静かな夜のほとりにて



「今夜は私のリクエストをきいてくれるかな? 」
 そう言って、美しい白髪を後ろに流していた老人が漆黒の蓋を引き抜いた。中から出てきたのは目が痛いほどの真っ赤なルージュだ。老人は皺の寄った手でそれをクルクルと捻りだし、目の前で腰を屈める男の薄い唇にを引く。
「――かしこまりました」
 真っ赤なそこを一度口の中に巻き込み、パッと音を立てて馴染ませたその男は、屈めていた腰をスッと伸ばしてステージへ向かって歩き出した。薄ぼんやりとした店内で唯一白く光るその場所に上った男は、セッティングされていたアコーディオンをかまえ――。
「Ladies and gentlemen. The beginning of a beautiful evening!」
 素敵な夜の始まりだ――そうニヤリと笑い、息を吸うようにアコーディオンを広げたのだった。

「今日も盛況だったなシュウ! お前が演奏する日は客の入りがいいって最近のマスターはご機嫌だ」
「おっと、それじゃあもう少し給料を上げてもらうように交渉しないといけないな」
「ちがいない! 」
 ゲラゲラと笑いながら閉店後の店の掃除をするのは、この店でアルバイトをする青年二人だった。一人はマイクという名の、来年の春から大手企業に就職が決まっている大学生で、もう一人は先程ステージでアコーディオンを演奏していた赤井秀一だ。お互いに大学に通う為の資金を調達する為このバイトをしていたのだが、先程の話を聞く限りでは、学費と、もう少し遊ぶ金まで作れそうだ。赤井は、マスターに賃上げ交渉へ行く時の文言を頭の中で考えながら、ゴトリとテーブルの上に椅子をひっくり返した。
「――それにしても、男があんなものをした姿を見て、どうして皆そう喜ぶものなんだろうな」
「シュウが真っ赤な唇で演奏する姿は最高にセクシーだからな」
「そうか? こんなごつい男が…」
 思いっきり眉間に皺を寄せて話す赤井に、マイクは苦笑いを零した。この男は、あんなにも店中の客を魅了しているというのに全く自覚がないらしい。勿体ないことだ。

 赤井がステージに上がる時に客が真っ赤なルージュをひくようになったのは、ほんの二カ月程前のことだ。
 その夜、いかにも夜の仕事をしているといった風の女が、化粧室にも行かず、テーブルで化粧道具を広げ始めた。この店は特別マナーにうるさいわけでもないし、女が他の客の迷惑になっているかと言われるとそういうことでもなかったが、女のその行為はあまりにも品がなかった。本来ここで楽しむべきものであるはずのカクテルのグラスが落ちんばかりにテーブルの隅に追いやられる光景は、見ていて楽しいものではない。
 どうしたものか、とマイクとマスターが首を捻っている間も、女は手鏡に映る自分ばかりを見て、周りの目などお構いなしに次々とブラシを持ちかえていた。近くに座っていた男性がその光景に眉をひそめたのを確認し、マイクはいよいよ声をかけるべきか、と腰を上げようとして――丁度その時、ステージに向かう途中だった赤井がその女のテーブル横で立ち止まったのだ。
 そして、女が今まさに唇に引こうとしていたそのルージュをするりと奪ってそのまま自分の唇にひいて――。
「Lady. 貴女の秘密は、ここで明かすには勿体ないですよ」
 つまり、「テメェ化粧くらいトイレでしやがれ下品な女が」ということを赤井は上手く言っただけなのだが、その言葉のチョイスと、そのまま真っ赤な唇をしてステージに上がって演奏を始めた赤井があまりにも美しくて妖艶で、店中の客から大喝采を浴びたのだった。(ちなみに女は顔を真っ赤にして見惚れていた)
 そうして、その夜以来、この店では赤井が演奏する日には誰ともなしにルージュを赤井に贈り、それをつけてステージに立つという不思議なルールができてしまったのだった。

「…本当に嫌なら断ってもいいと思うぜ」
 勿体ないけどな、と言う言葉を飲みこんで最後の椅子を上げたマイクは、デッキブラシを用具入れに片付ける赤井の背中に向かって声をかけた。確かにシュウが真っ赤な唇で演奏する姿は最高にセクシーでクールだが、本人が嫌がっているのに無理やり続けるものでもない。しかし、そんなマイクの心配をよそに、赤井の返事はなんともあっさりしたものだった。
「嫌ではないんだ」
「…そうなのか? 」
「ああ、ただ――あー…」
「? 」
「いや、なんでもない。さあ、とっとと片付けて家に帰ろう。寒くてしょうがない」
 そう言った赤井に、マイクは店を出た時に見るであろう雪が積もった街並みを思い浮かべて、ぶるりと震えたのだった。

「面白い店? 」
 そう言われてこの店に訪れたのは、アメリカへ出張に来ていた降谷という男だった。滅多にない海外出張で、この街でどこか旨い酒が飲める店を教えて欲しいと取引相手にきいた時に紹介されたのがこの店だったのだ。
 大通りから外れた路地の更に奥。少し地下に入った場所に入り口があるこの店は、自分一人では決して訪れなかっただろう。いかにも地元の人が集まる場所、といった観光客向けではない店の雰囲気に降谷の胸は今から冒険に出かける少年のように高まった。未知の場所を開拓するのは、いつだってワクワクするものだ。
 店に入るべく階段を下りながら、降谷はここを紹介してくれた相手が言っていた台詞を思い出す。
「いいか、間違えるなよ。『シュウ』がステージに立つ時に行くんだ」
 人差し指を立てて、いかにもアメリカ人らしくオーバーな動作で俺にそう言った男には悪いが、今日がその『シュウ』という男がいる日かどうかは分からない。ただ、自分は音楽のことは良く分からないし、地元の旨い酒さえ飲めればそれで満足なのだ。
 ギィと古びた扉を開けると、温かい空気とともに、奥から陽気なメロディが聞こえてきた。この音はなんだろうか、アコーディオンというやつだろうか。
降谷は、自分の来店にすぐに気付いた店員の後をついて細い廊下を奥に進んだ。どうやらこの廊下を抜けた先に広い空間があり、そこで演奏をしているようだ。店の奥に進むにつれ、だんだんと大きくなる音楽と、濃くなるアルコールの匂い。なぜだか降谷はクラクラしそうな感覚に襲われた。この店の雰囲気に飲まれているのだろう。
 そして、細い廊下の先を左へ曲がると、薄くオレンジ色の間接照明で照らされた店内で、一際白く光るステージと、そこで演奏する一人の男の姿が目に入ってきた。
 男は、長い黒髪を後ろで一つに結び、小さなステージで一人立っていた。アコーディオンの動きに合わせて首を傾けたりトントンとリズムをつけて跳ねる度に、その美しい黒髪もサラサラと揺れる。そしてなにより、その男の唇。白い肌に黒い髪、全身真っ黒な衣装に身を包んだ男の唇だけが、鮮やかに真っ赤に染まっていたのだ。
 降谷は思わず立ち止まってその姿に見とれた。
――なんて、美しい。
 店員が怪訝そうな顔をして急に立ち止まった降谷を見ると同時に、ステージにいるその男も新しい客の来店に気付いたようで降谷のことをじっと見つめた。そして――。
「っ」
 真っ赤な唇をいやらしく吊り上げて降谷の目を見てニヤリと笑った男は、口パクで何かを呟いた。恐らく英語で呟かれたそれを降谷は読みとることはできなかった。できなかった、が、その男と目が合った瞬間、瞬く間に降谷は恋に落ちたのだった。

 それから降谷は毎晩のようにその店に通った。時には『シュウ』がいないこともあったが、大抵の日に彼は働いており、その店で演奏をしているようだった。降谷は、仕事に来た異国で若い男にうつつを抜かしていることに、何をやっているんだと自分自身で思いながらも、仕事が終わると一刻も早くシュウの姿を見たくてすぐにその店に向かった。
 そして、シュウがステージで演奏する時に、誰かに真っ赤なルージュを引かれ、その相手のリクエストした曲を弾いていると言う法則も三日目には把握した。降谷は、四日目に店に行く前に、デパートの化粧品売り場で真っ赤なルージュを買って鞄の中に入れて行ったが、シュウの姿を見るとついぼうっとしてしまい気付いた時には他の客にルージュを引かれた後だった。

「シュウ、例の客、今日も来てるな」
「ああ」
「アイツ、絶対お前目当てだぜ」
 モテる男は違うな、そう言ってカクテルをカウンターに取りに来たマイクに、赤井は苦笑いでグラスを渡した。数日前から毎日のように来ているあの男。日本人…だろうか。直接話をしたことはないが、最初に店に来た日にここにはビジネスで海外から来たのだと他の店員に話をしたという話を聞いたのだが、どうにも彼は国籍不詳だ。もしかしたらミックスかもしれない。
 マイクは彼が俺目当てで通っていると言ったが、俺はどうにもそれが不思議だった。彼が俺を見る目は確かに熱を持っていた。しかし、他の客のように俺にルージュを贈るわけでも、チップと称してベタベタと身体を触ってくるわけでもなく、彼はただただ俺を見ていた。彼のその視線があまりに熱くて、彼が店に来ている時はこっそりと何度か演奏を失敗してしまったこともあった程だ。(マスターには気付かれていたが)
 今日ももうすぐ俺がステージに上がる順番がやってくる。俺は、彼がルージュを掲げたらすぐにでも彼の元へリクエストを聞きにいこうと思っている(ビジネスでここに来ているなら、そう長くいない可能性もあるからだ)のだが、今日彼はルージュを贈ってくれるだろうか。

「シュウ、今日は私のリクエストをきいて頂戴! 」
 そう言って今日ルージュを掲げたのは、この店の常連のジェシカだった。ずっと俺にリクエストを聞いてほしいと言っていた若い女性で、今日はジェシカ以外の客からのリクエストがなかったので、彼女にとっては念願叶って、となるだろうか。
「今日はラブソングをお願いしたいわ。とびっきりセクシーで、私をメロメロにしちゃうようなやつ」
 そうして彼女は他の客と同じようにルージュを捻り出した。俺が贈られるルージュは大抵が目が覚めるような真っ赤なものだが、彼女のルージュは赤ともいえずピンクとも言えず、少し赤黒いような色をしていた。初めて見るその色に、世の中には色んな色のルージュがあるんだなぁ、なんて考えながら彼女に向かって腰を屈めると、彼女は細い指を俺の頬に添えて丁寧にそれを俺の唇に引いた。
 俺はその唇を一度パッと鳴らすと、いつものようにステージに向かって歩き、彼女がリクエストしたラブソングを奏でるべくアコーディオンをかまえ――あの男がいつもの席にいないことに気が付いた。
 どうして。
 俺がここに来るまで、彼女のもとに行くまでは確かにいつもの席で俺を見ていたあの男がいつの間にかいなくなっている。俺は、その事実になぜだか動揺した。しかし、彼も仕事でここに来ているというのだから暇でもないのだろう。何か用事があって出て行ったのかもしれないし、単純に眠くなったから帰ったのかもしれない。それだと言うのに、どうしてか空席になったその席がどうにもポッカリと穴が開いたように見えて、物足りない。
 ステージに上がったというのに演奏を始めない俺を皆が不思議そうに見ているのを感じてハッとした俺は、妖艶に笑って見せてアコーディオンをかまえた。彼の席は、見ないようにした。

 そうして、その翌日も次の日も、彼は店に現れなかった。赤井は、もしかするとあの日いなくなったのは急遽国に帰る用事でもできたのだろうか、なんて考えては、いつも彼がいた席をぼんやりと見つめた。今は若い男が二人でバーボンを飲んでいるその席に、彼がいないとなんだか寂しい気持ちだ。
 こんなことなら、彼のリクエストを聞けばよかった、と赤井はそればかり考えていた。彼がじっと俺を見つめていたのは、きっとなにかリクエストがしたかったのだろう。それなのに、俺はいつの間にかできていた「ルージュを俺に贈った相手のリクエストをきく」という不思議なルールに捕らわれて、あの男のリクエストを聞きにいかなかったのだ。
 もしかすると、国に帰ったのではなく、俺がいつまでたっても他の客ばかりのリクエストを聞いていたからもうこの店に見切りをつけて他の店にいってしまったのだろうか。他の店で、他の奴に本当に聞きたかった曲をリクエストしているのだろうか。そう考えると、彼の期待に応えられなかった自分がどうしようもなく愚かで、がっかりしてしまう。
「ハァ…」
「どうしたんだ? 具合悪いのか? 」
 無理そうだったら休んでいいぞ、マスターには俺から言っておくから。そう言うマイクにヒラリを手を振って大丈夫だと伝える。俺が帰ってから万が一にでもあの男が来たら――なんて女々しいことを考えては苦く笑う。
 俺はどうしてあの男がこんなにも気になるのだろうか。喋ったこともない。しっかりと目が合ったのは彼が初めて来店してきたあの時だけ。それだけだ。こんなものでは、全く関わりが無かったと言ってもおかしくはない。しかし――。
「あんな目で見られてはな…」
 暗い店内で美しく光るブルーの瞳、その瞳が俺を熱く貫いていたのだ。

 男の姿が見えなくなって五日がたった時、もう俺はほとんど諦めていた。きっとあの男はもうこの店には来ないのだろう、と。よくよく考えると、男がこの店に来ていたのなんてほんの一週間程度だ。そんな短い期間だった。それなら、もっと長くきている常連だって山ほどいるし、その中でリクエストをきけていないという人もまだまだいる。そう考えると、あの男にばかりこだわっているのが、なんだか馬鹿馬鹿しく思えたのだ。
「シュウ、あと五分でステージだ」
「わかった」
 そう言われて、俺は厨房でグラスを拭いていた手を止めて、ステージ用のベストを羽織った。今日も俺はこれからホールに出て、真っ赤なルージュをひかれ、あのステージで演奏するのだ。今日は一体誰の元へ向かおうか、この前も来てくれていたステラが来ていたらそちらに行ってやろう。

 そんなことを考えながら赤井がホールにでると、例のあの席、いつも男が座っていた席に、その男がいた。

 赤井は思わずギョッと目を見開いた。どうしているんだ。
 どうしてもなにも、彼は一人の客だ、いつどの店に行こうと彼の自由なのだから来てはいけないと言うこともないのだが、てっきりもう来ないと思っていたから、なんて、赤井は誰が聞いているわけでもないのに心の中でグルグルと言い訳をした。何に対する言い訳か、一体自分が何を考えているのかもよく分からず、そして今自分がどんな顔をしているかも分からなかったが――だって、もう来ないと思っていたのだ。
 赤井は自分でも無意識のうちにその男の元へ足を運んでいた。習慣とは恐ろしいもので、赤井は気付くと男の前にひざまずいて唇をくっと突き出していた。すると、男は鞄の中から一本のルージュを取り出した。よく見る黒いデザインのものではなく、シルバーに光るそのルージュを褐色の指が蓋を開けて――。
「え」
「…貴方には、こちらの方が似合うと思って…」
 理想の色を探すのに苦労したんですよ。そう言って笑った男は、そのルージュを――薄いピンク色のそれを、丁寧に赤井の唇にひいた。顎に指を添えて、丁寧に、唇の皺に沿うように縦に一本ずつ塗りこまれるピンクのルージュに、赤井は唇以上に頬が真っ赤になっていないか心配になった。

 ピンク色だ。

 ピンクは、この色は、ずっと赤井が求めていた色だった。
 真っ赤なルージュは確かにセクシーでクールかもしれないが、そのルージュをひかれると、赤井は途端に「そういう自分」を演じてしまうような気がしていたのだ。自分にその色のルージュを贈る相手は、きっと「真っ赤なルージュが似合うシュウ」という男を求めているのだろう、と。高圧的に、大胆不敵に笑う男。真っ赤なルージュに負けない強い男。リクエストするのは、何も曲だけではない。客は、そのようなシュウが奏でるメロディを希望しているのだ。
 だからシュウは、赤井は、ピンク色が欲しかった。肌になじむピンクのルージュは、ありのままを受けいれてくれるサインのように思ったのだ。何も演じなくていい、そのままの赤井秀一でいられる。ありのままの自分を受け入れてくれる相手。赤井は、そんな相手が来るのを待ち望んでいたのだ。
「…よし。やっぱり、この色が似合います」
 そう満足気に笑った男は、肌の色と店の証明のせいで分かりにくいが、頬を温かく染めているように見えた。
「――ト」
「え、気に入りませんでした? やっぱり赤の方が」
「そうじゃない、…曲の、リクエストはどうしたらいい? 」
「あ、そうですね――」
 リクエストを聞いた赤井は、そのままステージへ真っ直ぐ向かった。そして、ふわりと、華が咲くように優しく目を綻ばせて笑い、大きくアコーディオンを広げて、朗らかに踊りだしたのだった。

「貴方の好きな曲を聴かせてください」

2019年2月28日
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