猫のいる生活



 降谷零はその日とてつもなく疲れていた。無能な上司の尻拭いから始まったそれは、降谷の精神と睡眠時間をゴリゴリと削っていたのだ。
 健康で文化的な生活ってなんですか、俺は4日間まともに寝ていなければ風呂にも入ってないし、部下が買ってきたコンビニのおにぎりを言葉通り握りしめながらパソコンとにらめっこしながらただ口の中に入れて咀嚼して嚥下することで栄養補給を行い生命活動を維持していますが、それって文化的な生活ですか?え?空調の効いた部屋で雨風を凌ぎながら飯食ってたら文化的な生活?…分かったじゃあ今からは人権の話をしましょう。
 そんなことをぼやいていたら、優秀で信頼する部下の一人から「お願いだから帰ってください。あとはなんとかするんで。」と頼み込まれて警察庁を追い出された。
 正直に言って、めちゃくちゃ嬉しい。もう俺がいないとできない仕事も無いし、いなくていいと言うのなら一刻も早く家に帰ってシャワーを浴びて寝たい。しかし、今の身体状況で車を運転する気にはなれず、だからと言っていつから着ているのかも分からないこの服で電車に乗る気にもなれなかった。
 こんなことならシャワーを借りて仮眠室で一眠りしてくればよかった、そう思っても後の祭り。今さら戻るのも面倒だし、なにより必死で俺のことを追い出した部下達にどんな顔をして会えば良いのかわからない。
 面倒だし近くのビジネスホテルにでも入るか…そう考えていると、パッ!と向かいの道からクラクションの音が聞こえてきた。
「…は?」
 咄嗟に顔をあげて見た先には、真っ赤なボディに白いラインが2本くっきりと入った見慣れた車から、愛しい恋人が手を振っていたのだった。
 
 
「風見君から君を迎えに来てほしいと連絡があってな。」
「…どうして風見の連絡先を知っているんですか。」
「君がジョディの連絡先を知っている理由と同じだよ。」
 グッと言葉を飲み込み、分かりやすく不満ですという顔をして運転中の赤井の横顔を睨み付ける。赤井と付き合いだしてすぐに、仕事で大きな傷を負ったことを隠されていたことがあった。その時に「貴方になにかあってもジョディさんが教えてくれることになりましたから!」と、彼女と示し合わせて連絡先を交換したのだが、まさか未だに根に持っているとは思いもしなかった。
「あれは、貴方が隠すから…」
 そう言いながらも、俺の眠気はここにきて限界を迎えようとしていた。仕事からようやく解放されて弛んだ気持ちが、赤井の顔を見てますます安心してしまったようだ。
 気を抜くと意識を飛ばしてしまいそうなので、あー、うーと言いながら赤井に話しかけていたのだが、もはや自分でも何を話しているのか分からなくなっていた。そして遂に、「着いたら起こすから、ゆっくりおやすみ」という声を最後に俺は完全に落ちた。
 
 
 そこで俺は夢をみた。明晰夢だ。
 今の俺は赤井の運転する助手席で眠っているということを自覚しながら、夢の中では赤井と俺と、そして1匹の猫が一緒に暮らしているようだった。
 猫は俺のことを見向きもせず、赤井の後ろをついて回り、赤井が座ればその横に寄り添い、赤井が立てば着いて行き、赤井がうとうとすれば膝の上に移動し、まるで自分が赤井を温めてやるんだと言わんばかりにその場に腰を落ち着けていた。
 赤井のシャツのボタンにじゃれつこうとすると「こら、イタズラするんじゃない」と優しく手を払いのけられていたが、猫は満足気な顔をしてまたボタンに手を伸ばし諭されていた。
「猫、好きでしたっけ?」
 俺は思わず赤井に声をかけた。あまりにも赤井が猫に対して優しく微笑むものだから…そんな笑みは俺にだってあまり見せないのに、という面白くない気持ちが沸き上がってきたのだ。
「猫?いや、そんなに好きという程でも。」
「でも、ソイツとはそんなに仲良しじゃないですか。」
「何を言っているんだ?」
「だから、ソイツにはそんなにヘラヘラ笑って、」
「この子は君が連れてきた猫だからだろう?」
 キョトンとした顔でそう言った赤井にまた猫がすり寄り、赤井もまた大きな手で猫の頭を優しく撫でてやる。まるで我が子を見るかのように猫を見つめる赤井に、今度は俺がポカンとする番だった。
「俺が連れてきた?」
「ああ、…どうしたんだ降谷君。体調でも悪いのか?」
「赤井は、俺が連れてきた猫だから大事にしてるんですか?」
「いやまあ、普通に可愛いしな…どうしたんだ、本当に。」
 当然のように俺のものだから大事にすると言った赤井に、先程まで感じていたモヤモヤした気持ちが一気に晴れやかになったのが分かった。
 なんだよ、コイツなんだかんだ言って俺のことめちゃくちゃ好きなんじゃねえか。くふふ、と口から漏れ出た笑い声に、赤井と猫に、揃って俺のことを不審そうな目で見つめられた。
「赤井、僕も好きですよ。」
「……猫を?」
「さぁ、どうですかね。」
 そう言うと、少しだけ赤井の顔がポッと赤くなった。すると、それをごまかすかのようにサッと立ち上がってキッチンに行ってしまったのだが、猫も慌てて赤井を追いかけて行ってしまうものだから、夢だと分かりつつも、なんて幸せな空間なんだと思わずにやけてしまったのだった。
 
 
「降谷君、着いたよ。」
 そう声をかけられて目を開くと、俺の家の駐車場に車を入れ終わったところだった。いくら疲れていたからと言っても、なかなかに熟睡してしまったようだ。
「よく寝ていたな。」
「本当に…すみませんでした。わざわざ迎えに来てもらったのに。」
「いや、いいんだ。元より運転手のつもりだったからな。」
「家、あがっていきますよね?」
「疲れているだろう?また後日来るから今日はゆっくり休むといい。」
「さっき熟睡したので少し意識がはっきりしてきたところです。コーヒーくらい飲んで行ってください。」
「…では、お言葉に甘えて。」
 そう言ってエンジンを止めてシートベルトを外した赤井に、俺は1つ質問をした。
「ねえ赤井。猫好きですか?」
「猫?」
 ドアを開けて外に出ると、冷たい風が身体を叩きつけてぶるりと震えがきた。シャワーだけで済まそうと思っていたが、しっかりと風呂に浸かる方がよさそうだ。
「猫でも飼うのか?」
「そういうわけではないのですが、ただ単に。」
 ふぅん、と言う赤井はコートのポケットに両手を突っ込んで、さっさと俺の部屋に向かって足を進める。俺より先に進む赤井の背が寒さで少し丸くなっているのを見て、よく考えるとコイツ自体が少し猫っぽいよなぁ、なんてことを思う。
「猫は、そんなに好きというわけでもないな。」
「へぇ…じゃあそれが、僕が連れてきた猫だとしたらどうですか?僕が飼ってる猫。」
「猫、やっぱり飼うのか?」
「違いますって!いいから答えてください!」
 眉間に皺を寄せてむすーっとする赤井に首をかしげながらもう一度質問をする。すると、しばらくじっと考えていたようで、次に赤井が口を開いたのはマンションの下のオートロックを抜けた時だった。
「…そんなに好きにはなれそうにないな。」
「えっ?どうしてですか?僕が可愛がって大切にしてる猫だって言っても大事にしてくれないんですか?」
「まぁ、仮定の話であるのは分かっているのだが、現実的に今の君の仕事では生き物を飼うのは難しいだろう。こうして数日帰ってこられない日もざらにあるし、普段だって寝るだけに家にいるような時も多い。」
「ま、まぁ、そうですけど…」
 そういう現実的なことが聞きたかったんじゃないんだけどな、と思いつつ、心のどこかでまぁこれでこそ赤井だなと感じるところもあり、なんとなくストンと心が落ち着く。赤井の「今の俺が生き物を飼うに適していない生活である根拠」の話がエントランスからエレベーターの中、そして自宅の鍵を開けるところまで永遠と続き、一度覚醒した意識が再び眠気を訴え始めた。珍しくよく喋るなぁとは思ったがそこまで気にもしていなかったのは、やはり車の中の仮眠くらいでは近日の疲れは取れていなかったのだろう。
 解錠してガチャリと音が鳴るのと同時だっただろうか、相変わらずずっと喋っていた赤井の長い話も遂に締めの言葉に入った。
「…それに、君がこうして帰ってくるときに出迎えるのが俺じゃなくて猫になるというのは、どうにも面白くない。」
「……は?」
「、やっぱり今日はお邪魔しないでおくよ、また明日出直すからゆっくりお休み。」
「え?いや、」
「降谷君、良い夢を。」
 そして、俺の頬に軽くキスをしてからクルリ方向転換してと帰っていく赤井の耳は遠目で見ても真っ赤だった。そして、心なしかいつもより速いスピードで歩いてエレベーターに乗り込んでしまったその姿が見えなくなったあたりで、鈍い俺の頭がようやく動き出して、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
「結婚したい…」
 これが、後に降谷零が人生で初めて結婚を意識した日だったと語ることになる出来事であった。

2018-02-23
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