そう、そもそも地下鉄を使うなんて言い出したことがおかしかった。

その日赤司はどこかなにかが変だった。たとえようもなく、しかしあからさまでもなく、肩を掴み問いただすにはあまりに些細で、雨上がりに水のにおいがする、と感じる程度の抽象的な違和だったので、俺はただ普段と変わらずに接し、疑問があれば尋ね、納得すれば頷いた。
地下鉄のホームへ続く長いエスカレーターは、循環しない濁って乾いた空気の中へ俺たちをだらだらと運んでいく。昼も夜もない、薄暗く広大に細長い洞窟。
用事はなかった。赤司が乗ると言うので俺は頷いた。付き添う理由はなかったはずなのに、俺はなぜだかその時「一緒に行く」という選択をした。迷いなく。
赤司は一度不思議そうに瞬いて、用もないのに帰路とは別方向へ進路を取る列車の切符を買う俺をかすかに笑った。
直感、第六感、虫の知らせ、その小さな刺のもたらす痛みに似た衝動を形容する言葉はいくつもあるが、本当にそんなものがあるのだとすれば、俺はその時それに従ったに過ぎない。
地下鉄に乗るのだと、赤司が声に出して俺に教えた、それはきっと最後の合図だった。

二段下に立ち、モノトーンのマフラーをぐるぐる巻いて、ブレザーとシャツの間にはセーターだって着込んでいるのに、それでも赤司はぎょっとするほど寒々しく見えた。吹き上がってくるかび臭い風に一筋ふたすじ浮いて流れるあかい髪さえ。
赤司の立つすがたは、まわりの空気ごと時間が止まっているようだと思う。非の打ち所なく、ごっそりと生気の抜け落ちた廃虚じみた美しさ、大きな欠落ごと完璧な有りよう。
それが地下へ飲まれていくさまを、見るともなく眺める。胃の底がきしりと冷えていく気がした。生ぬるい機械のにおい。
半分ほど降りたあたりで、何人かに追い越された。前方の人の列も慌ただしく降りていき、降りきる頃には上りのエスカレーターがぞろぞろと今さっき行き過ぎたのであろう地下鉄から吐き出された乗客で埋まった。


「…、10分後だ。急ぐのか」
「いや。いいさ」


地下道に入り、初めて交わした会話だった。一本前に殆どが乗り込んだようで、ホームはがらんとしている。電工掲示板が静かにテロップを流す。路線の行き先。それを赤司は一度も見ようとしなかった。
ぐるりとホームを見渡した赤司が歩き出すので、後を追う。白線の内側をよどみない足取りで突っ切り、ホームの一番端にたどりつくと、赤司は柵に手を掛けて真っ暗な洞穴を眺めた。申し訳程度に照らされた足元のレールは、たった数メートル先が、どれだけ目を凝らしてもそれ以上見えない。


「なかったことにしてしまおうかと思うんだ」


ある瞬間、赤司は闇へむけてそう呟いた。洞穴へ隠してしまう。誰も届かない地中深く、かびと機械のにおいにまぎれちりぢりになってわからなくなる。
一体赤司はなにを言っているのだろう。


「…意味がよくわからないのだよ」
「緑間。なぜついて来たんだ?」
「それは、」
「投身でもすると思ったのなら、残念だけど見当違いだよ」


赤司は闇へ目をむけたまま動かない。
のこのこと、適当な行き先の乗車券まで買って、俺は一体なにをしに来たのだろう。こんな地面の遥か下まで。
「赤司、」何とか俺は喉を叱咤する。ペースに飲まれてはならない。


「なにを、なかったことにすると言うんだ」


答えは返らない。真っ暗闇に投じられた赤司のふたつの目は、直にやってくるであろう列車だけをじっと待ち望んでいる。


「お前はやさしいな」


かぎりなくやわらかな、寒々しい背中越しのその声は、鉄の軋む圧倒的な騒音に半ば掻き消された。一瞬遅れて吹きすさんだ生ぬるい風に、ちりぢりになる。二度と赤司の喉へは戻らない、音たち。
もの言わぬ箱の、扉が開く。黒いくつはその中へ赤司をまよいなく運んだ。意思のあるくつに歩かされた、時の止まった体。
すれ違いざま、赤司はどうしようもなくいつも通りのトーンで言い放ち、それはどこまでも俺の足をホームに縫い止めた。首筋を汗が伝う。皮膚の下の、凍えるようなせつなさ。


「じゃあね、真太郎」


また明日。

あの日、あの時赤司は確かにほの暗い地下鉄のホームになにかを投げ捨てた。制服だけではそろそろ防ぎきれない肌寒さ、色を失っていく町並み、冬の入り口。春も夏も秋もとりどりに、華やぎさざめいた何もかもが穏やかに眠りにつく、冬の始まりの頃。
スターティングメンバーを読み上げる以外で、赤司が誰かの下の名前を口にしたことはなかった。赤司はいつでもいくつもの線を引いた。赤司にしか見えない線を。
その線をやすやすと踏み越えた、赤司は無機質な列車に運ばれていってしまった。この日までの赤司はもう二度と戻らないと、気付いても、それが何だというのだろう。

無様にホームに置き去られた俺は暫く、役目を終えてただの紙切れになった切符を握り地下鉄に乗り込む理由を探した。
身のうちから沸いてくるような冷気はなにを考える気力も奪い、俺は長い長い上りのエスカレーターに乗る。
駅員にわけを話し、改札の脇を通り抜けることが出来た。俺は元来た道を戻り、改めて帰路につく。

翌日以降、赤司に変わった様子はなかった。いくら目を凝らしても。黄瀬が一度「いま、涼太って呼ばれた?」と首を傾げたが、呼称の変化などはきっと一般常識に当てはめれば大した変化ではないのだ。
誰もが慣れ、深まる冬にうんざりしながらそれまで通りに、しかし卒業を控えた受験生らしく忙しくやり過ごした。
寒い冬だったが、春を待ち遠しく思ったのかどうかは曖昧に霞んでいる。

最後の冬の入り口。
あの日、役目を終えてなお取り残された乗車券は、今も机の引き出しの中にしまってある。














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