降谷零がいなくなった日



 あ、俺、降谷零やめよ。

 降谷がそう呟いたのは、組織が壊滅した日の翌朝だった。痛む身体をベッドから起こし、窓から差し込む光をぼうっと五秒見つめたその時、あくびより何より先に降谷はその台詞を吐いたのだ。
 そして、枕元のスマホに手を伸ばすと、そのまま部下に「しばらくそちらに顔を出さない」と言う理不尽極まりないメールを送りつけ、持っていた家の全ての権利書を抱えて一番近くの不動産屋で全て売り払った。ついでと言っては何だが、そこで三十路の男が一人暮らしするにふさわしい家を尋ね、最初に紹介された家を契約してその場で引っ越し業者を手配した。――ここまでが、三時間。
 色々な手続きが終わり喫茶店で一息ついた頃には、部下から「かしこまりました」の一言だけが書かれた返信がきており、なかなか優秀な部下の仕事ぶりに満足な笑みを浮かべた。そして、注文したナポリタンが来ると同時に、スマホの電源も落とした。
 これでこの喫茶店を出た瞬間から降谷零という男はこの世界からいなくなる。ここまで四時間。一人の男の最後としては、あまりにもあっけない時間だった。

 ○△□

 組織の壊滅。それはつまり、バーボンと安室透、二人の男の最後を意味した。
 バーボンはもともとが組織の探り屋だ。組織が無くなると同時に、暗い海に沈んで消えた…と言うことになっている。バーボンが犯した罪も、裏切り者であった事実も、なにもかも全てが闇に消えたのだ。
 そして安室透。この男も、バーボンが消えると共にこの世からいなくなった。安室に関しては、組織の壊滅前から徐々に「身辺整理」を行っていたので、ポアロのバイトも辞め、田舎に帰った。少々広がりすぎた交友関係に予想以上の時間がかかってしまったが、写真一つ残していない男のこと等、数年もすれば皆の記憶から薄れていくだろう。
 こうして、この世界から――降谷の身体から二人の男がいなくなった。

 そして、降谷の身体は、「降谷零」一人のものに戻った。一つの身体に三つの精神が入っているという不思議な状態がなくなり、降谷零はようやく落ちついて生活できるようになったのだ。
 これでもう、こそこそ警察へ通う必要もなくなった。警察の仕事をしながら翌日のポアロのシフトに頭を悩ませる必要もなくなった。陽気の中でコーヒーを入れながら急な裏取引に飛び出すこともなくなったし、バーボンの顔をして小さな名探偵を威嚇する必要もなくなった。

 降谷零は、正真正銘自由になった――はずだった。

 ここでの予想外は、降谷零という男が予想以上に繊細だったこと、とでも言っておこうか。不思議なことに、降谷零は、いなくなった二人に孤独を感じてしまったのだ。
 身体の中にいた邪魔な二人の存在がなくなり、窮屈だった身体を降谷はのびのびと自由に使えるようになったのに、そうはしなかった。できなかった。
降谷零は、今まで彼らがいた場所にぽっかりと穴があき、身体がスカスカになったような錯覚をおこしてしまったのだ。
 降谷零として、日本を守らなければならないことは分かる。しかし、朝起きた後にすぐ朝食を食べるべきなのか先に歯を磨いた方がいいのか、朝食はパンを焼けばいいのか米をたけばいいのか、そもそも目覚しより少し早く目が覚めている今この瞬間に二度寝をすればいいのかもう起きた方がいいのか…なにもわからなくなってしまったのだ。

 そこで降谷は、緊急措置として「降谷零をやめる」という結論に至った。
組織が壊滅したと言えど、今からだって十分すぎる程忙しくなるのは分かっていた。仕事に穴を開けるとどれほどの迷惑をかけることになるのかも分かっていた。ただ、分かっていても降谷には時間が必要だったのだ。
 それは、一度自分の体の中を完全にリセットして、自分の人格を練り直す時間だった。

 ○△□

 快速が止まらない私鉄電車の駅から徒歩十二分の距離にある五階建てアパート。そこが男の住居だった。部屋の中にあるのは布団と折りたたみのテーブル、そして電子レンジ。これさえあれば、生活に困ることは無かった。強いて言えば、夕方になると西向きの窓から差し込む光が眩しかったが、カーテンをしめてしまえばなんてことはない。
 家の近くに小さなスーパーもあるし、少し歩けばコンビニも薬局もある。コインランドリーは少しばかり遠かったが、男の一人暮らしで出る洗濯の量なんて大したこともない。
 ここで男は、仕事をするでもなく、遊び呆けるわけでもなく、ただ、生きた。
 朝になったら起きて、昼になったらご飯を食べて掃除をする。夕方に惣菜を買ってきて夜はそれを食べて寝る。
 男にとってそれは決して充実した生活ではなかったが、ただただ生きるということは簡単なことでもなかった。ぼうっとしていても腹は減るし、眠くもなる。腹が減ったらものを食べないといけないし、眠くなったら眠るために布団だってひかなければいけない。なかなか大変なことだ。

 そして、男は今日も腹が減る前に食事の調達をしようと近所のスーパーへ足を向けた。一週間もいればあらかたの惣菜は一回りしてしまう。今はもう、特別旨かったもののリピートと冷凍食品で日々の食事をやり過ごすようになっていたが、もうそろそろ新しい店でも開拓したほうがいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、真っ青なエコバックを揺らして歩いていた、その時。
「降谷君?」
 聞きなれた声が、男の耳に届いた。

 ○△□

「すみません、ミックスグリル定食にAセット、ドリンクバーもお願いします」
「かしこまりました」
「――僕は、鉄火丼で」
「ドリンクバーはいかがされますか? 」
「あー…では、まあ、はい、僕の分もお願いします」
「では、注文を繰り返させていただきます―…」
 どうしてこうなった。
 今俺は、なぜだかファミレスで全身真っ黒な男 ―赤井秀一― と同じ席についていた。真面目な顔をしてじっとメニューを見ていたと思ったら、手慣れた手つきで呼び出しベルを押し、店員に「ミックスグリル定食」を注文する赤井秀一なんて俺は知らない。
「あの、」
「ん? なんだ? 」
「Aセットは、ご飯とみそ汁のセットですけど、よかったんですか? 」
「…分かっているが、」
 何かおかしかったか? と首をかしげる赤井に、「貴方は世界で一番ご飯とみそ汁が似合わないですけど本当に良かったんですか」と言いそうになるのを飲みこんだ。
 行きつけのBARでバーボンを頼み、セクシーな指先でロックグラスを持つのが似合う顔をして、よりによってミックスグリル定食、Aセット。…意味が分からない。
 「では」なんて言いながら、うきうきして(いるように見える)ドリンクバーへ向かう後姿を眺めながら、俺は数分前に赤井と出会った時のことを思い出していた。

「降谷君? 」
 こんな辺境の駅の、しかも駅からそれなりに離れた場所で聞くには相応しくない声を聞いて勢い良く振り返った先に、赤井はいた。
「驚いたな、会議に出てないからどうしているのかとは思っていたが、まさかこんな所で会うとは」
 そういって、目を真ん丸にして俺を見ていた赤井は、黙って話を聞いている俺に一歩近づいてきた。長い脚で寄って来る男を、俺はただただ立ち止まって見つめていた。
 今の俺は、降谷零ではない。だからこそ、今の俺が赤井という男にどう対応すればいいのか分からなかったのだ。
 俺にとって、目の前の男は親友を死に追いやった憎い相手ではない。殺したい相手でもない。自分の国を好き勝手に荒らす他国の捜査官でもなく、おそらく持っているであろう武器の類を取り締まるべき相手でもない。
「元気そうでなによりだ。もう次の仕事か? 」
 そう思うなら何故喋りかけてくる。もし俺が今本当に次の潜入をしている時なら、「降谷」という名前を捨てたときだったらどうするつもりだったんだ。そう思いつつも、声が出ない。
「降谷君?? 」
 今の俺はこの男に対してどんな態度をとればいい? 初対面、ということにして無視をすればいいのか。いや、でも、初対面は初対面にしても完全に無視というのもおかしな対応ではないか?
 頭の中をぐるぐると、この状況を打開する方法についての考えを巡らせ――。
「とりあえず、僕お腹空いてるんで、ファミレスにでも行きません? 」
 恐らく、俺は最低の選択肢をとった。

 そして、ドリンクバーからコップにたっぷりのコーラを持って帰ってきた赤井が席につくなり、俺は全ての流れを話した。いくらでも誤魔化し様はあったとは思うが、仕事中なわけでもないし、そこまでして隠すことでもないと思ったのだ。
「会議にも行かず丸投げしてしまっているのは申し訳ないとは思いますが、ちょっと時間が欲しくて」
 俺がそう言うと、赤井は「ほー」と、興味があるのか無いのか良く分からない生返事を返してきた。お前が鬱陶しく絡んできたからわざわざ説明してやっているんだろうと少しいらつくが、コイツの所作一つ一つに突っかかっていては話が進まない。
 なんとも面白くなくて、俺も注文した鉄火丼をかき込むが、ファミレスの鉄火丼というような味がした。旨くもなく不味くもなく――ファミレスの味だ。
「で? 」
「はい? 」
 カラン、コップの中の氷が音を立てて崩れた。一瞬そちらに目をやりそうになるが、「で? 」と言ったまま俺の方をじっと見つめる赤井の視線がどうにも居心地が悪く、こわごわと見つめ返す。
「君は俺の知っている降谷君ではないんだろう? じゃあ、今の君から俺はどんな男に映っているんだ? 」
 どんな男に、と言われても。
 それが分からないから今こうしてファミレスでお前と向き合っているという変な状況になっているんだろうと一人心の中で愚痴りながら、じーっとただ赤井を見つめ返してみた。赤井がどんな男に見えているか、どんな男に見えて、どんな男に――。
「え、っと。――顔が小さい男、ですかね」
 俺は一体何を言っているんだ。
 自分の口から飛び出した言葉のあまりの意味不明さに、思わず鉄火丼についてきていた緑茶をすすった。もうすっかりぬるくなっているソレは、心を落ち着けてくれるとまではいかないだろうが、凍りついたその場の空気から逃れるアイテムくらいにはなってくれるだろう、と期待をして。
 俺の言葉以降すっかり黙りこんでしまった赤井の顔を見るのがなんとなく気まずくて、あと少しもない緑茶をやたらとゆっくり時間をかけて喉に流し込んでいた、その時。
「っく、」
「…く ?」
「ふ、は、っく、ふふ」
「……は? 」
 なんと、目の前の男が、肩を震わせて笑いだしたのだ。ファミレスでミックスグリル定食Aセットを注文し、涙を流すのではないかと思わされるほど必死に笑いを噛み殺しながら肩をふるわせている赤井秀一なんて、俺は知らない。
 この男こそ、本当は赤井秀一じゃないのではないか、なんて真面目に考えそうになる。
「君はっ、本当に、面白いことを考え、るな…っ」
「…僕は結構真面目なんですけど」
「いやいや、それは分かっているが…ふふっ」
「っ、赤井! 」
 心底楽しそうに、心底人を馬鹿にしたように笑う赤井に、思わず大きな声を張り上げ腰を浮かせる。
 やっぱりこんな男と一緒に昼食を取るのは最低の選択肢だった!
 もうこんな場所からは一刻も早く立ち去りたい。ああ、もう、昼食代は俺が出してさっさと帰ろう。帰って、もう今日は適当な惣菜を、そうだ、この前食べて美味しかったチキンの照り焼き弁当でも買ってそれを夕飯に――。
「なあ」
「っ、なんですか! もう僕は帰り」
「君にお願いがあるんだが、俺と友人になってくれないか」
「ハァ!? 」
「俺は君みたいに面白い男を知らない。友人になれたらきっと楽しいだろうと思う。だから、俺を君の友人にしてくれ」
「…は? 」
 中途半端に浮いた腰をそのままに赤井から差し出された右手をとってしまったのは、一刻も早く帰る為だった、と言えば信じてもらえるだろうか。

 ○△□

 俺と赤井が奇妙にも友人関係になったあの日から、赤井は俺にメールを寄こすようになった。勿論、アイツは今事件の後処理で忙しい。だから、メールと言っても一週間に一度も来ない日もあれば、二日続けて来る日だってあり、きっと手が空いたときに適当に送っているんだろうということはすぐに予想できた。
 赤井からの連絡は大抵が「飯を食いに行こう」という誘いで、そのメールが来たら、俺が店を探して赤井を連れて行っていた。
 最初の出会いはファミレス、二回目は評判のいいチェーンの居酒屋、三回目はオイスターバー、四回目はとんかつ屋…いつしか誘いがあってから店を探すのではなく、ぼんやりしている時間にネットで検索しては次に行く店をピックアップするようになっていた。
 赤井との食事は、基本的に楽しい。
 当然ながら食事中に仕事の話など欠片も出ないが、一人で孤独に生きていた俺の生活に突然飛び込んできた赤井は、いい話相手であり、いい暇つぶし相手となったのだ。
 たまたま飛び込んできたのが赤井だったから赤井と食事をするのが楽しいのか、相手が赤井秀一だから楽しいのかは良く分からなかったが、赤井からの食事の誘いがくるのが楽しみになっている自分がいたのは間違いない。

 そして、もう何回目かも分からない食事会で旨いと噂の串カツ屋で名物のシイタケの肉詰め串を食べているとき、それは唐突に告げられた。
「あと五日もすれば向こうへ帰る」
「――へえ、そうだったんですか」
 まるで、次の注文でも言うような調子で帰国の報告をされた俺は、一瞬だけ固まって、またすぐに持っていた串にかぶりついた。
 そうか、これで最後か。
 赤井には、予想外になかなか楽しい時間を提供してもらえた。この生活におけるいい刺激で、新鮮な体験。赤井がいなくなった後は、またどうやって俺は毎日を生きてみようかとふわふわと考えてみるが、いまいち考えがまとまりそうになかった。
 この生活をして結構長い時間がたっている。もう前のように、何をすればいいか分からなくなることもないだろう。ただ、少し寂しくな――。
「そうだ、君もついてくるか? 」
「え」
「アメリカに行く機会なんて、あまりないだろう? 」
 確かにあまりない。あまりない、が、行けないわけでもない。
 しかし――今この状態というのは滅多に、それこそ、もうこれから一生のうちにもう一度あるかどうかというレベルでないことだ。仕事もなく、時間はあり、金もある。パスポートだってあるし、なにより、友人が一緒に行こうと誘ってくれている。
「そう、ですね。行きましょうか」
 断る理由がないと思った。

 ○△□

 これはまた面白いことを始めたな、と思った。
 あの日、あの時二人で行ったファミレスで、彼は確かにこう言った。「降谷零をやめて、一度自分を見つめ直す」と。

 つまりは、自分探しの旅をする、ということだ。

 前々からティーンのような顔だとは思っていたが、顔だけでなく行動までもティーンのように若いんだな。と言わなかった自分を褒めてやりたかったくらいだった。
 思わず彼の自分探しの旅の終着点を見たくて友人になろうなんて適当なことを言ってみたが、なんだかんだで友人として楽しく食事をする機会が何度もあったので結果オーライというやつだろう。
 彼と友人になって一緒の時間を過ごしてみてわかったのだが、彼はあまりにも「普通」だった。男の一人暮らし「らしく」それほど片付いていない部屋に、自炊の痕跡がないキッチン。話題になっている本やテレビの話は知っているが、深くは掘り下げない。健康の為だと言って定期的にランニングに行ったりもするが、毎日続くわけではない。
 あまりにも「普通」すぎる。
 彼は、その普通こそが異常であることには気が付いていないようだ。そもそも、普通の人間は、あれだけ憎い殺す許さないと叫び続けていた相手に対してそこまで開き直った態度はとれない。
 彼は明らかに異常だった、そして、自分探しの旅をしていた。――これ以上に無いほど、面白い男だと思った。
だから先日も、俺は彼をアメリカに誘った。だって、「自分探しの旅にアメリカへ行く」なんて、最高のシチュエーションだろう?

 ○△□

 アメリカでは、俺は赤井の部屋の一室を間借りして生活した。間借り、と言っても家賃を払うわけでもないのだが、二週間そこでお世話になることにしたのだ。俺がいる間も、赤井は当然仕事へ行く。仕事柄、毎晩必ず帰ってくるなんて約束もできないし、朝だって日も上がらないうちから出て行くこともある。
 しかし赤井は、俺がアメリカに滞在する最後の三日間に必ず休みをとると約束をしてくれた。つまり、俺は約十日間、異国の地で完全にフリータイムとなったのだった。
 そして、俺はフリータイムの間、アメリカの街をひたすらに歩き回った。誰も自分を知らない、そして自分も知らないこの街では、正真正銘、俺は誰でもなかった。
 海外へ来たことなんて数えられないくらいあったが、ここまで目的もなく、ただぼんやりとすることは初めての経験だ。ぼうっと歩いて、旨そうなものがあれば買う。疲れたら公園のベンチに腰を下ろして空を見上げ、日本とは違う空の色をじっと眺める。
 ――日本は夜か。
 日本から遠く離れた土地でも日本のことを考えてしまうのは、もはやどうしようもないが勘弁してもらおう。
 日本とは流れる時の早さすら違うように感じるこの国で、俺は一体何をしているのだろうとふと考えることもあるが、もう来てしまったものは仕方がない。帰るにしても、飛行機で十数時間かかると考えると、現実的ではない。来てしまった以上は、俺はこの国で二週間過ごすほかないのだ。
 流れる雲を見上げることにも早々に飽きて、俺はベンチから腰をあげた。とりあえずスーパーで何か食材でも買って帰ろう。降谷は、赤井の家に居候している間、せめてものお礼に食事を作るようになっていたのだ。そうだな――今日は、酢豚と玉子スープにもでもするか。

「まさかこの家でこんなものが食べられるなんてな」
「昔の女は料理を作って出迎えてくれなかったんですか? 」
「仕事から疲れて帰って来て、家に女がいるなんて地獄だろう? 」
「びっくりするほど最低ですね」
 日が沈む少し前に帰ってきた赤井と食卓を囲みながらなんでもない話をする。日本とはところどころ違う調味料に戸惑いながらも酢豚はなかなか美味くできた。前で食べている赤井の表情もなんとなく穏やかに見える、気がする。
 赤井とこうして過ごす時間は楽しい。少し不思議な感覚ではあるが、いい友人なんだと思う。

 しかし、それはあくまで赤井秀一と「俺」とがいい友人なだけだ。名前もない、俺、と。

 赤井秀一と降谷零ではこうはいかない。だってオカシイだろう。赤井のことを殺したいと憎む降谷が、こうして赤井と一緒に食卓を囲むなんて。そして、自分を殺したいと思っている相手が作った料理を、こうも躊躇い無く口に入れる赤井だって、オカシイ。
 ふと窓を見ると、外はすっかり日が落ちてしまっていた。そして、真っ黒な窓に映った自分達の姿が見えた。土足で食卓に座り、茶碗ではなく皿に米をよそって箸で飯を食べる二人の男は、何ともいえずアンバランスだ。
 ズキン、と心が音を立てた。
 心地よいと思うこの場所は、俺の ―降谷零の― 場所ではないのだ。降谷零の場所ではないここに、俺が座っている。それはつまり、降谷零をやめると決めたあの日から、降谷零の魂がまだ身体の中で彷徨っているということだ。

 降谷零という男が彷徨い続けたまま、俺のアメリカ生活はあっという間に過ぎ、そして赤井の休日が…俺のアメリカ滞在最後の朝がやってきた。
「どこに行きたい? 」
 泊まりでも良いぞ。なんて言いながら、バターをたっぷりとぬったトーストをかじる赤井に、俺はほんの数秒だけ考えてすぐに返事を返した。
「海にでも行きましょうか」

 その日、海はとんでもなく寒かった。季節は海水浴にはかなり早いが、冬と言うには無理があるような時期だったにも関わらず、よりによって二人が海に到着した時、そこは人っ子一人いない閑散とした場所となっていた。
「また海とは…らしい、な」
「え! 何か言いました!? 」
「なんでもない! 」
 強い風が吹き付ける海岸では、声も張り上げなければ聞き取ることができなかった。赤井がぼそりと呟いた声は風に流されてしまったが、もともと相手に届けるつもりもない独り言だったので特に問題はない。――しかし。
「こうも寒いとどうしようもないな! 」
「え!? なんですか? 」
「君の希望に添えず残念だが帰らないか! 」
「気候が? なんです? 」
「〜〜車に戻ろう!! 」
 会話をするにも、景色を見るにも相応しくないその場所からそそくさと車に乗り込んだ二人の身体には、風で舞い上がった砂がじっとりとまとわりついていた。

 降谷が助手席に乗り込んでからさっさと服をはらうと、その度にはらはらと砂がこぼれ落ちた。人の車で申し訳ないなと思う心はあるも、この風では外で砂をはらうわけにもいかない。相変わらず車の外では、ごうごうと音を立てながら車を揺ら程の風が吹き荒れているのだ。
短時間しかいなかったのに、よくもまあここまで砂を浴びたなとある意味感心していると、赤井がゆっくりと車のエンジンをかけた。この車だって、まさかこの時期に暖房を入れられることになるとは思ってもみてなかっただろうが、すっかり冷え切った身体には温かい空気がなにより恋しかった。エンジンをかけてしばらくは冷たい風しか吹き出してこないが、じきにそれも温風にかわるだろう。
 そんなことを考えていると、シュッと、赤井がマッチに火を付けた。
「…この風だ、窓を開けずとも勘弁してくれよ」
「この車に乗った時点で煙草の匂いは諦めているのでご自由にどうぞ」
「それはありがたい」
 ごうごうと鳴る車内で、ふぅーっと長く煙を吐いた音が大きく響いた。もやりとした煙が一瞬だけ車内に充満したと思ったら、どこともなしに消えて、香りだけを残して無くなった。
「生憎の天気だったが、君が見たかったものは見れたかな? 」
「そうですね」
「そもそもだが、海で何が見たかったんだ? 」
「――日本を」
 そう、俺は日本を見たかったのだ。約二週間この国で過ごして、やはり隙あらば日本のことを考えていた。
 スーパーに行けば日本との違いをすぐに比較したし、何かを食べても日本との味付けの違いを考えた。今も日本で頑張って働いている部下達のことも思ったし、日本のことがニュースになっていると、何を差し置いてもじっとテレビを見つめた。
 結局は、俺は日本から離れられないのだ。
「東海岸のこの海で、日本を? 」
「ええ、見えましたよ。海の向こう、ずっと遠くに日本があるなぁ、と」
「ほぉー、君は随分と目がいい」
「うるさいですね」
 ドスン、と音を立てて助手席の背もたれに倒れ込むと、低い天井が目に入ってきた。その天井が嫌いだというわけでもないが、俺はそのまま腕で自分の目を覆った。
 真っ暗だ。自分の姿すら見えない闇の中で、俺はここ数カ月生きてきた。そして今ここで、赤井と海を見ている。考えるのは日本のことと――ついでに、赤井のこと。
「ねえ、俺からも一つ質問していいですか? 」
「ああ」
「貴方は、赤井は…どうして俺と一緒にいるんですか? 」

 ○△□

「一緒にいると面白いからだろう。最初に言ったじゃないか、君みたいな面白い男は初めてだ、と」
 どうして俺が君と一緒にいるか。その質問は、一緒にアメリカにまで着いて来て、約二週間一緒に生活をした相手にするには遅すぎる質問ではないだろうか。そう思ったが、彼は今至って大真面目なのだ。大真面目に自分を探している。
 彼が自分を探す過程のどのポイントに俺が関われたかはよく分からないが、俺だって彼と一緒に生活をして、彼が真剣に悩んでいることは分かった。
 組織壊滅の最後までトリプルフェイスを貫き通した彼が優秀な人間であることは良く知っていたが、そんな万能な彼もこんなことで悩むことがあるんだなぁと考えると、申し訳ないが微笑ましくなったというのも事実。彼もただの一人の人間で、完璧な男なんかじゃなかったのだ。
 俺は、バーボンより安室透より降谷零より、今こうしてモヤモヤ悩んでいる君の方がよっぽど好感が持てるよ、なんてことを言ったらきっと怒られてしまうだろうが。
「君はとても面白いよ」
 そして、人間らしい。

 ○△□

 今までの人生で、「面白みがない」とは数え切れないほどいわれたことはあるが、「面白い」とは言われたことがなかたので、赤井の言葉にピンと来ず頭を捻っていると、赤井が再び口を開いた。
「むしろ、何故君は俺と一緒にいるんだ」
「何故、と言われても」
「理由がないわけもないだろう。たまたま出会った『顔の小さい男』とわざわざアメリカまで来て一緒にすごしているんだ」
「ぶっ、…よく覚えてますね。『顔の小さい男』」
「そんなことを言われたのは初めてだったからな。忘れられないさ」
 不敵にニヤリと口角を吊りあげながら、赤井も俺と同じようにどすんとシートにもたれかかった。二人で見つめるフロントガラスの向こうには、荒い波が絶えず押し寄せるビーチが広がっている。

 何故ここに赤井と一緒にいるのか――本当の理由は、しっかりとある。

「顔の小さい男とこんな荒れ狂った海を見に来ている理由ねぇ」
「君の探し物がこの国にあったのかも聞きたい 」
「結局貴方ばっかり質問してるじゃないですか。ま、はっきり言うと探し物はなかったです。でも、収穫はありました」
「ほお。それは? 」
「降谷零と言う男のことが少し分かったことですかね」
 例えば、まず降谷零なら赤井秀一と友人になったりしません。赤井秀一の為に店を予約することもなければ、アメリカに一緒に来て一緒に暮らすなんてことも死んでもしません。赤井秀一の為に夕飯を作って家で待っているなんて言語道断だし、赤井秀一と一緒にアメリカの東海岸で日本を見るなんてことはぜっったいにしません。
 そう話す俺の横で、赤井の口角がにたりと上がるのを横目で確認する。ほお、ほお、とまるでおもちゃのフクロウのように同じ相槌を打つ男に少しだけイラつく。
 それでも、俺は気が付いたのだ。降谷零でない俺は、ひたすらに降谷零とは真反対なことをしていたことに。今こうして赤井とこんな場所にいるのだって、ひとえに降谷零なら絶対にこんなことをしないからだ。
「参考までに貴方の思う降谷零も聞かせてくださいよ」
「俺の思う降谷零? 」
「ええ。アメリカ土産に是非」
 なんだか俺ばかりが話をしている状況もつまらなく、なんとなく質問を返してみる。赤井にどう思われていたところで何が変わるわけではないが、なんて。
 軽い気持ちで尋ねたそれに、赤井は予想以上に真剣にうーん、と頭を捻らせた。そして、たっぷり十秒考えた後。
「俺の思う降谷零君は、君の考える男とは少し違っているように思うよ。例えば、降谷零は赤井秀一と友人になることだってある。一緒に食事をとったり、アメリカについてくることだってある」
そう言って、ぺらぺらと口を動かし始めたのだった。
「はい? 」
「降谷零は俺との時間を結構楽しく思っていたに違いない。俺の知る降谷零と言う男は、無駄だと思う時間には一切価値を見出さない効率的な男だからな。だからきっと、こうして俺と肩を並べて海を見ているなんて不思議な状況も、なかなか楽しんでいると思う」
 いつの間にかもう数本目になった煙草に火をつけながらそう言った赤井を、俺は目を真ん丸にして見つめていた。
 この男は何を言っているんだ? お前は、赤井は、降谷零じゃない男だから友人になったのではなかったのか?
「あかい」
「なあ。降谷零のことを色々俺に教えてくれたお返しというわけではないが、俺のことを君にも少し話をしよう」
「はあ」

「俺は結構人見知りでな。見ず知らずの相手にいきなり友人になってほしいなんて声をかけるような男じゃないんだよ」

 ○△□

 帰国の時。
 ここに来て俺は、自分の存在意義を探す為に一度社会から離れるなんて、自分探しの旅みたいな恥ずかしい真似をしてしまったことに初めて気付いた。帰国後は自分の仕事も全部放り投げて「自分探しの旅をしてきました」とは、口が裂けても部下達には言えない。
帰国してからの言い訳をじっと難しい顔で考えていると、そんな俺を見た赤井が平然と「青春だな」なんて言ってきたので、とりあえず全力で殴っておいた。
 俺がふわふわと悩んでいる時、最初から全部分かってましたというような顔をして隣に立っていた赤井には、正直言って腹が立つ。腹がたつ、が、残念ながら赤井と良い友人になってしまったので別れるのが寂しいと言う思いもそれなりにある。
「今度日本にはいつ来るんですか? 」
「さあ、でもまあ今年中にあと数回は行くと思うが」
「そうですか…美味しい店リサーチしておくので、また声をかけてください」
「君の選ぶ店に間違いはないからそれは楽しみだ」
 ゲートを通る手前の場所でなごり惜しく話す俺達を多くの人が通り過ぎて行く。ここを通ると、本当にしばらく会えなくなってしまうと思うと、もうそろそろ行かなくてはいけない時間なのは分かっているが、足がなかなか動かない。
「俺達、いい友達になれましたかね」
「別れるのが名残惜しいと思う程度には? 」
「ははっ、間違いないですね」
 でも、そろそろ本当に行きます。そう言って床に置いていた鞄を肩にかけると、その姿を見ていた赤井がゆっくりと口を開く。
「最後に、一つ君に ―降谷零君― に聞きたいことがあるんだが」
「なんです? 」
「君から見た俺は、どんな男だ?」
 長い別れの最後の質問としてはどうにも決まらない問いに、俺は思わず笑みを浮かべる。 

 俺から見コイツなんて、決まっている。
「俺から見た貴方は、顔が小さい、ただの赤井秀一ですよ」

 俺が最初からただの降谷零であったように、こいつだってただの赤井だ。
そして、人生とは何が起こるか分からない。俺と赤井が友人になり得たのだから、今後はもしかしてもしかすると、俺達が友人でなくなり違うなにかに成ることも――あるのかもしれない。

2019年5月23日
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -