電気の男



 ギィ、とドアを開けると、そこには真っ暗で蒸し暑い部屋が広がっていた。
 パチンと電気をつけて、ジャケットを脱ぐ。今日のように蒸している日にジャケットなんて、と思わなくもないが、いざという時にこれがなくて発砲できませんでした、なんてことになったらスナイパーの名折れだ。
 椅子の背もたれにかけたジャケットをするりとひと撫でして、こいつも立派な相棒の一人だな、と1人胸の中で呟いた。
 手を洗い、冷房をいれ、冷蔵庫からビールを取り出してソファに身を沈める。こうして、ウイスキーでなくビールを手にするようになったのはいつからだっただろうか。
 テレビでは夕方の情報番組が旨そうな料理をひっきりなしに紹介している。別に腹が空いているわけでもないが、こういうものを見ていると何か夕飯でも用意してみるかという気になるものだ(まぁ面倒だからしないが)。
「今日は七夕!織姫と彦星が年に1回会える日でーー…」
 七夕。
 ふとカレンダーを見ると、7月7日。確かに七夕だ。そう言えば昼間に通った商店街の電柱にも笹がくくりつけられていて、色とりどりの短冊がぶら下がっていたなぁ、と思い出す。
 「かぞくみんな元気で」「かんごしになりたい」「はやく走れるようになりたい」「プロサッカーせんしゅになりたい」
 子供達の夢は、皆希望に満ち溢れていて、これからその夢を叶える子も少なからずいるのだろう。
 俺が子供のときは何と書いただろうか。まぁ、俺の生まれ育った土地に七夕なんて文化はなかったが、幼い頃はどんな夢を持っていただろうか。
 知識がほしい。と言うのは、昔から持っていた感情だったような気もする。デキのいい弟に負けないように、兄としての威厳を保つために俺は子供なりに結構必死だったのも覚えている。 強くなりたい、もそうか。誰かを守る力がほしい、もそうか。
 こうやって挙げるとどうにも俺は偽善的な子供だったような気がする。
 手に持っていたビールから水滴がポタリとカーペットに垂れたのを確認し、俺はまたビールをあおった。ぬるいビールほど価値のないものはこの世にないからだ。
 かろうじてまだ許せる冷たさをもったビールが喉を滑り落ち、口の中には少しの苦味とビールの香りだけが残った。
 テレビを見ると、料理の特集は終わったのか傘をさした男が天気について話をしていた。「七夕はあいにくの空模様。織姫と彦星の逢瀬は地上からは見えそうにありません」と言った男は、大して残念そうでもなく天気図の解説と明日から一週間の天気についての説明に移った。
 そもそも何故七夕に願いをこめるのだろう。まぁ元々は女性が裁縫上手な織姫にあやかって裁縫が上手くなるようにと思いを込めたのが始まりだと言う説があるようだが、それが男にも広がり、子供にもお年寄りにも広がり、今の形になったとかならないとか…文化の始まりなんて、おおよそこんなものなのだろう。
 そんな、適当な感じで広まった文化に振り回されるのも癪ではあるが、俺が子供のときに願ったことは大人になって叶っているのだろうかとふと考える。
 
 知識がほしい。
 強くなりたい。
 大切な人を守りたい。
 
 きっと、叶えたものはある。…叶えられていないものもある。
 少なくとも、俺が助けられなかった大切な女は、俺に対しては「助けて」とは口にしなかった。そう言われていたら組織に逆らってでも拐って逃げてやったのに、なんてことは今でも考えはしないが。
 だって俺は、組織を潰しさえすれば明美のことを助けられるって思っていたのだ。
 明美も、七夕には天に向かって「助けて」と祈っていたのだろうか。織姫と彦星と言う偶像には助けを求めて、目の前にいた男には笑顔しか見せなかったのだろうか。
「馬鹿な女だ」
 馬鹿はどっちだ、とビールを傾けると、すっかり中は空になっていた。
 
 もし、願いが叶うのなら、もう一度だけ明美と会いたい。
 
 もう一度だけ喋れられたら、俺はきっと彼女に謝罪するだろう。彼女が謝罪を求めていないのを分かりつつ、自分の罪悪感を少しでも軽くするために、きっと俺は謝る。
 そうしたら、明美は困ったような顔をして「馬鹿ね」とでも言い返してくれるだろうか。それともーー。
 子供の時に持っていた偽善的な願いが、大人になってよっぽど薄汚くなってしまった。
 しかし、大人になった俺はもう知ってしまったのた。自分が努力すれば叶う願いは綺麗だが、自分ではどうしようもない願いこそ薄汚いことを。その薄汚いものこそ、天に向かって願いたくなることを。
 空になった缶をテーブルに置き、ソファに深くもたれかかる。ぐぅと身体を背もたれに沈ませて天を仰ぐと、天の川どころか煌々と光る電気が目に写った。
 天の川よりよほど明るくて、手を伸ばせば届く場所にあるそれは、なんだか俺にぴったりの気がして妙におかしくなった。
 そうだ、天に願いを祈るのは俺には似合わないが、この部屋の電気にくらいは願いをこめてもいいかもしれない。
「ーービールじゃなくてバーボンが飲みたい」
「…飲めばいいでしょう」
 人のビール勝手に飲んでおいて随分な言い種ですね。そう言った男は、自分はスーツのジャケットを脱ぎもせずに、俺が椅子に引っかけっぱなしのジャケットを手に取りハンガーにかけていた。
「やぁ、お帰り降谷君」
「お帰り、じゃありませんよどういうことなんですか」
 ビールは飲まれてるはジャケットは脱ぎっぱなしだわ靴は揃えられてないわ、貴方本当に俺と共同生活してるって認識あります?流石に夕飯用意してくれてるとまでは思ってもいませんでしたが帰ってきてすぐに貴方の片付けさせられるとは思ってませんでしたよ。
 ぶつぶつと文句をいいながら俺のジャケットをぴっしりとハンガーにかけた降谷くんは、次に俺が床に置きっぱなしにしている鞄をフックに引っかけて、そうしてようやく時分のジャケットを脱ぎ出した。
「なぁ降谷君」
「なんですか。俺は今お前に大切な話をして」
「我が家に3色の素麺はあるかな?七夕の」
「ハァ?…いや、普通のはあると思いますけど3色は…家のやつ、2色くらいなら入ってたかもしれませんけど」
「そうか。では買ってこよう。今日はそれを茹でてくれ」
「は!?今から!?外は大雨ですけど」
「いい。ついでに君のビールも買ってくる。同じのでいいな?」
「は、ぁ…いやまぁ、ビールは同じのでもいいですけど」
「分かった。では行ってくる。もし他に必要なものかあれば連絡してくれ」
「いって、らっ しゃい…?」
 そうして俺は、彼がきっちりかけたジャケットを再び羽織り、彼が帰ってきて一番に揃えたらしい靴をはいて、黒い傘を持って玄関の扉をあけた。
 きっと、俺が次にこの扉を開けたとき、部屋の中は電気がついてとても明るくて、クーラーも効いて気持ちのよい空気が流れているのだろう。
 そして、降谷君が素麺に合う副菜を作ってくれていてーーきっと、バーボンにあうツマミも用意してくれているに違いない。
 そう考えると、よく知りもしない織姫と彦星に向かって天に願いを祈るより、よく知った目の前の男に向かって電気に願いを祈る方が、まぁまぁ幸せな気がしてくると言うものだ。
 マンションから外に出ると、本格的な雨がザーザーと降っており、このままでは近くのスーパーまでの道でそれなにり濡れてしまうだろう。
 ーー明美、俺がそっちに言ってもう一度会うことができたら、今度は俺に向かって願いを言ってくれよ。なんて、俺が叶えられる願いなんて、高々ビールを買いにいくくらいなものだろうが…明美。そう言うのも、意外と幸せなものなんだよ。 
 
 もし俺の願いが叶うなら、もう一度だけ会いたい女がいる。でも、もし天がその願いを叶えてくれるとしてーーその願いを叶えるのは、もう少しだけ先にしてほしい、なんて。
 俺ほど強欲で、馬鹿男の願いなんて、天はきっと呆れて叶えてはくれないだろう。

2019.7.6
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