先ほどの場所から一歩も動かず立ちすくんだまま目を閉じた。
 別に藍曦臣は本気で「師姉」になれるなんて思ってはいなかった。彼らの「師姉」になりたいとはもっと思っていなかった。ただ、自分ではない何かに――それも、もうこの世にいない存在になることで、本当の孤独を理解し、手に入れられると考えていたのだ。かつて、大切な友を失ったときの自分が理解できなかった本当の孤独を知れば、何か変わるのではないかと思ったのだ。
 それに、この行為は江澄にとっても悪くない結果をもたらすはずだった。大切な人が死んだという悲しい記憶をなかったことにして――自分が見たい世界だけを見ることは、それは幸せなことではないのか。

「江澄は貴方ではない」

 以前、魏無羨に言われた言葉を藍曦臣は思い出していた。
 自分の見たものだけを信じて――言い換えれば、見たくないものは見ないでいたあの頃の自分は、少なくとも今よりも穏やかだった。色々と思うことはあれど、「もしかしたら」という希望を持てていた、そう、あの感情は間違いなく希望だった。
 それがどうだ、今は希望なんてものはない。大切な友と一緒に失われてしまった。大切な友を信じ切ることができなかった自分への失望、友を分かった気でいた自分の慢心、友をこの手で貫いた感覚…すべて知りたくなかった。気づきたくなかった。
 気付くから辛い思いをするのだ、知るから悲しいと思うのだ。――それなら、知らねばいい。
 見たい世界だけを見るのはそれほど悪なのか。それで救われるなら、それでもいいではないか。知ってしまった自分にはもう無理だが、江宗主…阿澄は折角忘れられたのだ、それならそのままで――。
「兄上」
「…忘機」
「片づけを」
「ああ…ありがとう」
 藍忘機に声をかけられて、藍曦臣は改めて部屋を見回した。割れた食器とこぼれた汁物さえ片してしまえば特に問題はないようで、これだけならばわざわざ手伝いを呼ぶこともなかったなと申し訳ない気持ちになった。
 カチャカチャと陶器が擦れる音だけが響く部屋で、兄弟二人。最近では、兄弟が二人きりになることはめっきりなかったので、藍曦臣はひどく懐かしいような気持ちになった。自分が守らねばと思っていた弟は随分と大きくなった。まあ、子供の時から感情を表に出すのだけは相変わらず苦手で――いや、いつまでも弟のことを分かった気でいるのはいけないかもしれないか。
「兄上」
「ん?」
「兄上が作った、これ、美味しかったです」
「、食べたのか?」
「はい」
「そうか…」
「もしよければ、また、作ってください」
「……機会があれば」
「期待しています。兄上」
「…そうか」
 部屋の片づけが終わり藍忘機が部屋を退室した時、空はすっかり暗闇に包み込まれていた。雲一つないそこには、相変わらず一際輝く星が一つと、その周りに数多の星があった。
 藍曦臣は星に手を伸ばそうと考えて、今度はすぐにやめた。一際孤独に輝いていると思っていた星の傍にも、同じように力強く光る星を見つけたからだ。
 もしかすると、自分が勝手に孤独だと思っていた星は、実は競いあう仲間がいたのかもしれない。寄り添う友がいたのかもしれない。
 孤独とは、周りがそうさせるのではなく、己がそうさせるだけのものかもしれない。

「兄上」

 弟の声が頭の中に響いた。
 ――――ああ、自分が江厭離でもなく、藍曦臣でもなかったこの数か月の間でも、忘機にとっては己は「兄上」でしかなかったのか。

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「この度は、本っっ当に申し訳ない!!!」
 ほぼ土下座のような形で頭を下げる江澄に、藍曦臣は苦笑いするしかなかった。
「頭をあげてください、無事に正気に戻れてなによりです」
「そういうわけにはいきません。沢蕪君にはご迷惑をおかけしてしまい」
「大丈夫ですよ。江宗主がお元気なら、それでいいのです」
 ひたすら謝り続ける江澄に、とてもではないが、自分のほの暗い目的の為に逆に江澄を利用していたとは言えず、藍曦臣はどうしたものかと頬をかいた。しかし、そんな事情なんぞ知らない江澄からしたら、当然そんな言葉一つで納得ができるわけがなかった。
「何かお詫びを!」
「いえ…本当に…」
「それじゃあ私の気が収まりません。分かりました、それなら罰を与えてください」
「流石に他家の宗主を罰するなど…」
「ではどうしたら私は貴方に償えるというのですか!」
 真っ赤な顔をして歯を食いしばる江澄に、藍曦臣はやはり苦笑いしかできない。こんな日に限って助けに入ってくれそうな魏無羨は藍忘機と仲良くお出かけ中だし、金凌に至ってはどうやら少し前から金氏でちょっとした諍いがあったらしく、とてもではないがここに来ている場合ではないようだった。
「沢蕪君に…あんな恥ずかしい姿を見せてッ…私は!」
「恥ずかしいなどと、あの時の江宗主は病にかかっていたようなものなのですから」
「そうだとしても!そんな、過去に縋っているようなあんな姿…」
 そう言って下を向いてもごもごなにか言っている江澄に、藍曦臣は声をかけた。
「過去に縋るのは、そんなにも恥ずべきことですか?」
「当たり前でしょう!!!どれだけ縋っても過去には戻りようがないのですから」
「…そうですか。ところで江宗主、一つ質問してもいいですか」
「なにか?」
「夜空に浮かぶ星を、手に入れたいと欲したことはありますか?」
 藍曦臣は、かなり前からもう、大声で笑いたい程におかしい気持ちだった。自分があれほど固執した「過去」を、江澄はあっさりと受け入れたのだ。戻りようのない過去に縋るのは恥ずべきことだと、考える間もなく言い切った。
 自分は友を失い、閉関した。ひたすら過去を悔い、己の無力を悔い、先を見ようとしなかった。逃げ、と言われれば逃げなのかもしれない。しかし、あの時そうしないと、自分は確実に潰れていたと断言できる。
 そして、今気づいた。自分には閉関し過去を振り返る時間が必要だったが、目の前のこの男にとって、自分が潰れそうな時に必要なのは過去を振り返る時間ではなく自分の力で前に進む足だったのだ。
 進みながら過去を過去として受け入れた男と、過去に縋りながらようやく自分と折り合いをつけた己――こうしてみると、なかなかに楽しい対比だ。
 星についての質問は、興味本位だった。単純に、この男がその問にどう答えるのか気になったから咄嗟に尋ねた。それには特に深い意味は全くない。
「星ですか?」
「ええ」
「そんなものを手に入れてどうするんですか?管理に困るでしょう」
 まったく考え込むこともなく、不思議そうな顔をしてそう言ってのけた江澄に、今度こそ本当に藍曦臣は笑いだしそうになってしまった。そうか、星を手に入れるのが目的ではなく、手に入れた後にどうするかを考えるのか――そうか。そうか。
「江宗主」
「はい」
「申し訳ありませんでした」
「…はい?」
「先ほど言っていたお詫び、というわけではないのですか、江宗主がよければ、蓮花塢へ連れて行ってもらえませんか?蓮の花はもう枯れてしまっているかもしれませんが」
「え」
 江澄が、今日一番困惑した顔になった。それも当然だろう、閉関していたはずの人間から、自分の故郷に行きたいと言われたのだから。
「しかし、沢蕪君は」
「そうですね…少し、気分を変えようかと思いまして」
「はあ」
「江宗主が見ているのと同じ景色を、私も見てみたいな、と」
 そう言って微笑んだ藍曦臣に、江澄は訳もわからないまま是と答えた。

 江澄の背中の向こう、開け放たれた寒室の扉の先にぬけるような青空が広がっていたのを、藍曦臣だけが見ていた。藍曦臣にとって、あの空の向こうにはなにかあると感じさせるほどには美しく、特別な空だった。
 藍曦臣が寒室から足を踏み出し、再び雲深不知処から出るその時、隣に江澄が立っていることに不服であった藍忘機がしばらく拗ねて口をきいてくれなくなることは、また別の話である。
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