ゼロを持つ男の苛烈



「僕は、ゼロなんです。」
 
 そう言われた時、一瞬意味がわからなかった。組織も崩壊し、FBIが日本から撤退し、そして日常に戻り…彼と出会ったのは、何年ぶりだろう。
 俺の頭には白髪が混じるようになり、目も、現役の時に比べたら少し悪くなっていた。本を読むのに眼鏡をかけるようになり、まるで、いつぞやの大学院生のようだなんて思っては、日本で活躍目まぐるしい小さな彼を思い出す。
 まるで、奇跡のような子供だった。小さな身体で走り回り、とんでもないことを仕出かすその子供は、ある日突然姿を消した。しかし、彼は確実に皆に色々なものを残していった。
 現に、彼がいつも一緒にいた子供達は警察官になったり、探偵になったり、ああ、そういえばこの前優しい男を捕まえて結婚した、なんて子もいたか。
 毛利探偵事務所は、眠りの小五郎がいなくなって仕事も減ったようだが、その代わりに人情味溢れる、暖かい探偵事務所になった。死体なんて物騒なものは似合わないあの探偵は、きっと本来は優しい男だったのだろう。
 
 小さな彼がいなくなっても、あの街は歩き出している。
 
 それなのに、目の前で情けなく立つこの男は一体どうしたと言うのだろう。
 あの時の自信に満ち溢れた若さも、沸き立つような激情も、そして、色とりどりに彩られた日々も、すべてゼロだ、とでも言うつもりか。
 
「ほぉー、ゼロ、か。噂では君の所属はあれからしばらくして変わった、と聞いたのだか。」
「まぁ、そうですね。でも俺は降谷零、生まれながらにゼロを持つ男なんです。」
 
 そう言ってヘラリと笑う男は、いつまでたっても若々しく、まるであの時と同じように見える。だが、見慣れない目尻にシワや、くすんだ肌の艶、そして、あの燃えるような瞳の輝きは今やすっかり鎮火していた。
 そう、彼は俺と同じように、確実に時を刻んでいるのだ。
 
「ゼロを持つ男、か。」
「ええ。」
「でも君は知っているじゃないか。自分がゼロを『持っている』ことを。」
「…でも、ゼロにはなにをかけてもゼロのまま。どれだけ大きな数字でも、どれだけ小さな数字でも、なにもかも飲み込んでゼロにするんですよ。」
「ああ、そうだな。だが言い変えると、他のどんなものも君の色に染めることができる唯一の数字だ。」
「……ものは言いようですね。」
「そうだ、ものは言いようだ。そして降谷零君、知らないかもしれないが、ゼロ足すイチは、イチだ。」
「は?」
「その目尻のシワ。それに君が生きてきた年数が刻み込まれているだろう。俺の1年は同様に君の1年であり、俺の友人の1人である君は同様に俺と言う友人を1人持っている。君がゼロだと言って、怒り、悲しむ人の数。それが君が手に入れたものだ。」
 
 目から鱗が落ちた、そんなことわざを思い出させるような間抜けな顔をして、ぱかーと口を 開けて間抜け面をさらす男をみて、思わずクスクスと笑う 。
 そうしていると、急にムッとした表情で俺を睨み返してきた彼の瞳には、ほんの少しだけ炎が灯っていた。
 
「貴方、年くって説教くさくなりましたね。」
「君は相変わらず、いい年なのに思春期のような青いことを考えるんだな。」
「へぇー、相変わらずってことは、昔からそう思ってたってことですか。」
「そういう面倒くさいところも変わってないな。」
 
 何も持とうとせず、何にもよりかかろうとせず、そして、何にも気付こうとしなかった男は、俺をみていやらしく笑った。
 バーボン、そんな懐かしい単語が頭をよぎったその時、彼は俺に近づいてきた。1歩、またいっぽと踏み出すその足取りは、たくましく、軽快で、思わず見とれた。
 俺は、こんなにも美しく歩く男を見たことがない。
 
「俺がゼロなら、貴方はイチですか。」
「さあ、どうだろう。俺には数えきれない程に大切なものが増えたからな。イチが何倍にも、何十倍にも増えているかもしれない。」
「へぇ。随分と素敵な人生を過ごされているんですね。」
「ああ、そうだな。」
「…俺は、ゼロです。」
「ああ。」
「誰よりも強く、誰にも変えることのできない、したたかで美しい、ゼロです。」
「そうか。」
「だから、貴方1人背負ったくらいでは倒れない
 。」
「…ん?」
「そこまで言われたら仕方がない。俺が貴方の人生最後の時間をみとってやりますよ。」
「……なんだって?」

 俺の言葉を彼がどう解釈したかはわからないが、残念ながらこの苛烈な性格も丸くなることもなく変わっていなかったようだ。
 
「降谷君…一体どういう意味だ。」
「そのままです。昔から中途半端は嫌いなんですよね。俺がゼロじゃないと言うのなら、貴方が俺の人生で得たものの1つだと言うなら、責任持って俺が貴方を背負います。」
「……些か極端では?」
「貴方が言い出したことでしょう。覚悟、してください。」
 
 ニヤリ、とまたいやらしく笑った男の目尻にはやはり深いシワがあって、そんな中に俺も取り込まれるのだなぁと思うと存外悪くない気もして、なんとなく俺は彼の手をとってみた。
 
「よろしく頼む。」
「勿論。」
 
 ああ、人生折り返しだ。なんて思っていたが、俺の人生は彼のおかげでまだまだ楽しめそうだ。

2018.4.21
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