孤独な男と奇妙な客と



 ハァハァと乱れる息を押し殺して暗い森をひたすらに前に進んだ。後ろから聞こえていた足音は少し前に振り切った、ここまでくれば追手ももう諦めたのだろう。じくり、と痛む腹に手をやると、じゅく、と言う音と共に手の平が真っ赤に染まった。
 ああ、いけない。
 応急処置はしたというのに血が流れ続けるそこは、おそらく仕込んであった毒がなにかにやられたのだろう。これはマズイ。
 だが、今回の俺の任務は生きて帰ることだ。生きて帰って、先ほど見た光景を、頭に入っている情報を伝えなければならない。この情報でどれだけの民が救われるか、どれだけの被害を防ぐことができるか――それは考えるまでもない。
 くら、と目の前が霞んだ。ただでさえ視界の悪い夜の山で、あるはずもないのにぼんやりと明るい光が見えたような気さえした。ああ、だめだ。こんな所で倒れている場合ではない。それなのに、足がもう前にでない、立っていられない、目がぼやけて…。
「く、っそ」
 バタリと男が倒れ、青々とした草の上に黄金の髪が散った。じわりと滲む赤が地面に吸い込まれ、荒く響く男の息は風の音に溶けていった。

 △

 温かい。
 ふと目覚めた時、俺の身体は、不思議と温かい空気に包まれていた。目をつぶったままもぞりと動くと、肌触りのよい布団を肌が滑る感覚がして思わずもう一度身体を丸める。
 外からは、トントンと包丁の音がして、ぐつぐつと何かが煮える音がした。これは、味噌汁の匂いだろうか。ふんわりと辺りに漂ういい香りに思わずぐぅと腹の奥が鳴った。
 こんなに穏やかな、絵に描いたような朝を迎えるのはいつぶりだろうか。なんて呑気に考えて、降谷は勢い良く身を起こした。

 ここは、どこだ。

 ちょっと待て、俺は情報を持って敵国から逃げ帰ってきていたはずだ。外が明るい…俺は一体どのくらい寝ていた。そして、ここは――。
「やあ、起きたのか」
「貴方、誰ですか」
「ほぉーそんな目ができるくらい元気になったのはいいことだ。が、話せば長くなる。まずは朝食でもとろうじゃないか」
 そう言った男は、俺の前に小さな椀を並べ始めた。南京が溶けた味噌汁に、白米、レンゲのおひたしに、少し焦げている焼き魚、そして湯気が立ち上るお茶。椀を置く男の腕はがっしりと筋がついており、この料理をこいつが作ったとはにわかには信じられない程の身体つきだ。
 じっと男をみつめると、この国ではなかなか見ない瞳の色をしていた。緑の目、なんて俺は一度も見たことが無い。肌の色も白く、背丈も高い。コイツは一体何者なのだろうか。
「さあ、食べるといい」
 男は一通り料理を並べ終わったようで、俺の正面にどすんと腰を下ろした。着物がめくれて露わになった脚は、腕とおなじようにがっしりと肉付きがよく、傷なんてものもほとんど見られなかった。
「ありがとうございます、でも結構です。俺は行くところがあるんで」
「ほぉー、その身体で、か? 」
「…腹の傷、手当してくれたのは貴方ですか? それに関しては礼を言っておきます」
「ああ、そうしてくれ。俺の庭先で倒れていた君をここまで引きずって来て応急処置をするというのは中々骨が折れた」
 男は、俺が一切料理を口にしないことなど最初から分かっていたかのように、自分一人で食事を始めた。
 茶碗に山盛りになっている白米を豪快にかきこみ、碌に噛みもしないうちにお浸しを口に放り込む。いっぱいに食べ物が入った口をモゴモゴさせながら俺と話しをしている姿は、行儀が悪いと呆れる前になんとも器用に見えた。
「ああ、しまった。これは焼きすぎたな」
 そういって魚の焦げを苦い顔をしながら剥がす男をじっと見つめながら、俺はずりずりと少しずつ後ずさりをしていた。――この男の目的はなんだ?
 呑気に飯を食べてはいるが、体格といい身のこなしといい、明らかにただ者ではない。いくら意識朦朧としていたからと言って、この俺がここまで近付かれることに気付かなかったなんてこと、まずあり得ないのだ。
 飯が終わったら俺を尋問でもするつもりだろうか。それとも、俺が味方の所へ帰るのを足止めしている? なぜ手当てをした? 死なれると困ることがあった?それとも――。
「やめておくといい」
「…なにをですか? 」
「君が何者で何をするつもりかは知らないが、手負いの男一人くらいならいつでもどうにでもできるということさ」
「 」
「さあ、君も食べるといい」
 勿論毒なんて入っていないし、食べるものを食べないと傷の治りも遅くなる。俺の顔も見ずに味噌汁をすすった男は、そう言うともう一度俺に米がよそわれた椀を差し出してきた。一粒一粒米が立っており艶めいているそれは、何の変哲もなく、そして旨そうだ。
 懐に仕込んでいた短刀から手を離し、俺は浮かしかけていた腰をどすんと落ち着けた。ああ、もう、仕方がない。
 今の俺ではこの男に勝つこともできない、腹が痛くて逃げることもできない。まさしく、この男に命を握られている状態なのだ。どうせそれなら、無駄な抵抗をしてやられるよりは、旨そうな飯を食べておく方がよほどマシというものだろう。

 △

 飯が終わったら何か聞きだされるとばかり思っていたが、男は俺が飯を食べるのをじっと見つめたと思ったら「旨いか? 」と、その一言だけ俺に尋ねてきて後は何も聞いてこなかった。
 俺が使い終わった食器を庭先の井戸で汲んだ水で丁寧に洗ったと思えば、男は俺をその場に残して裏の畑に向かって行き、大きなクワを振り回して地ならしを始める。ざくっざくっと土を掘り起こすと、なんとも形容しがたい泥臭い匂いが家の中まで漂って――ワケが分からない。
「…貴方は一体何者なんですか」
「さてね、そういうのを調べるのは君の仕事だろう」
 俺が家の中でぼそりと呟いた声にすら律義に応えてくるわりに、大切なことはなにも教える気がないらしい。
「俺を、殺さないんですか」
「殺すか殺さないか判断できる程に俺は君のことを知らないからな」
「なぜ手当てをしたんですか」
「自分の家で人が血を流して倒れていたら誰でも手当てくらいするだろう」
「なぜ、俺に飯を食わせたんですか」
「…」
 急にじっと黙った男は、あらかた土が耕し終わったのか、今度は畑に水をまいていた。まだ何も芽は出ていないようにも見えるそこには何が埋まっているのだろうか。この男は、こんな誰もいない山奥でずっと生きているのだろうか。
 男の動きをじっと見つめながら、俺はぼんやりとこの不思議な男について考えていた。もしコイツが敵ならば今すぐにでも殺す必要があったが、先ほど男が言った通り、俺もこいつが敵か味方かを判断できるまでにコイツのことを知らないのだ。
「――…だ」
「は? 」
「君に飯を食わせた理由だ。俺の作る飯が旨いかどうか、知りたかったんだよ」

 本当に、ワケが分からない。

 △

 結局、俺はそのまま腹の痛みで動けないままこの家で夜を迎えた。そして、夜になると白菜と鶏の煮物と大根と人参のなます、そしてたっぷりとネギが入った味噌汁が出てきた。
 外見だけみるとまさか細やかな料理をするように見えないこの男が器用に野菜を千切りにする姿は見ていて不思議な気持ちもしたが、男の手つきはもうすっかりやり慣れているかのようにトントンと動いて、あっと言う間に三品ものおかずを作り出してしまった。
「さあ、食ってくれ」
「…貴方、当然のように俺がこれを食うと思ってますけど」
「食べるだろう? 俺が調理する様を最初から最後まで見ていて何も仕込んでいないのは分かっているし、その傷では逃げるに逃げられない。なら、この飯を食うことに利点はあれど欠点など無いのだからな」

 その通りだった。

 しかし、どうにも男の思惑通りに動くのも癪で箸をとらずにしばらくじっと料理を見ていると、目の前の男がなますを口にしてピクリと眉をひそめたことに気がついた。
「どうしたんですか」
「いや、どうということもないが」
「…なんなんですか、貴方は」
 そう言って、俺もそのなますに箸を伸ばす。今の今まで俺のことなんて気にもかけていないかのように見もしていなかった男が、俺の箸の行方を急に真面目な顔をして追いかけるものだから、口に入れるときに少しだけ緊張してしまったのは秘密だ。
 なますは、つかりが少し浅い気もしたが、ふつうのなますの味だった。旨くもなく、まずくもなく、なますと言うものはこう言う味だなぁ、といったようなものだ。
「旨いか? 」
「まぁ…悪くはないですよ」
「……そうか」
 何故落ち込む。
 確かに旨くはないが、こちらからすればそんなものを食べて馬鹿みたいに「旨い」と褒めてやる義理もないのだ。だから正直な感想を言っただけだというのに、見るからに男がしょんぼりと肩を落としてしまったものだから、本当に訳が分からない。
 なますのことは置いておいて、俺は他のもの…白菜と鶏の煮物にも箸を伸ばす。つい先ほど捌いたばかりの鶏は新鮮で、旨く処理してあるため臭みもない。今の時期なら白菜も、冬に取れたものの最後の一つ、と言ったところだろうが、しなびている様子もなく旨く味が染み込んでいてコチラは文句なしに旨い。
「こっちの煮物は旨いですよ」
「……そうか」
 だから何故落ち込む。
 今度は正直に「旨い」と褒めたのに、なぜそんなにがっかりした顔をされなくてはいけないのだ。こっちとしても食べたくて食べているものでもないのに、こんなに反応に気を使わなくてはいけないなんて、なんて面倒なのだろう。
 俺は、一気に味が無くなったように感じた煮物をごくりと飲み込むと、すぐに白米をガツガツとかきこんだ。白い米だ、これは間違いなく旨い。文句のつけどころもなく旨い。米とは旨いものなのだ。
「米は旨い」
 俺は、男に感想を求められていたわけでもなかったが、自然とそう言っていた。その言葉に対して男は何の反応も返してこなかったが、俺はもう一度「米は旨い」と言って、米をかきこんだ。

 △

 そして、あっと言う間に三日の月日が流れた。それが何を意味するのかというと、俺の傷の回復だった。
 三日の間に、俺は男から色々な物を食べさせられた。茄子のぬか漬け、揚げだし豆腐、玉子雑炊、つくしのおひたし、わらびのキンピラ、茶碗蒸し…ああ、そうだ。寒天でゴマを固めたとかいうものを出された時もあったか。あれはよく分からない味をしていた。
 こんなにも色々食べさせられて俺は少し太ったのではないかとも思いつつ、俺は出された料理に一言ずつ感想を伝えた。
 「旨い」「味が薄い」「悪くはない」「まあまあ」…あとは何だったかな、玉子焼きを出された時に「味がない」と言ったこともあったな。
 とにかく、俺はこの男との奇妙な共同生活で、飯の感想を言い続けた。それ以外には特に男と会話を交わすこともなく、俺はただひたすらに眠って傷の回復を待っていたのだ。
 そして、遂に動けるまでに傷が回復した。
「明日の朝ここを出ます」
「そうか」
「朝食は食べてから出ます」
「…そうか」
 夜にそんな会話をして、お互いに眠りについた。
 最後の夜と言うことで、男が俺に何かしてくるかと警戒をしながら布団にくるまってはいたが、男はやはり俺の寝首をかくでも何をするでもなく眠りに落ちた。たった三日間の共同生活だったが、この男のことは最後までよく分からなかった。

 そして翌朝、俺はまたトントンという包丁の音で目が覚めた。米を炊く匂い、味噌汁の匂い、なにかを焼く匂い…ここ数日ですっかり慣れてしまった匂いに、これで最後かと思うのは少しだけ寂しいような気もしなくもない。
 もう今更この男のことを疑う気にもなれないが、万が一、最後の食事に毒を盛られて俺が死んだとしたら、それは俺がマヌケだったというだけの話になるだろう。
 もし、ここで朝食を食べて生きていたら、俺はそのままこの家を出て国に帰り、主に情報を伝えるのだ。もう手遅れかもしれない、とは思わない。俺が今からでも帰ることは、必ず国益となり、多くの民の命を救うことになるだろう。

「さあ、食べるといい」
 男のお馴染みの台詞と共に並べられたのは、白米とキノコの味噌汁、豆腐と青菜とねぎのあんかけ、そして。
「なます、ですね」
 最初の日に食べた、なますだった。ここにいてずっと料理を食べていたが、同じおかずが出たのはこれが初めてだ。
 珍しくじっと俺の反応を伺っている男を前を前にして、なますを大きくすくってぱくりと一口食べた。
「――柚子ですね」
 前に食べたそれと違い、今回は柚子の皮がなますの中に散りばめられていたようで、口に入れた瞬間から柚子の香りが口いっぱいに広がった。基本的な味付けは変わらないのだろうが、それがあるだけで急に雰囲気が変わるから不思議なものだ。
「柚子だ、入れてみた」
「そうですね、柚子ですね」
「―――旨いか?」
 ワクワクとも、ソワソワともとれるような顔で感想を求めてくる男に、俺は一言。
「悪くはないです」
 今更お世辞を言うほどでもないので、正直な感想を言う。確かに柚子が入って味が変わった。だが、それだけだ。
「…そうか」
 だが、俺のその言葉に、男は嬉しそうにふわりと微笑んで、満足気にきのこの味噌汁をすすりだした。――本当に、最後の最後まで意味がわからない…。

 △

「では、随分とお世話になりましたね」
「こちらこそ。あまりおもてなしもできなかったが」
「毎食たらふく飯を食わせてくれたのは十分なおもてなしでしたよ」
「…そうか」
 それは良かった。そう笑った男に、最後に一つだけ質問をする。
「貴方の料理には、どんな意味があるんですか? 」
「意味? 」
「ええ、やたらと旨いかどうかの感想を気にしたり、なますを二回出したりしたことの、意味です」
「ああ」
 そう言うと、男はゆっくりと腕を組んで、じっと何かを考えるように口をへの字に曲げた。
「あの料理は、皆ある女性から俺が食べさせてもらっていたものだったんだ」
「はあ」
「女性がいなくなって、見よう見まねで料理を真似てみているんだが、自分じゃイマイチよくわからなくてな」
「ええ」
「女性の料理はとても、旨かったんだ。だから、俺のも旨く作れているのか、判断してほしかったんだ」
「…へえ」
 そうか、どうりでこの男、俺のことを見ていないと思った。そんな言葉を飲みこんで、俺は男に別れを告げて歩き出した。
 男が最後に教えてくれた問いへの答えは、今までモヤモヤしていた俺の感情を途端にスッキリさせてくれた。そうか、俺はただ、男がその女性の痕跡を辿ることに利用されていただけだったのか。ああ、そうだったのか。――ふざけるなよ。
 
 土産として渡された塩むすびをかじりながら、降谷はハァと大きく息をついた。
 傷を負ってたまたま会っただけの男にただ利用されていただけだった、結果的に俺の傷は癒え、こうして国へ帰ることが出来ている。それだけでも十分良いと言えば、良い。それでも。
「全部旨いって言って食ってやればよかった」
 あの山の奥で、ある女性の影を追いながら孤独に暮らす名も知らないあの男のことがこんなに気になるのはどうしてだろうか。少しばかり一緒にいたから情がわいた? それとも、窮地を救ってもらって恩人のように感じている? わからない、なにもわからない、が。
「今度は珍しいものでも持って行ってやろう」
 一緒にいるのに、まるで自分を映さないあの瞳に映りたいと、そう思ってしまったのだ。旨いものを一緒に食べて、一緒に「旨い」と言いたくなってしまったのだ。
 国への帰路の途中、決してあの家の場所を忘れないように何度も振り返る。
 今度会いに行く時は、玄関から名前を呼んで家に入ってやろう。そして、食べきれない程旨いものを沢山持って行って、あの家に並べて一緒に食べてやろう。

 降谷のそんな願望が叶うのは、そう、遠くない話。

2019年6月9日
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -