風見裕也の野望♀



「なあ風見。」
「なんでしょう、降谷さん。」
「お前、俺が命令したら奥さんと子供殺せるか?」
「……は、」

 なんでもない、普通の日だった。
 忘れもしない、それは三日間降り続いた雨がようやくあがり、一気に暑くなった春先の日。その頃、降谷さんはまだトリプルフェイスを操って忙しい毎日を過ごしていて、少し空いた時間にコチラの仕事をしに来ていた。

朝五時、日が昇りほんのり明るくなってきた部屋には俺と降谷さんだけで、パソコンをタイピングする音と書類をめくる音だけが響く静かな空間。それを切り裂いたのが、先ほどの降谷さんからの問いだ。

 妻子を殺す。

 それは、俺にとってありえないことだった。遠くの国で今も戦争が起こっていることよりも想像することが難しく、明日地球が滅びると言われることより現実味がないことだった。
 今朝だって、早くに出勤する俺を玄関で見送ってくれた妻は、あくびを噛み殺しながらも俺の頬にキスをして笑っていた。「こんなこと、いつまで新婚気分なんだって笑われちゃうかしら」なんて恥ずかしげに言いながら手を振っていた彼女は、俺が警備会社に勤めていると信じて疑いもしていないだろう。
 滅多にゆっくり遊んでやることもできない娘は、よだれを垂らしながら大の字になって眠っていた。再来月の五日に三歳の誕生日を迎える。こんな頼りない父親の俺を頼りにしてくれていて、顔を見ると抱っこ抱っこと脚にしがみついてきてくるその笑顔と言ったら堪らない。未だに「大きくなったらお父さんのお嫁さんになる」とは言ってもらえてはいないが、抱き上げるのが重くなってきたとはいえ、お嫁さんになる話は娘には少し早すぎるからそれでもいい。

 妻子を殺す。
 それは、つまり一体どういうことだ…?

「ははっ、冗談だ。」
「…じょう、だん、ですか。」
「ああ、冗談だ。朝からすまなかったな。気にしないでくれ。」
「……随分と…趣味がいい冗談ですね。」
「そうだろう?ポアロでも話が面白いと評判なんだ。今度君も来るといい。俺が作ったケーキでもサービスしてやるよ。」
「結構です。」

 そんな話をして、その日は他の職員が出勤してくる前には降谷さんはもうその場にはいなかった。その後、バーボンとしてどこかに行ったのか、安室透として言っていた喫茶店にバイトに行ったのかは分からない、俺達に降谷さんの行動を把握する権限はないのだ。分かったことは、今日の「降谷零」がもう終わったということだけだ。
 朝に来て朝帰るならわざわざ堅苦しいスーツなんて着なければいいのにと思うが、降谷さんはどれだけ短い時間でもこちらの仕事の時はスーツを着るようになっていた。以前は私服でふらっと立ち寄ることもあったのだが、それがなくなったのはいつ頃からだっただろうか。
 私服でここにいるのを見られると困るから、なんて本人は言っていたが、俺は違うのではないかと予想している。おそらく、降谷さんはスーツを着ることで自分の意識を切り替えているのだろう。そして、スーツを着ることで、俺達に「降谷零」の時間であることを知らしめているのだ。
 だからだろうか、俺は、スーツを着ている降谷さんを見ると、どうにも緊張して仕方がない。きっとスーツを着た彼は、先ほどと同じように「任務の為に家族を殺すか」と言われたら即答するのだろう、「勿論」と。

 俺は、そんな降谷さんが苦手だ。嫌い、ではない。尊敬、もしている。ただ苦手だ。

 国の為に簡単に自分を捨て、他人を捨て、躊躇い無く冷酷な判断を下せる降谷さんは、俺の理解のできる範疇の人物ではなかった。人間、古今東西、昔から自分が理解できないものを恐ろしいと思う感情はごくごく一般的なものである。
俺は、降谷さんと同じような生き方はできない。したいとも思わない。ただ、純粋に凄い人だと思う。
降谷さんがいなくなったデスクをじっと見て、今朝のことをまた考える。そして、唐突に理解をした、俺が降谷さんのふるいから落とされたことを。

 なんでもない、普通の日だった。俺は未だにこの日のことを夢にみる。

 未だに、何と答えるのが正解だったのかは、分からない――――。


  


「お疲れ様。」
「貴女も、お疲れ様です。」

 組織を検挙することに成功し、降谷さんが安室透とバーボンの仮面を捨てたのは今から二週間前の話だ。
 検挙するにあたり、公安お得意の違法捜査を数えられないくらい行い、結果的に五つのビルで‘ガス’爆発が起き、四十七件の銃声‘らしき’音を聞いたという通報が入り、主要道路の一つの橋が‘老朽化’の為に崩れ落ちた。ネットではテロだなんだと言う情報が錯綜し、暗闇の中に真っ黒なオスプレイのようなものを飛んでいるのを見ただなんて言う都市伝説的な噂話も出回っていたが、あくまで噂話。その辺はすぐに鎮火していくだろう。
 処理すべき事案が山のようにあり、あっという間に俺のデスクは書類の山に埋もれた。各方面から問い合わせの電話はひっきりなしに鳴り続け、ふと気が付けばもう一週間は愛しい家族の顔は見ていないし、このシャツだって昨日から変えていない。たまらずこの喫煙所に逃げ…休憩をしに来たが、煙草を吸っているこの時間にもデスクには新しい書類が積み上げられ、胸のスマホもカチカチ光って着信を告げているのだから頭が痛い。

「相変わらず、忙しそうだな。」
「否定はしません…。」
「ほら、コレは私のおごりだ。味気は無いが、無いよりはマシだろう。」

 そう言って目の前の女、赤井秀一が差し出してきたのは、俺がいつも好んで飲んでいるメーカーの缶コーヒーだった。
 赤井達FBIも、最終的には合同捜査という名目を得て組織の検挙に関わった関係で、ここ最近は警視庁に毎日のように来ていた。そのため、あまりの忙しさから喫煙所に逃げてくる俺と、暇さえあればここにいる赤井が顔を合わせることも数え切れない程になってきて、今ではこうして好きな缶コーヒーのメーカーも相手の煙草の銘柄も知っているような間柄になってしまった。
 最初に降谷さんからこの女の存在を話に聞いた時は、まさかその数年後にこうして肩を並べて煙草を吸っているとは想像もしていなかったことだ。

「ありがとうございます。…そちらは、仕事の目途はつきそうなんですか?」
「てんで駄目だな。まぁ、私達の存在そのものがこの国にとっては異物だからな。いくら最後に取ってつけたように合同捜査なんて銘打っても、叩かれれば埃しかでてこんよ。」
「で、ジェイムズ氏に仕事を放り投げて貴女はここでサボっている、と。」
「…参ったな。」

 とっくの昔に短くなった煙草の灰を落としてそのままスタンド灰皿に投げ入れた赤井は、間髪いれず新しいものに手を伸ばしてマッチで火をつけた。ふぅ――と大きく吐きだした煙が一瞬だけその場に停滞し、1年ほど前に新しいものになった最新の換気扇の中へとあっという間に吸いこまれていく。
 そして、「私の仕事は報告書を上げるまでで、上層部とのやり取りはジェイムズの仕事だからな」と飄々と言ってのけた彼女を見て、橋が落ちた原因は一体どこのどいつだと口に出しそうになったが不毛なのでやめた。目をつぶっていても一字一句間違うことなく読み上げることができそうな程に作り上げたあの報告書は、今頃国交省の所にでも行って担当に頭を抱えさせていることだろう。
 この女が俺の部下でなくジャイムズ・ブラック氏の部下であったことだけが救いだ。
 
「…本当に随分疲れているな。きちんと休みはとっているのか?」
「あー、まあ、仮眠レベルですが…。」
「日本人の勤勉さは素晴らしいものではあるが、それで効率を落とすようなら本末転倒と言うやつだろう。」
「でも、俺はこれでもまだ休み貰っている方ですからね…。」
「…降谷君か。」

 そう。山のような仕事を抱えながらも俺はまだマシな方なのだ。
 降谷さんは、あの組織を検挙したその瞬間から休むことなく働き通しだ。捜査に関わった機関による逮捕した幹部連中の取り合い、後始末の押し付け合い、上層部への報告と世間への公表方法…常に何歩も先を見据えて考え、常に動き回っていた。

「彼、あの時負傷した左肩は大丈夫なのか?」
「…どうでしょう。」

 左の指に煙草を挟みながら細く煙を吐きだす赤井に言われて俺は降谷さんが負傷していたことを初めて知った。同じ組織の仲間のはずなのに、怪我の心配をする赤井よりも俺自身が降谷さんより遠い存在であることを突き付けられたような気がして、どっと疲れが増した気がした。
 降谷さんの怪我は俺が知ってもどうしようもないことは事実である。変わりに仕事を受け持つこともできないし、休んでくれと言える立場でもない。しかし、心配すらさせてもらえないこの現状が、俺と降谷さんとの距離というやつなのだろう。

 いつでも完璧な降谷零―――やはり俺は、そんな男が苦手だ。

「降谷さんは、きっと大丈夫でしょう。」
「そうなのか?」
「ええ、きっと。」

 だって、俺には降谷さんが倒れる姿が想像もできないのだ。全てを自分の手の上で転がしているかのようなあの顔をして、ピシッとスーツを着ている降谷零が倒れるなんてことは、天変地異が起こったとしてもないような気さえする。
ただ―――。

「降谷君も、少しは休めばいいのにな。この前も私の姿を見てキャンキャンと吠えかかってきたが、いつもの可愛らしさが半分は減っていたな。相当無理しているのが目に見えている。」

 目の前で煙草をくゆらせるこの女にとっては、降谷さんは完全無欠の完璧な人間ではないらしい。

「降谷さんのこと、そんな風に言うのは貴女だけですよ。」
「そうか?彼、猪突猛進って感じで分かりやすいだろう。」
「…貴女にだけですよ。」

 そうかな、なんて呑気に煙草の灰を落とすこの女だけが、降谷さんと同じところで考えを巡らせることができ、降谷さんの感情を引きだすことができる。
 俺は別件で参加していなかったが、以前に大勢の公安職員を引き連れて工藤邸に行った時もそうだった。渋る上層部を説得し、勝算があると言っていざ決行した結果があれだ。見事なまでにこの女とあの少年にしてやられ、その時参加していた上官から降谷さんが声を荒げて悔しがったという話を聞いた時は驚いたものだ。
 そしてその時、一気に赤井秀一という女に興味が沸いた。あの降谷さんにこうさせる女とは一体どんなものなのだろうか、と。

「俺、貴女と一緒にいる降谷さんはそんなに嫌いじゃないんですよね。」
「その言い方だと、普段は嫌いのように聞こえるぞ。」
「あー…、まあ普段嫌いってわけでもないですけど、得意ではないですかねぇ。」
「ほぉー、そんなものなのか。」
「そんなものですね。」
「苦手な相手の下で働くというのは、なかなかキツイんじゃないのか?」
「苦手でも尊敬はしてますから。」
「…複雑な心境なんだな。」
「はは、そんなことないですよ。」

 そうして、煙草をポイと灰皿の中に投げ込み赤井の方に向き直ったとき、自分でもよく考えたわけでもないのに、自然と口が動いた。

「そうだな…でも、貴女と降谷さんが結婚でもしてくれたら俺は降谷さんのことが好きになれるかもしれない。どうです?うちの上司は。」

 するりと口から飛び出たその言葉は、そのままキョトンとした赤井に吸いこまれた。何を言っているんだ、と思わなくもなかったが、その時は何故だかそれが物凄く名案のように思えた。
 まあ、当然ながら今までに見たことが無いくらい間抜け顔を晒した赤井から苦笑いと共に「君も相当疲れているようだ。」と返されてしまうのだが、その時は、そのことに落胆する間もなく自分のデスクにあるであろう書類の山に想いを馳せて、喫煙所の扉を閉めたのだった。

 そう、これはただの言葉遊び…のはずだった。


 


「ああ、赤井。どうです?降谷さんと結婚する気になりましたか?」
「…まったく、君も懲りないなァ」

 あれから、俺は赤井に会う度に降谷さんとの結婚を薦めるようになっていた。自分でもなにを馬鹿なことをしているのだろうと思う。ただ、あれからよく考えてみると、赤井を嫁にもらう降谷さんというものがどうしようもないハッピーエンドに思えて仕方がなくなっていたのだ。

「肝心の降谷君にまったくその気もないだろう。」
「と、言うことは、降谷さんさえその気になれば赤井はやぶさかでもない、と。」
「あり得ないという話をしているんだ。」

 もうすっかり、このほわりとした赤井の苦笑いも見慣れた顔になってしまった。目尻をだらしなく下げながら、薄い唇をさらに横に伸ばして笑うその顔は、心の底から困っているという様子ではない。赤井にとってこれは、いつもの軽口の応酬なのだ。
 かく言う俺も、こんなことが本気でまかり通るとは思ってもいない。第一、さっき赤井も言った通りに、この話には張本人である二人の意見が全く入っていないのだ。だた、俺が降谷さんと赤井に結婚してほしい、というだけの話。戦後じゃあるまいし、現代において当人達の気持ちが全く無視された結婚というものは、ほとんどみられないだろう。

「降谷さん、いいと思うんですけどね。」
「なんだったか、キャリア組で出世は間違いなし、社会的地位も金も権力も手に入ることが確約されている、だったか?」
「ええ、それに料理も上手いし話しのボキャブラリーも多い。何といっても顔がいい。」
「だが、私は困らない程度の金は貰っているし、なにより地位も権力にも興味がない。」
「降谷さんの場合は地位と権力なんてものは、能力に応じてついてくるオマケみたいなものですよ。赤井程の女性だったら、そんじょそこらの男じゃ満足できないでしょう。」
「そんなことはないのだが…。」
「貴女の仕事にだって理解があるし、貴女だって降谷さんの仕事に理解がある。ありすぎるくらいだ。もう言うことなしじゃないですか。何が気に入らないんですか?」

 俺の、降谷零がいかに赤井の結婚相手としてふさわしく、優良物件であるかというプレゼンも板についてきた。
 ちなみに言うと、「国籍が違う女との結婚は彼の出世の妨げになる」「日本とアメリカで結婚しても別々に生活しなくてはいけない」という反論に関しては、「結婚相手如きで降谷さんの出世の道が閉ざされるわけがなく」、「どうせ仕事が忙しくて毎日帰れるような人じゃないんだから、違う国で生活するくらいがちょうどいい距離感だ」と言って話がついている。
 
「じゃあ、逆に聞きますけど、赤井はどんな男がタイプなんですか?」
「タイプ、なぁ。」
「分かっていると思いますが、結婚相手として、ってことですよ。遊び相手じゃなくて。」
「おいおい…君は私のことをどんな女だと認識しているんだ…。」

 もう遊ぶほど若くないよ、と笑う女は、おそらく俺の上司と同様に自分の価値をわかっていない。若くないといいながら、その整った顔立ちやまるでモデルのようなプロポーション。この女と一晩遊ぶ為ならどれだけ出してもいいという男なんて吐いて捨てるほどいるに違いないのだ。そしておそらく、生涯の伴侶として隣にいてほしい、という男も。
 ちなみに言うと、俺は家で待ってくれている嫁と子供が愛しくて仕方がないし、赤井のように気の強い女はタイプではないのでその男達のうちには入らないが。

「私は、普通の男がいいよ。」
「普通の男…?例えば?」
「例えば…そうだなぁ、私の作った料理を旨いや不味いや言いながら笑って食べてくれて、たまの休みには一緒に遠出して旅行したり、二人で映画をみてあーだこーだと話をしたり…そんな男でいいよ。」
「…ますます降谷さんでよくないですか?」
「君が言うんだろう。『降谷さんは完璧な人間で非の打ちどころもありません』と。そんな男と四六時中一緒にいたら息がつまってしまうよ。」
「いや…流石の降谷さんでも嫁が作った料理くらい笑いながら食べるでしょう…多分。」
「そうだとしても、だ。私は結婚相手に完璧は求めていないのだよ。ほら、今日はもう休憩終わりだ。君は今からお偉方と会議だろう?」
「思い出さないようにしてたのに…。」
「馬鹿なことを言っていないで、頑張ってくるんだな。」
「言っておきますけど、貴女が壊した商業ビルの爆発事故についての会議ですからね。」
「いつもありがとう。今度は缶コーヒーでもご馳走しよう。」
「いつもと一緒じゃないですか…ま、いいですけど、行ってきます。」
「はい、行ってらっしゃい。」

 キリキリと痛む胃を押さえながら喫煙所を出た時には、既に頭はこれからの会議の流れについての思考に切り替わっており、ヒラヒラを手を振る赤井には気付くことがなかった。


  

「………」
「…風見君、どうしたんだ。」
「……娘に『遊んでくれないお父さんなんて嫌い』と…嫌い、って。」
「なるほど、反抗期か。」
「違いますよ!単純に嫌われた…!!」

 もう仕事する気になれない、純粋に家に帰って娘と遊びたい、娘と一緒にお風呂に入って、気に入っている夕方のテレビを一緒に観て一緒に踊りたい…。だが、今日もこれから他部署から上がってくる報告書に目を通してそれをまとめて統計をとって…駄目だ、帰れる気がしない。
 もう絶望しかない。

「…自分の子供というものは、可愛いんだろうな…。」
「可愛いですよ。嫁に出したくないくらいには。」
「でもまあ、その娘が四十手前になってまだ結婚もしてなかったら、さすがの君でも早く嫁に行って欲しいと思うようになるさ。」
「うぅぅ…なんですか、ついに親御さんに結婚でも急かされましたか。いい人紹介してあげましょうか?」
「結構だ。どうせ降谷君だろう。」
「よく分かりましたね。」

 言葉遊びのように降谷さんとの結婚を薦めているが、俺は結構本気だ。壁にもたれかかって天を仰ぐようにして首を上げると、最新の換気扇が目に入ってきた。音も小さく、それでいて吸引力は抜群で空気清浄機の機能まで兼ね備えているそれを見て、この部屋にくる人間のうち、どれだけの人が綺麗な空気を吸いたいと思うのだろうかといつも考えてしまう。
 ちなみに俺は数日間の休みをとって家族と山にキャンプをしに行きたいと思っている。澄んだ空気の中、娘と一緒にアウトドアをして頼りになる姿を見せて一刻も早く信頼を回復したい。

「…君は、どうしてそんなに私と降谷君に結婚してほしいんだ?」
「あー…そうですね。しいて言うなら、降谷さんにも『娘に嫌われた』だとか『買ってくる洗剤の種類を間違えて嫁に怒られた』とか『嫁さんの買い物に付き合ったらお礼だと言って靴を買ってくれた』とか…そういう、なんでもないようなことを言ってほしいんですよね。まぁ、娘に嫌われたのは何でもないことではないですけどね。大事件ですけどね。」
「…その結婚、私にとってのメリットは?」
「赤井にとってのメリット?そんなのないですよ。」
「ないのか。」
「結婚なんてメリットデメリットでするものでもないでしょう。むしろ、結婚したら確実に自分の自由は減るし、相手に合わせないといけないから疲れることだってあるし、意見が分かれて喧嘩することだって多い。でも、それでもその人と一緒にいたら楽しいし幸せだって思えるもんなんですよ、不思議とね。」
「…本当に、不思議だな…。」
「赤井は、降谷さんといて楽しくないですか?」
「楽しいかと聞かれたら…彼とは一緒に遊びにいくような仲でもないし、雑談をするようなこともないしな…楽しい、と言うことも…。」
「でも、少なくとも俺には赤井が降谷さんのこと嫌っているようには見えないんですよね。」
「嫌ってはいない。」
「むしろ、一緒にいて楽しそうに見えますよ。二人で同じステージに立てて、同じものを見れて、同じ方へ並んで歩いて行けるような気がします。」
「彼と同じレベルの奴なんて、探せばどこにでもいるだろう。」
「そうかもしれないですね、でも、降谷さんと並んで歩けるのは、俺の知ってる人の中では貴女だけだ。…本当に、お似合いだと思いますよ。」
「……そうか。」

 わかった、と言って喫煙所を出て行った赤井の背中を見ながら、一体何が分かったのかが分からず首をかしげた。と言うより、赤井の言動だけでなく、娘から信頼を回復する手立てすら分からない俺にはもう何ひとつ分からないだからとりあえず早く家に帰らせてくれ…と心の底から思い、今日は定時で帰ることを決める。そして、定時が一体何時だったのかを思い出せない事実にぶち当たり、ぐっと涙をこらえることになったのだ。


 


「なに!?降谷さんが倒れた!?!?」

 その一報が入ってきたのは、そろそろ昼休憩にでも入るかという時間だった。負傷した傷が悪化して熱が出たらしい、という話を聞いて降谷さんの傷について心当たりがあったのはこの公安の中で果たして何人いただろうか。
 俺は、赤井が言っていた傷について思い出していた。しかし、その傷以外にも探せば降谷さんに傷がついていないことろを見つけることのほうが難しいような気がして、傷については深く考えないことにした。
 今自分にとって大切なのは、間違いなく降谷さんの空きを埋めることだった。
 大それたことはできない、降谷さんがどう動いていたかを把握もしていない自分にできることなんて限られている。だが、こう言う時はハッタリが大切だ、と言って聞かせてくれたのは誰だったか。
 降谷の不在につけ込まれて好き勝手されるわけにはいかない。自信満々に、時には横柄な態度で、ボスの不在を気取られることなくいつもどおりに動くこと。それが今俺にできることの全てだ。

 そうして、いつも以上に気を張って、喫煙所に行く暇もなく働いた俺の元に降谷さん本人から連絡があったのはその日の深夜二時だった。いつも通り変わらない声で「迷惑をかけたな、明日には戻る」と電話口から聞こえた時に「もっとゆっくり休んでください」と言うべきか悩んで、言わないことに決めた。降谷さんが明日戻ると言っているのだから、何を言っても明日戻ってくるのだろう。

「わかりました。」
「明日は八時頃にはそちらに向かう。今日の会議がどうなったのか、報告だけしてくれ。」
「その件につきましたは報告書作成済みです。データで送りましょうか?」
「いや、いい。行った時に確認する。」
「わかりました。」

 そこで、俺は少しの違和感に気付いた。いつもなら要件だけを言ってすぐに電話を切る降谷さんが、なぜかじっと黙って電話を切らずにコチラの様子を伺っていたからだ。
 息遣いの音さえも聞こえてこず、まったくの無音になったことに電波障害を疑ったが、どうではそうではないらしい。しばらくすると、あー、だか、うー、だか言う声が聞こえてきて、思わず目を見張った。
 あの降谷さんが、何かを言い淀んでいるなんて、一体…。

「あー、風見。変なことを聞くが、今日俺が倒れたのはお前が赤井に言ったのか?」
「赤井?いえ、私は今日彼女の姿はみていませんし話てもいません。恐らく、本部の方から何か連絡が行ったんじゃないですかね。一応彼女達も今は警視庁で働いているようなものですし。」
「そうか…いや、こんなことを聞いて済まなかった。また明日宜しく頼む。」
「赤井がなにか?」
「いや、いい。忘れてくれ。それじゃあな。」

 そして切られた電話をそのままに、すぐに赤井に事情を尋ねる連絡をしたのだが、まさかその時には、降谷さんの入院していた病院まで乗り込んだ赤井が「君を養うから結婚しよう」とベッドの横にひざまづいて豪快にプロポーズしたという話を聞いて腹を抱えて笑うことになるとは思わず、職場の硬いベッドの中に潜り込んでいたのだった。
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